白鳥之歌

日記(2026-02-08)

『はじめての近現代短歌史』を読んだ

「短歌史を知ることの何がうれしいのか。短歌史の醍醐味は、過去の短歌の読み方が分かるようになることです。それを時代ごとに積み重ねていくと短歌史ができあがります。短歌史とは秀歌の歴史のことです。その時代の色眼鏡をかけてみると、いままでピンとこなかった歌がおもしろく読めるようになるかもしれません」(p.1)

  • 良い説明だった。色眼鏡を知るというのは文学史を考えるうえで良い言葉。
  • 本書は、入門書とするには難解な語彙が多すぎて、いかがなものかという感じはある。そういう執筆姿勢とか、女性歌人の問題に対する意識が強すぎて万人に刺そうとしてない感じはあまり評価できない。

特に良かった短歌を抜粋したい。とりわけ好みだった作品や作者には★をつけている。穂村弘、前田夕暮、若山牧水、葛原妙子、正岡豊、松野志保が好き。

  • 上坂あゆ美「死んだらさ紫の世界に行くんだよ スナックはまゆうの看板みたいな」『老人ホームで死ぬほどモテたい』(p.12):死を蠱惑的に捉えている。
  • 加藤千恵「3人で傘もささずに歩いてるいつかばらけることを知ってる」『ハッピーアイスクリーム』(p.18):醒めた予感。
  • 尾崎まゆみ「破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける」『酸つぱい月』(p.19):震災をこう描くか。
  • (★)穂村弘「終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて」『シンジゲート』(p.22):孤立感が美しい。「穂村弘の歌における他者は主体の孤独を逆説的に描き出す装置です。掲出歌は一見すると、恋愛の甘美なシーンを切り取っているように見えます。しかし『ふたり』を観察しているのが作中主体だとすると、主体は『ふたり』による愛の円環の外側に佇んでいることになります。紫のランプに取り囲まれたロマンチックな景の中には、居心地の悪さと恋愛への希求が漂っています」との解説。
  • 永井陽子「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」『樟の木のうた』(p.25):「『べし』の活用形を上句いっぱいに並べることで、鼓笛隊のドラムのリズムが表現されているだけでなく、行進の規則正しさが『~すべし』という規律の語法を連想させつつ伝わってきます」との解説。不気味さがあって良い。
  • 塚本邦雄「戦死者ばかり革命の死者一人も無し 七月、艾色の墓群」『日本人霊歌』(p.32):「無名戦士は戦後に国からも見捨てられていること、その死は革命にも繋がらない無駄死にであったことなどが暗示されています」との解説。空しさがある。
  • (★)前田夕暮「向日葵は金の油を身に浴びてゆらりと高し日のちひささよ」『生くる日に』(p.43):「ひまわりを上からゆっくりと見下ろすような韻律が四句目で中断され『高し』で視点は突如として上を向きます。そこから天に輝く太陽まで視点を移していく動作が非常に印象的です」との解説。映像的。
  • 斎藤茂吉「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」『赤光』(p.44):「鳳仙花は、革命によって散る人命を暗示しているように思われます」との解説。死のイメージをうまく織り込んでいるのが良い。
  • (★)若山牧水「みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ」『海の声』(p.45):「文語によるこの宣言はハードボイルドな男性像を喚起します。かっこいいですね。自分自身を過激に演出していく様は浪漫主義の影響を感じさせます」との解説。強い孤独という感じがある。
  • (★)若山牧水「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まらずただよふ」『海の声』(p.61):「白鳥の描写に徹するのではなく、悲しくないのだろうか、と詠み手の感慨が詠み込まれています。写実は風景を客観的に描いたり風景に対して詠嘆したりするばかりですが、自然主義の歌人たちは感情を自由に詠み込む傾向があります」との解説。白鳥というモチーフが好き。
  • 吉井勇「くちづけを禁ぜられたる恋人はひと日ひと日におとろへにけり」『酒ほがひ』(p.63):ロマンティック。
  • 斎藤茂吉「歩兵隊代々木のはらに群れゐしが狂人のひつぎひとつ行くなり」『赤光』(p.75):「主治医をしていた患者が自殺したこと、代々木の火葬場まで棺の移送に同行し、その葬儀に立ち会ったことがテーマとなっています。当時の代々木原宿周辺は、青山練兵場や代々木練兵場といった旧帝国陸軍の施設がある、郊外の丘陵地帯でした。そうすると二首目は、茂吉が目にした景をそのまま描写しただけかもしれません。しかし、兵士と棺にはモチーフレベルでの強い連関があります」との解説。不穏さが流れているのが素晴らしい。
  • 釈迢空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」「雨のゝちに 雪ふりにけり。 雪のうへに 沓あとつくる我は ひとりを」『海やまのあひだ』(p.94):孤独感が素敵。
  • 柵木左衛「夜更け ヤット書き上げた統計 それが君 同僚の叱られる材料になるのを思へ。」『集団行進』(p.109):正確には空マスのところで改行されている。いかにもプロレタリア短歌という趣。
