『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』を観た

『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』を観た感想を記したい。

謎の三日月型の島を見つけたのび太は
「あれこそ僕が探していたユートピアだ!」と言い張り、
ドラえもんたちと一緒に
ひみつ道具の飛行船『タイムツェッペリン』で、
その島を探しに出かけることに!
色々な時代・場所を探してやっと見つけたその正体は、
誰もがパーフェクトになれる夢のような楽園<パラダピア>だった!
そしてそこで出会ったのは、何もかも完璧な
パーフェクトネコ型ロボット・ソーニャ。
すっかり仲良くなったドラえもんたちとソーニャだったが、
どうやらこの楽園には大きな秘密が隠されているようで・・・。
はたしてのび太たちは、その楽園の謎を
解き明かすことができるのか!?

あらすじ

事前情報とそこに生じた危惧

「理想郷」を舞台とし「パーフェクトネコ型ロボット」が登場するというのに、キャッチコピーは「僕らの〈らしさ〉が世界を救う」。この違和感ある組み合わせが打ち出された時点で、この物語の構図が「完全無欠/没個性」vs.「欠落を伴う/個性」になることは明らかだった。そしてこの時点で、2つの危惧が生じた。

ひとつは、『エヴァ』の二番煎じになるのではないか、という危惧である。完全な存在を生み出すことを志向する者の策略によって、人類全体が溶け合い、個性が消失する。この陰謀に立ち向かわなければいけない……。これはまさに『エヴァ』であり、人類補完計画を完全な理想郷の実現に、そして主人公をシンジからのび太に置き換えただけの話になってしまうのではないか。このことを不安に感じた。

そしてもうひとつは、使い古されたコミュニズム批判言説をなぞるものになるのではないか、という危惧である。理想の場所を実現したいという人々の純粋な意欲が、だんだん独裁者の手によって利用されていき、下層民にはディストピアが広がっていくだけである、理想の社会などを目指すのはおろかであり、現状の社会こそ最も美しくある種パーフェクトである……。このような描き方は、いかにもステレオタイプな共産主義国家像と資本主義国家賛歌であり、正確性を差し置いてもあまりにも古臭く、これからの未来を生きる少年少女に見せるものとしては新鮮味に欠ける。

とはいえ、見終わった今振り返ると、こうした危惧は杞憂だったと言っていい。しかしながら、部分的にやや危なっかしい部分があったことも確かである。それぞれの危惧がどのように解決され、どのように残っていたか、以下に記述したい。

まず考えたいのが、『エヴァ』との繋がりである。後に詳しく述べるとおり、今作は古今東西のさまざまな作品を意識した演出が随所に存在する。『エヴァ』も例外ではなく、序盤の戦闘(未遂)シーンで時間と空間を指し示すテロップが大きく表示され直後宇宙戦艦の類が威勢よく登場し、専門用語が早口で連発され、置いてきぼりになる観客と対照的に怒号をあげ熱っぽくなる戦闘員たちが描かれるところなどは、明らかに『エヴァ』っぽい、というか庵野英明っぽい部分であった。

しかしながら、それ以降『エヴァ』っぽさを感じさせるシーンは少なかった。というのも今作は、首謀者が最後ギリギリまで明かされないうえ、首謀者が発覚してすぐ、あまりにもあっけなく全世界の理想郷化という首謀者の目論見が頓挫してしまうため、首謀者が結局何のためにパラダピア(理想郷)を建設し、それを拡大しようとしていたかが明確に描かれない。そのため、陰謀に対峙して人類全体を救うというより、全世界の理想郷化が頓挫した後に空に浮かぶパラダピア(理想郷)がのび太たちの住む町に墜落する事態を防ぐ(身近な人を守るために戦う)という、場当たり的できわめて視野の狭い戦いが物語の山場となっており、まったくもって『エヴァ』的ではなかった。これは、映画の主なターゲットを考えれば当然のことである。『エヴァ』のような、哲学的ですらあるほどに視野の広い話は少年少女に理解できなさを生むだけであり、より身近な、実際の友人らを思い浮かべられるような物語にするというこの工夫はきちんと『映画ドラえもん』的である。

次に考えたいのが、コミュニズムへの態度である。今作では、それぞれ政治・科学・文化芸術を担う「三賢人」というものが登場する。『のび太と鉄人兵団』におけるアダムとイブの参照のように、ドラえもんの作品群においては聖書が参照されることがあるが、これはまさに東方の三博士を参照しているといえる。しかし、一般的な聖書の解釈においては、メルキオールが王権の象徴、バルタザールが神性の象徴、カスパールが死の象徴とされており、近代的な統治システムとの関連は薄い。むしろここでは、マルクス・レーニン主義において社会主義革命の担い手とされた農民(鎌で象徴される)・労働者(ハンマーで象徴される)・知識人(コンパスで象徴される)との繋がりの方が見出しやすい。