  • 石川信雄「数百のパラシユウトにのつて野の空へ白い天使等がまひおりてくる」『シネマ』(p.111):モダニズム短歌の例として紹介されている。解説には「彼らの作品は幻想的です。そして相互影響が強く、共通の語彙やモチーフが見られます。『壁のキリスト』『天使』『セント・エルモの火』など、西洋文化のモチーフも好んで用いられました」とのこと。天使というモチーフが好き。
  • (★)前田夕暮「野は青い一枚の木皿だ、吾等を中心にして遠く廻転する」『水源地帯』(p.115):おもしろい着眼点。
  • 齋藤史「暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた」『魚歌』(p.123):戦時下の歌として凄まじい。
  • 渡辺直己「突撃直前の吾が意識にふと浮かびしはアネモネの紅きひとひらなりき」『渡辺直己歌集』(p.124):「戦場の血と花の紅が取り合わせされている」との解説。血のイメージと紅い花を重ねるのが好き。
  • 小泉苳三「亡骸は敵と味方を分ためや弾飛ぶなかに曝されてあはれ」『山西前線』(p.126):「推量の助動詞『む』の已然形に反語の「や」がついたもので、亡骸になれば敵も味方もないことを婉曲的に表しています。戦後この歌集には非難が集まり、小泉苳三は立命館大学の教授職を辞任しました」との解説。凄みがある。
  • 折口春洋「かくばかり 世界全土にすさまじきいくさの果ては、誰か見るべき」『鵠の音』(p.131):重々しさ。
  • 中野嘉一「島のどこからともなく読経の声がきこえる今日も誰かが死んだ」『メレヨン島の歌』(p.132):メレヨン島の状況。死の日常化。
  • 中野嘉一「太平洋ノ防波堤タレ と誰がいつたのか 今 島は墓標ばかり」『メレヨン島の歌』(p.133):メレヨン島の状況。
  • 桃原邑子「O型の血潮のすべてを地は吸へりこのばらばらはわが生みし子や」『沖縄』(p.133):「台湾で長男が航空機のプロペラに巻き込まれて事故死したことを題材にとっています」との解説。記号化された人の死。
  • 近藤芳美「つらなりてあかり灯れる陸橋を歩める中に義足踏む音」『埃吹く街』(p.148):「傷痍軍人に着目したものです。傷痍軍人は日露戦争以来の社会問題でしたが、特に戦後は軍人恩給が打ち切られたこともあり(のちに復活)、その経済的困窮が取り沙汰されました。しかしこの歌では、義足の音は群衆の中に置かれています。 戦後社会の有様を即物的に、ただしさりげなく描く点に芳美の特徴があります」との解説。戦間期のヨーロッパというイメージの映像が浮かぶ。
  • 加藤克己「さしだせばわれの左手舞ひのぼりかなしみはかぎりなき空の青みに」『宇宙塵』(p.152):「加藤克己の出発点は戦前の定型短歌モダニズムにあります。第三歌集の『宇宙塵』では芸術派の幻想性を保ちつつ、次第文明批判の様相を呈するようになります」との解説。幻想的。
  • (★)葛原妙子「どの病室(へや)も花を愛せり人間のいのち稀薄となりゆくときに」『飛行』(p.158):1950年代の女性歌人の例として。「稀薄」という言い方が耽美的な感じがする。
  • 岡井隆「渤海のかなた瀕死の白鳥を呼び出しており電話口まで」『土地よ、痛みを負え』(p.167):前衛短歌の例として。白鳥のモチーフが好き。
  • 佐佐木幸綱「ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ」『群黎』(p.171):「佐佐木幸綱は明治期の和歌改良論で紹介した佐佐木信綱の孫です。第一歌集『群黎』の解説では詩人の大岡信がその作風を「男歌」と評しました。少しあとの話ですが、一九七一年には佐佐木幸綱を中心に、竹柏会『心の花』の男性歌人による合同歌集『男魂歌(だんこんか)』が出版されます。タイトルがマッチョですね。「男歌」は「女歌」の対立概念として、七〇年代初頭の女歌論でも議論されました」との解説。男のエロティシズムという感じがする。
  • (★)葛原妙子「噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々たりきらめける冬の浪費よ」『原牛』(p.182):「葛原妙子は『原牛』が中井英夫と塚本邦雄によって評価され、一人だけ「モダニズム歌人」から「前衛歌人」の列に加えられました。葛原妙子の歌については川野里子による優れた評論『幻想の重量』(元版二〇〇九、新装版二〇二一)があり、前衛短歌運動との距離感を明らかにしています」との解説。具体性と抽象性のバランスがちょうどいい。
  • 松田さえこ「硝子戸の中に対照の世界ありそこにも吾は憂鬱に佇つ」『さるぴあ街』(p.184):「戦後社会における女性の困難が反映されています」との解説。どこまでも救いがない感じ。
  • 山中智恵子「さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生れて」『みずかありなむ』(p.186):「山中智恵子は前川佐美雄の『日本歌人』門下から登場しました。同門に塚本邦雄や杉原一司、前登志夫がいます。引用した『紡錘』は第二歌集、『みずかありなむ』は第三歌集です。葛原妙子に対する「幻視の女王」や、塚本邦雄に対する「負数の王」のように、前衛短歌周辺の歌人にはしばしば二つ名が与えられています。山中は「現代の巫女」と呼ばれました」との解説。遊星というモチーフが好き。
  • 河野裕子「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」『森のやうに獣のやうに』(p.191):「四句目が四音字余りをしています。河野裕子の歌にはしばしばこうした字余りが見られます。」との解説。「たとへば」で始まる鮮やかさ。
  • 岡野弘彦「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」『滄浪歌』(p.198):「岡野の主なテーマは戦中体験と戦死者の鎮魂、そして万葉以前の古代神話です」との解説。踊りに「暗き」をつけるのが素敵。
  • 成瀬有「サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ」『游べ、櫻の園へ』(p.205):「私は初見で歌の良さがわかりませんでした。しばらくして、この歌のおもしろさは、思っている主体がいつのまにか小説の脇役になっていることだと気づきました。自分も花を見上げていて、サンチョ・パンサも花を見上げている。虚構の世界を現実に交錯させる点が、ぼんやりした思考の流れを継承しているのだと読んでいます」との解説。確かにそういう技巧性を感じる。
  • 栗木京子「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」『水惑星』(p.223):「京都大学を出て京都を離れる際のもので、青春の終わりを甘やかに詠んでいます」との解説。いかにも大学生という感じ。
  • 小島ゆかり「風中に待つとき樹より淋しくて蓑虫にでもなつてしまはう」『水陽炎』(p.224):「古典的な待つ恋を現代的に詠んでいます」との解説。シンプルなのが良い。
  • 高瀬一誌「うどん屋の饂飩の文字が混沌の文字になるまでを酔う」『喝采』(p.231):「この歌は音数が足りません。高瀬の歌は字足らずが特徴的で、他の追随を許さない独自の韻律を構築しています」との解説。ネタツイみたい。
  • 早坂類「そしていつか僕たちが着る年月という塵のようなうすいジャケッツ」『風の吹く日にベランダにいる』(p.241):「一人称として『僕』が用いられ、青春の傷つきやすくけだるい感覚が詠まれています」との解説。「そしていつか」から始まるのがすごい。
  • (★)穂村弘「子供よりシンジケートをつくろうよ『壁に向かって手をあげなさい』」『シンジケート』(p.244):「穂村の歌では結婚して子をなすという成熟への社会的圧力が拒絶されています。そして大規模な犯罪組織の意味もある「シンジケート」を示しつつ、やさしげに社会通念から外れることを教唆しています」との解説。名作。
  • 加藤孝男「指をもてマフィンを割ればこぼれたる二十世紀の殺戮の量」『十九世紀亭』(p.249):雑誌『ノベンタ』掲載の一例として。それとこれを結び付けるセンスがすごい。
  • 荻原裕幸「戦争で抒情する莫迦がいっぱいゐてわれもそのひとりのニホンジン」『あるまじろん』(p.253)詩への冷ややかな目線を内包している詩は好き。
  • 荻原裕幸「▼BOMB! ▼街▼▼街▼▼街▼▼街?▼▼街!▼▼BOMB!」『あるまじろん』(p.254):「「▼」を用いた歌では「記号短歌」と呼ばれたニューウェーブ期の技法が効果的に用いられています。この連作は発表当時から好評を得ました。記号短歌の実例には次のものもあります。恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 荻原裕幸『あるまじろん』(一九九二)にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎『ハレアカラ』(一九九四)ひらがなの連続は一首の中に適度な空白を生み出しています。しかしながら、視覚面で印象的な歌は最初に提示されたとき以上の驚きが生まれにくいため、これらは一回限りの技法です」との解説。記号短歌という概念を知った。
  • 井辻朱美「雪の降る惑星ひとつめぐらせてすきとおりゆく宇宙のみぞおち」『コリオリの風』(p.258):「内的宇宙(インナー・スペース)とは個別性と無限を内包した不思議な言葉です。これらの歌人にはそれぞれの世界観があり、短歌はその法則に従って記述されています」との解説。孤独感がある。
  • 早坂類「かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりで歩く」『風の吹く日にベランダにいる』(p.258):「内的宇宙(インナー・スペース)とは個別性と無限を内包した不思議な言葉です。これらの歌人にはそれぞれの世界観があり、短歌はその法則に従って記述されています」との解説。地球の自転のイメージが織り込まれている。
  • 大口玲子「形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかった」と二度言はせたり」『海量』(p.261):「大口玲子は一九九八年に角川短歌賞を受賞した竹柏会所属の歌人です。日本語教師の立場から語る短歌はポスト・コロニアリズムの視点を感じさせ、社会詠の旗手として注目されています」との解説。視点が面白い。
  • 吉川宏志「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」『青蝉』(p.262):「吉川宏志は梅内美華子とともに京大短歌出身の歌人で、永田和宏に代わって二〇一五年より塔短歌会の主宰となりました」との解説。