これはいささか強引なモチーフ解釈かもしれないが、他にもコミュニズムを意識させるようなセリフも存在する。それは、洗脳されて「良い子」になったスネ夫やジャイアンがのび太に対してご飯をあげようとするシーンで、「分け合う」ことの素晴らしさを説くところである。共有は素晴らしいという思想に染まるあまり、自分の取り分(私有分)を容赦なく減らしてしまうこのシーンは、かなりコミュニズム批判言説っぽさを感じた。しかし、これ以外のモチーフやストーリーラインにおいてコミュニズムを彷彿とさせる部分がなく、後述する通り今作はカルトによる洗脳を明確に描いていることから、ありきたりなコミュニズム批判に陥るのではという懸念も杞憂に終わった。

幅広い作品へのオマージュ

SF作家であるところの藤子・F・不二雄が創造しただけあって、ドラえもんの作品群には、他のSF系作品へのオマージュ演出が多くみられる。今作も例に漏れず、そのような演出が存在する。

ドラえもんたちはオンボロの宇宙船(タイムツェッペリン)を引き受け、スピードの遅さと小回りの利かなさに登場人物たちが不満を述べるものの、後々意外な活躍を見せる。これは『スター・ウォーズ』のミレニアム・ファルコン号と同じ描かれ方である。アウトローな賞金稼ぎが「正義」の側について活躍するという筋書きも『スター・ウォーズ』と類似している。

また、宇宙船内部のレトロフューチャー的装置群、たとえばパーテルノステル(19C後半誕生)あたりには、その時代を生き、SFというジャンルを築き上げたジュール・ヴェルヌやH.Gウェルズらに対するリスペクトを感じることができた。

他にも、のび太たちが理想郷を探す旅路の途中には万博的なパレードが登場するなど、『ソアリン:ファンタスティック・フライト』や『ビジョナリアム』といった東京ディズニーリゾートのアトラクションに近しいような引用の仕方で、名だたるSF作品に対するオマージュが表明されていた。しかしながら、科学技術賛美の文脈で引用されがちなそうした作品群を引用しておきながら、今作は「進歩」に対してどこか懐疑的である。そして、そこに不自然さを生じさせてない最大の立役者こそ、さりげなく挿入される竜宮城伝説だと私は考える。

序盤、世界各地に理想郷伝説があるという会話の中で日本の事例として挙げられるのが竜宮城伝説で、この時点では単に少年少女に理想郷という単語が理解しやすいように挙げただけであるかのように思われたが、実はまったくそうではなく、「いつでも元に戻れるはずだと信じ込んで好奇心で足を踏み入れるものの、一度入ってしまうと、元の世界にすんなり戻れなくなる」というパラダピア(理想郷)の恐ろしい側面を暗示するモチーフとしても機能しているのである。

そしてこのことからは、今作が山口昌男の提唱する「中心と周縁」の理論によって説明できるような強度のある物語になっていることも理解できる。例年、映画ドラえもんには異世界(=周縁)に行ったのび太たちが、何らかの戦いに勝利し、何かを得て元の世界(=中心)に戻るという構造が見られるが、今作は、戦いの決着がつかない段階で、のび太たちはドラえもん(※)とソーニャをパラダピア(=周縁)側に残して元の世界(=中心)に戻らざるを得ない状況に追い込まれる。その時点で持ち帰られるのは勝利の経験ではなく、むしろ危険地帯に友を置いてきてしまったという痛みである。痛みを伴う帰還、これこそがパラダピアと竜宮城をつなげるテーマであり、この作品の大きな特徴である。これは、全世界の理想郷化を目論む首謀者とそれに歯向かうのび太たちの間で板挟みになり、のび太たちと心を通じ合いながらも空間的には首謀者サイドに残って自らの責任を果たすキャラクターとしてのソーニャの存在が必要な理由でもある。