  • 吉川宏志「http://www.hironomiya.go.jp くちなしいろのページにゆかな」『夜光』(p.264):「上句は「ヒロノミヤ ドット GO ドット JP」とでも読むのでしょう。下句が七七ならば上句の破調はある程度許容できます。もちろん存在しないウェブページで、「ヒロノミヤ」という当時の皇太子の称号(だからgo.jpです)が組み込まれた表現は、サイバーパンクな近未来を連想させる力があります」との解説。サイバーパンク皇室短歌、面白い。
  • 田中槐「右耳に秦の始皇帝棲むというきみの秘密を打ち明けられて」「いくつかの出会いがあって、別れても、鼓膜のように震えて待った」『退屈な器』(p.268):「田中の歌は連作「耳」から引きました。おそらく朗読用に書き下ろされた作品です。一首目が連作前半の歌で関係の始まりが暗示されています。二首目に引いたのは連作最後の歌で、関係の終わりが暗示されています。関係性というテーマの反復、耳のモチーフの繰り返しなど、この連作には田中自身がインタビューで語っていた朗読向きの作品の特徴を見つけることができます。」との解説。「いいいいい/いんおいおうえい/ううおいう/いいをいいうお/ういあえあええ」という母音の偏り方が面白い。
  • (★)正岡豊「身体も天体もつきつめるなら同じか 青きガス管のカーブ」『四月の魚』(p.278):「二句目三句目の句跨がり、四句目の句割れなど不安定な韻律感覚。また身体と天体をガス管という筒のイメージで繋ぐ飛躍の大きさは、今でも褪せることなく魅力を放っています」との解説。宮沢賢治みたい。
  • 黒瀬珂瀾「咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見た」『黒耀宮』(p.280):大辻隆弘が『未来』2003年2月号「松村発言を否定する」にて挙げた歌人として。色気がある。
  • 桝屋善成「色のない夢ばかりみし手にのこれ今朝摘みとりしローズマリーの香」『声の伽藍』(p.280):大辻隆弘が『未来』2003年2月号「松村発言を否定する」にて挙げた歌人として。視覚的・嗅覚的にきれい。
  • 小島なお「噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし」『乱反射』(p.283):「角川短歌賞を最年少(一八歳)で受賞した際の表題歌で、広く知られています。また高校生から大学生にかけての清純な感覚を描いた本歌集は歌壇内外の話題となり、映画化もされました」との解説。この危なっかしさが青春という感じ。
  • (★)松野志保「もしぼくが男だったらためらわずに凭れた君の肩であろうか」『モイラの裔』(p.285):「松野の歌では主体と「君」が同性か異性かについて二通りの読みを考えられます。掲出歌は同性愛とも異性愛とも、友情とも恋愛とも判別がつかない曖昧な関係性を描いたものです。松野はそうした関係性を描くことに長けており、少女漫画やボーイズラブ愛好者に支持されています」との解説。本当にこの通りで。素晴らしい。
  • 大口玲子「虹ふたへにかかるこの世を生きながらつねに分断を強いられている」『桜の木にのぼる人』(p.294):震災に関する歌として。福島の風景を思い出す。
  • 斉藤斎藤「三階を流されてゆく足首をつかみそこねてわたしを責める」『人の道、死ぬと町』(p.295):震災に関する歌として。こういう虚構性は許されてしかるべきだと思う。
  • 平岡直子「行き先の字が消えかけたバス停で神父の問いに はい、と答えた」『みじかい髪も長い髪も炎』(p.299):「平岡の歌の下句から連想されるのは結婚式の場面です。「行き先の字が消えかけたバス停」は将来への見通しが立たないことを思わせつつ、それでも「はい」と答える主体は、何かしらの信じる道を見つけたのではないか」との解説。結婚式のモチーフ好き。
  • 吉田恭大「飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬も一瞬のこと」『光と私語』(p.306):「吉田恭大の歌は永井祐などの系譜に置くことができ、句読点により瞬間性が強調されています」との解説。「つぎに飼う犬の名前はクロにする同名の犬は全部嘘になる」(京大短歌28より)を思い出す
  • 藪内亮輔「傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出でゆく」『海蛇と珊瑚』(p.307):「大森と藪内は硬派な文体で世界を俯瞰する幻想を模索しています」との解説。対比が綺麗。
  • 川野芽生「・と・に創造(つくり)たまへり――と聞きしかどそのいづれにも遭ひしことなし」『Lilith』(p.317):「初句と二句目は創世記からの引用で、空白部分には「男」と「女」が書き込まれるはずです。そのどちらにも遭遇したことはないと語るのはなぜでしょうか。おそらくここで「・」として名指されている「男」「女」は、現実に存在する個別の人間ではなく、「男」「女」それぞれの純然たる理想像、いわゆるイデアと考えることができます。従って、三句目以下の語りには、人間を「・」に沿う存在として矯正する強制力への批判が読み取れます」との解説。これはすごい。
  • 田村穂隆「わたしから父が産まれるのが怖いわわたしは怒鳴ることができない」『湖とファルセット』(p.321):「男性自認の立場から自身の男性性(マスキュリニティ)に懐疑を示したものです。将来、暴力的な父のような身体を自身の上で再生産してしまうことへの恐怖が詠まれています。これらの歌は、セクシュアリティへの根本的な懐疑を詠んでいる点で、小佐野の表現よりも規範性(ノーマティビティ)を攪乱する力があります。田村の歌には家族制度への懐疑も織り込まれている点も見逃せません」との解説。自分の中の男性性への恐れという、非常に共感できる歌。

追加で松野志保について調べたら下のような2017年の記事が出てきた。葛原妙子の名前も出ていて笑ってしまった。好みが一貫している。耽美性をある程度維持したまま、社会制度とかと絡めてリアリティを出せるかというところ(『美しい彼』がある種前時代的なBLなのに対して、『未成年』がリアリティをも意識していたようなイメージ)でこの作風に挑戦してみたさもある。

先日テレビでNHK短歌を見ていると、黒瀬珂瀾がBL短歌として松野志保の歌を紹介していた。興味をもったので『桜前線開架宣言』を開いてみると、次のような歌があった。

好きな色は青と緑というぼくを裏切るように真夏の生理   松野志保 もしぼくが男だったらためらわず凭れた君の肩であろうか 今はただぼくが壊れてゆくさまを少し離れて見つめていてよ 戒厳令を報じる紙面に包まれてダリアようこそぼくらの部屋へ 雑踏を見おろす真昼 銃架ともなり得る君の肩にもたれて 

最初の三首はわかりやすいと思うが、四首目はレジスタンス少年二人を軸にした連作の一首だそうだ。二首目と五首目は直接関係ないが、五首目では「君の肩」は戦争に向かいつつある社会では銃をかつぐものともなりうるという批評的な想像力も働いている。 山田航は『桜前線開架宣言』の解説でこんなふうに書いている。 「いろんな種類の美学を許容するのが現代短歌のいいところであるが、この松野志保はとりわけ異色の美学を追求する歌人だ。凜としたアルトの響きでの詠唱が聞こえてくるような中性的な文体。本人は女性であるが『ぼく』という一人称を好んで歌の中に用いており、少年同士の愛の世界を表現しようとする。いわば『ボーイズラブ短歌』のトップランナーである」 そして山田は「ボーイズラブ的」な短歌は葛原妙子や春日井建にもあったが、松野の新しさは「社会的弱者が変革を求めるときの暴力性に美のあり方を見出そうとしている点」だと言っている。 そういえば春日井建の『未成年』にはこんな歌があった。

両の眼に針射して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに   春日井建 男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ

獄中の友への同性の恋という設定である。胸に抱かれる鳩に同一化する恋情はとてもエロティックだ。

「BL読みというのはどんなふうに読むのですか?」 ある時なかやまななに訊いたことがある。 彼女が私の川柳もBL読みできると言ったので、びっくりした。

プラハまで行った靴なら親友だ   小池正博

主語は書いていないのだが、この親友同士は男性で恋愛関係にあると妄想するわけである。プラハまで行ったのだから、そこで何かがあったのかもしれない。

BL短歌誌「共有結晶」は手元にないが、BL俳句誌「庫内灯」は文学フリマで手に入れて持っている。「庫内灯」1号(2015年9月)に石原ユキオが「BL俳句の醸し方」を書いている。 「BL俳句に決まった読み方はありません。 漫画や小説を読むように、あるいはゲームや映画やミュージカルのワンシーンにうっとりするように、気軽に楽しんでもらえたらうれしいです」 そして石原はBL俳句を楽しむコツとして「情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!」というミッションを与えている。 この号には金原まさ子と佐々木紺の往復書簡も収録されていて興味深い。

少年を食べつくす群がって蝶たち     金原まさ子

この句について金原は、20年くらい前に見た「去年の夏、突然に」というアメリカ映画の物語から作ったもので、本当にどぎついでしょう、と述べたあと「そう言えば、そちらのBL俳句には性の匂いがいたしませんね。すごく清潔で私ははずかしいです」と書いている。「BLは清らかですね」 金原は「庫内灯」2号(2016年9月)には作品を寄せている。他の作者の句もまじえて紹介する。

ふかい歯型の青りんご視てとり乱す    金原まさ子 Tシャツや抱きしめられて絞め返す    石原ユキオ 短夜を同じ湯船や少し寄る        岡田一実 どちらかが起きてどちらかが眠る     なかやまなな 奈落から隧道そして春灯へ        松本てふこ 彼の怒りに触れたし白百合を噛む     実駒

5月の「句集を読み合う 岡村知昭×中村安伸」(関西現俳協青年部)で仲田陽子が中村安伸『虎の夜食』のBL読みを行ったときもびっくりしたが、BL短歌・BL俳句は徐々に浸透してきており、その射程距離は思ったより広いようだ。