※ドラえもんを置いてきたというのは後に誤解だということが明らかになる

社会的事象との見事なリンク

カルトによる洗脳

今作では、パラダピア(理想郷)の描写において、

  • 施設に住む住民に対し、施設の上位層は基本的に丁重すぎる態度(ですます/様)で接するものの、住民がトップの言うことに反する言動をとる兆候を見せた場合には態度を豹変させる
  • 保護者のもとから子供を連れ去って洗脳し、施設から出ることを「本人の意志で」望んでいないという状況を生み出す
  • 施設にいる人同士の相互扶助・褒め合いという体裁で相互監視を浸透させる
  • 公権力による取り締まりを「悪者の邪魔」とみなし、施設に住む人々に反撃させる
  • 組織の構造が過度なほどに重層的であり、「とかげの尻尾切り」を繰り返してトップがどこまでも逃げられるようになっている
  • 上意下達が徹底しており、異口同音でトップの意向が広められ、トップの言うことに従順になっていくことを「幸せになること」「人間として立派になること」だと思い込ませる

といった部分が見られる。これらの特徴はカルトの手口と類似しており、今このタイミングで作品化することに大きな意義があるものになっている。しかしながら、こうしたテーマはきわめて難解であるためか、スネ夫やジャイアンが洗脳されて不自然な言動をしている恐ろしいシーンに観客席から笑いが起きており、カルトによる洗脳の不気味さを少年少女に伝えきるだけの描写はできていないように感じられた。

一方で、SF作品として、科学技術による行動の規制というニュアンスが入っているため、カルトを描いただけの映画になっておらず、また少年少女にとっての分かりやすさも一定程度担保されていたのは率直に評価できる。日焼けや日射病を防ぐ健康な光であると喧伝しながら、実際は人々の意識を捻じ曲げる恐ろしい光であるパラダピアンライトは、快適で使いやすい街づくりという体裁でホームレスを排除するようなHostile architecture(規制されていることを意識させないまま行動を規制することが可能なもの)を彷彿とさせるもので、示唆に富んでいる。

生産性と必要性

今作には、「トップにとって役に立たないものは不要である」という考えに基づいてドラえもんが虫にされてしまうシーンが存在する。ここでは、「完璧さ」を追い求める社会は、あっという間に「生産性があるかないか」という基準で存在の必要性を決定する発想が蔓延した社会になってしまうし、そうした社会はトップ(為政者)から見れば「トップの”道具”に値するか」で存在の必要性を決定することが容易であるという点で都合良いものだ、という旨が描かれている。

そして今作では、「役に立たない自分」を卑下するような考え方は誤っていると伝えることで、その考えが生じる前段階で内面化されているところの「役に立たない存在は排除されても致し方ない」という規範を否定し、欠点の多さに関わらず誰もが必要な存在であるということを説いている。また、今作は個性を讃えながらも、「誰しもある部分では長所を持つのだから、存在意義がある」という言説に陥っていない。この言葉は一見すると真っ当だが、結局のところ生産性の有無と必要性の有無を紐づけているという点において適切でないわけであって、「短所があるから美しく愛らしい存在になれるののであり、だから存在意義があるのだ」と訴える今作は、徹底的に生産性と必要性を切り離すことが意識されているといえよう。これも、現代日本の状況を考えれば大いに示唆的である。

対立は必要悪か?

作中、全世界の理想郷化を企んだ首謀者は、いつの時代も戦争に明け暮れる人間たちに嫌気がさしたことが企みの理由の一つであると述べる。ここでは、戦闘機が地上を空襲するアニメーションなど、首謀者の抱く人間に対する諦念への同情を煽るようなシーンが挿入される。宇宙船・タイムツェッペリンの描写において、やたらに(戦前の)「ドイツ」という国名が挟まれるのも、戦争の影という裏テーマを浮かび上がらせる。

今作で描かれているのは、対立を首肯することの困難さである。しかし一方で、対立を頑なに避けてユートピアを実現しようとするあまり強硬な策に出ると、むしろディストピアが完成してしまう。これを見て、私は2012年に放送されたドラえもん誕生日スペシャル『アリガトデスからの大脱走』を思い出した。これは、周りの人に叱られることに嫌気がさしたのび太が、もしもボックスを使用して「誰も叱らない世界」という名のディストピアを生じさせてしまうという話である。コミュニケーションの中で不快な気分にさせられること、もしくは不快な気分にさせることは絶対悪ではなく、むしろそれこそが人間の特徴であり、そういう「深い」コミュニケーションの中にしか健全な共同体は成立しえない。これはロボットと人間が共存する社会を描くドラえもんの作品群の一つのテーマでもある。

もちろん、『アリガトデスからの大脱走』で描かれる「叱る・叱られる」のような対立ならまだしも、今まさに起きている戦争のような対立を「人間はそういうものだからしょうがないよ」と無条件に首肯することはできない。しかし、その根底にある人間の欲望もろとも否定しだしてしまうと、明るい出来事を生み出し得るという人間のポテンシャルまで失ってしまう。その微妙なニュアンスを、今作は限られた時間の中で伝えきっている。

(以上)

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