銃架ともなり得る君の肩―BL短歌・BL俳句のことなど https://daenizumi.blogspot.com/2017/09/blbl.html

これらの選び方をもとに、私の好きな傾向についてGeminiにまとめてもらった。「現実と異界の境界に立つようなモチーフへの執着」というのは言い得て妙だと思う。

まず第一に、孤独や死、あるいは狂気といった負の要素を、感傷的にではなく、ある種の「美的な構造物」として捉える傾向がある。穂村弘の「終バス」や斎藤茂吉の「狂人のひつぎ」、あるいは塚本邦雄の「革命の死者」に対する反応に見られるように、事象そのものの悲劇性よりも、それが切り取られた際の映像的な美しさや、そこに漂う不穏な空気感を肯定的に評価している。感情に溺れるのではなく、対象と距離を置いたハードボイルドな視線、あるいは乾いた叙情を好んでいると言える。 第二に、具体物と抽象概念の架橋に対する鋭敏な感覚がある。正岡豊のガス管と天体の対比や、前田夕暮の向日葵の視点移動、井辻朱美の宇宙のイメージなどがそれに当たる。現実の風景(ガス管、病室、電話口)の中に、宇宙や死といった超越的な概念が滑り込んでくる瞬間、あるいはその逆説的な結びつきに面白さを見出している。これは「白鳥」「天使」「遊星」といった、現実と異界の境界に立つようなモチーフへの執着とも整合する。 第三に、ジェンダーやセクシュアリティに対する批評的な関心が、短歌の読みにおいても強く作用している。田村穂隆の男性性への恐怖や、松野志保の性の曖昧さ、川野芽生の記号的な男女観への言及は、単なる好悪を超えて、社会的な規範(ノーマティビティ)を揺るがす表現としての短歌を希求していることを示している。自身の属性や社会的な役割に対する違和感を言語化している作品、あるいは既存のコードを攪乱するような作品に対して、切実な共振が見られる。 最後に、短歌という定型詩が持つ「虚構性」や「実験性」への理解である。斉藤斎藤や荻原裕幸の記号短歌、吉川宏志の架空のURLの歌に対する反応からは、短歌を単なる私小説的な告白の場としてではなく、言語を用いた構築物、あるいはシステムへのハッキングとして楽しもうとする知的な態度が窺える。 総じて、映像的な喚起力が強く、かつその背後に死や性、社会構造に対する批評的な視座が埋め込まれた作品を好む傾向にある。甘美なロマンティシズムを解する一方で、それを冷徹に解体する知性を同時に持ち合わせているのが特徴である。

気になった解説もまとめておきたい。

  • 題詠とは(p.53)

題詠の『恋』は平安時代の文化に基づくものです。平安時代が男性が女性の家に通う形で恋愛が進展しました。従ってお題が『忍ぶ恋』なら、男性が女性への恋慕の情を周囲に秘めておかなければならないつらさを詠みます。お題が『待つ恋』ならば、約束した男性がいつまでも現れない女性のつらさを詠みます。これは短歌の作り手のジェンダーにもかかわらず、お題によって設定されます。(※引用者注:鳳)昌子の恋愛歌では、そうした形式的な感情ではなく、女性が男性をリードするような、力強い感情が詠まれています。これが自我の発露であり、明星派の革新的な点でした

  • 歌壇とは(p.76)

『歌壇』とは何でしょうか、歌壇とは、新聞・雑誌・書籍などの出版システムに、誌友のネットワークを組織化した短歌結社、つまり歌人のコミュニティが接合したものです

  • 歌謡曲への接続(p.227)

ひとまず、現在ライトヴァースと呼ばれているものの実例をいくつか挙げましょう。

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで 仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』(一九八五) さくらさくらいつまでも待っても来ぬひとと 死んだひととはおなじさ桜! 林あまり『MARS☆ANGEL』(一九八六) 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵万智『サラダ記念日』(一九八七) ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』(一九八七)

仙波龍英の歌は当時渋谷に存在した三つのPARCOを扱ったものです。林あまりの歌は歌謡曲を思わせます。実際はこの歌を含む連作から林によって歌謡曲「夜桜お七」が制作されました。

  • 穂村弘について〔1〕(pp.245-247)

いずれにせよ、荻原の文章は大きな反響を呼び、『短歌研究』九一年一一月号では特集「現代短歌史のニューウェーブ」が組まれることとなりました。そこに収録された誌上シンポジウムの発言を拾ってみます。司会が小池光、参加者は荻原裕幸、加藤治郎、藤原龍一郎でした。

”小池 荻原さんは〔中略〕今日の若い世代の一見軽薄なことばあそび風な作品群に、主体主義からの訣別を見ています。いわばポストモダンからみたモダン批判です。〔中略〕 加藤 口語の問題というのは、前衛短歌=現代短歌と言い換えてもいいのですけど、現代短歌の最後のプログラムだったのではないか。〔中略〕穂村の文体というのは〔中略〕実際はまったく孤独な一人の人間の作業、あるいは操作であって、ここには、文体として会話が入ってきて、他者が侵入すればするほど孤立していくというメカニズムがある。 ” 誌上シンポジウム「現代短歌のニューウェーブ 何が変わったか、どこが違うか」 『短歌研究』一九九一年一一月号

この誌上シンポジウムでは、荻原裕幸の主張を小池光と加藤治郎が短歌史的に位置づけようとしています。特に加藤の発言は〝口語は前衛短歌の最後のプログラム〟としてキャッチフレーズ化し、ニューウェーブにおける文体変革の象徴として扱われるようになりました。 穂村弘の孤独に注目した加藤治郎の発言を検証してみましょう。穂村の歌を引きます。

”体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい” 穂村弘『シンジケート』(一九九〇)

加藤の語る穂村の新しさとは、引用されている会話体が実のところ文体として実在しない誰かに喋らせているもので、そのことが穂村の孤独を浮き彫りにしている点です。この読み方は作品から歌人の内面を読むという主体主義に陥っているようにも見えつつ、作中主体ではなく、その背後に存在するメタな虚像としての「作者の顔」を想定しなければならない点では画期的かもしれません。その会話体を導入するために必要なのが口語なのでしょう。確かに「ゆひら」も「ハミガキしぼりきるわよ」も共感ではなく断絶を感じさせます。そうした孤独がわりあい直裁に表現された歌として、「サバンナの象のうんこ」は読むことができそうです。

  • ニューウェーブ短歌について(pp.257-258)

また、穂村弘によるニューウェーブ短歌分析もここで紹介しておきます。穂村は「しんしんとひとりひとりで歩く〈わがまま〉について」の中で、ニューウェーブに共通する特徴である「〈わがまま〉」のことを、以前の短歌が共有していたはずの共同体への感覚が薄れていき、歌人それぞれが「ひとりの信仰」を追求している結果、「作品世界の全体がインナースペース化している」現象だと語っています。

 この文章の初出は角川『短歌』一九九八年九月号の口語と文語に関する特集で、発表当時から話題となりました。また穂村弘による入門書『短歌という爆弾』(二〇〇〇)にも収録されており、文章自体は後の世代にも広く知られています。

  • ポエトリーリーディングについて(pp.266-267)

ところで、世紀末の動きとしては朗読の盛況も無視することができません。世紀末に端を発する朗読の動きはそれ以前とは比較にならないほど白熱していきます。 一九九七年には武蔵大学の学園祭にて岡井隆、岡野弘彦、荻原裕幸の三人が朗読イベントに招聘され、パフォーマンスを実施しました。これをきっかけに「詩のボクシング」などのポエトリーリーディングと短歌が架橋され、翌九八年からは朝日カルチャーセンター横浜教室で岡井隆の短歌講座「朗読する歌人たち」が始まります。岡井の講座にゲストとして招かれたことをきっかけに朗読をはじめる歌人もいたようです。岡井と繋がりのない短歌実作者たちも、こうした状況に影響されて朗読イベントや朗読CD制作などをはじめました。 こうした動きの結節点が、岡井隆門下の田中槐企画により二〇〇一年から〇四年まで四回開催された「マラソンリーディング」です。この場では、歌人や詩人たちが入れ替わり立ち替わりステージに立ち、それぞれのスタイルで朗読を実施したようです。なお、『短歌ヴァーサス』九号(二〇〇六)には特集「短歌朗読の現在」が掲載されており、年表など朗読関係の動きを辿ることができます。 朗読の盛況は短歌作品にも影響を与えました。田中槐はインタビューにて朗読向きの作品の特徴として、一首の中でのリフレインや連作におけるキーワードの繰り返しなどを指摘しています(田中槐インタビュー「朗読ムーブメント」『短歌WAVE』2002 SUMMER創刊号)。

  • 秀歌の構造について(pp.270)

二〇世紀最後の年には穂村弘による入門書『短歌という爆弾』(二〇〇〇)が刊行されました。本書はその後の世代に計り知れない影響を与えています。特に第三章「構造図」は、短歌史上のいくつもの名歌を引きながら、名歌が名歌たる構造を解説したもので、例えば短歌には共感=シンパシーだけでなく驚異=ワンダーが必要であり、そうした歌の「クビレ」が読者を感動させることを解説した第三章第一節「麦わら帽子のへこみ 共感と驚異」は、繰り返し歌会の場で引用されることとなりました。

  • 穂村弘について〔2〕(pp.270-271)

目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき 玄関のところで人は消えるってウサギはちゃんとわかっているの 夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(二〇〇一)

文体の特徴としては字足らずが散見されることと、音写に近い口語の使用を挙げられます。かつて穂村は対談の中で、「定型のなかに自分の言葉をいわば不自然に自覚的に持ち込む意識」があり、「文語よりも自然に口語は使えるというのは錯覚だと思う」と語っています。しかしながら、近年登場しつつある新しい書き手には「口語で短歌を書くということが不自然である」という感覚が希薄化した」と、ニューウェーブ世代とその後の世代の差異を示していました(対談「口語短歌の現在、未来」『歌壇』一九九九年一二月号)。するとこの歌集は、それまで台詞として「」付きで記述されていた「不自然」な口語を、「」を外して自然な口語として模擬動作させたものではないか、とも考えることができます。それを可能にする仮想マシンとして「まみ」を捉えれば、穂村の歌人論を書くにせよ、口語短歌史論を書くにせよ、『手紙魔』の意義は増していきます。

  • マイノリティ性(pp.320)

一つは小原奈実による「沈黙と権力と」(『短歌』二〇一九年一〇月号)です。この論は一二〇〇字程度の短いものですが、短歌でマイノリティ性を描くことの困難に言及したため、大きな話題となりました。また『ねむらない樹』vol.4(二〇二〇)には座談会「短歌とジェンダー」が掲載され、その「常識」が読み手側の問題として再検討されています。ここからは短歌におけるクィア批評の問題が派生します。

興味深かった問題提起、論争を取り上げたい。

  • 写生について(p.125)

これらの歌はニュース映画をもとに作られたものです。当時はテレビがありませんから、映像ニュースは映画館で映画本編にあわせて上映されていました。映画好きの茂吉は映画を題材にした歌を多く残していて、戦時中はその傾向に拍車がかかっています。はたして、映画を観て短歌を詠むことは『写生』や『実相観入』に矛盾しないのか。茂吉自身は次のように語ります。

”映画は〔中略〕或る程度まで信用する部類です。実際、眼の前に見るんですから、その範囲で、私には映画といふものはたいへん有難いんです。しかし、現地から来る歌は、もツと真実ですから、(幾らか誇張があっても)それでもわれわれにはいゝんです。” 座談会『出征歌人に話を聞く』『短歌研究』一九三九年二月号」

  • コミュニティについて(p.139)

戦後の短歌否定論のさきがけは、小田切秀雄(おだぎりひでお)による「歌の条件」です。小田切は「結社内での毒にも薬にもならぬ仲間ぼめと結社外での縄張り争い」を批判し、そのような状況では「歌はいつまでも芸術になどならぬ」と主張します。時系列的には小田切が先ですが、この点は桑原の論と共通しています。そしてこの文献は「純粋読者」の由来としても有名です。該当箇所を見てみましょう。

”人生の片隅のしょぼ〱としめつぽい気持を三十一文字の中に何とか恰好をつけてみたり、〔中略〕——すべてかういふ愚劣さを歌の世界から悉く断呼として追払はうではないか。〔中略〕かういふ要求を掲げることで歌の作者の数が減るものなら減らせるだけ減らしてしまふがいゝ。いまゝでは歌の「作者」が多過ぎた。そして純粋の読者(作者を兼ねぬ)などゝいふものはありはしなかつた。本当の芸術になつてみれば、純粋の読者はおのづと生れざるを得ない。” 小田切秀雄「歌の条件」『人民短歌』一九四六年三月号

  • 虚構性について (pp.173-174)

虚構論で問題となったのは、『斧』に所属していた平井弘(ひらいひろし)の作品です。平井は歌集『顔をあげる』で戦争による兄の死を描きました。ただし、この兄は実在しません。小瀬洋喜は、肉親の死を虚構することを、近代短歌のタブーを打破したものとして賞讃しました。兄の自爆を怒りし誰もいぬことのふと異様にわれに鮮らしき 平井弘『顔をあげる』(一九六一)しかし、岡井はその効果に懐疑的です。そうした単純な虚構は、塚本邦雄や寺山修司の作中主体における虚構に及ばず、私性の議論を進展させるものではないと主張します。肉親の死を虚構することに反対しているのではなく、賞讃するほどの効果がないと指摘していることに注意してください。そもそも、兄の死を仮構する連作は春日井建の『未青年』(一九六〇)にも収録されています(連作「水母季」)。そして最後に、「私性」とは何かについて、現在まで幾度となく引用されている次の考えを示しました。

”所詮、短歌は〈私性〉を脱却しきれない私文学である。などとあきらめたような言い方をする人があるが、こういう無気力な受身の肯定も、他方また、短歌に〈私性〉を脱した真に客観的な人間像の表現を期待するオプチミストも、結局、短歌の生理にくらい点においては同罪でしょう。短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前々回に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。 ” 岡井隆「〈私〉をめぐる覚書(三)」『短歌』一九六二年七月号 

岡井は短歌によって生じる「ただ一人だけの顔」を予想した上で、表現に利用しなければならないと語ります。はたして、作者と作中主体の関係をどのように構築すれば効果的な表現となるのか。六〇年代以降、この問いをめぐっては岡井の考えが参照され続けています。

  • 政治的な歌について〔1〕(pp.194-195)

さて当時、政治的活動から距離を置いていた学生は「ノンポリ」と呼ばれました。この言葉を含むよく知られた歌論に、村木道彦の「ノンポリティカル・ペーソス」があります。村木は福島泰樹の『バリケード・一九六六年二月』から二首引き、福島の歌に次のような評を与えています。

”君はこの作品のなかで、ただの一度も君の思想を納得させようとはしなかった。ひたすらひとつの思想・行為に打ち込む横顔をぼくらに見せただけだった。君の横顔がいかに美しく、いかに悲愴で、いかに決意と誇りに満ちていたとしても、それがそのまま君の思想の正しさの証明だ、などという、甘い政治と文学の統合論など、君自身信じてはいないだろう。そこにあるのは、自分自身にまず刃を向けるという激しさと一途さ、さらにその激しさと一途さが示す〈生〉の燃焼なのだ。 ” 村木道彦「ノンポリティカル・ペーソス」『短歌』一九七〇年三月号

「戦闘的文学者集団」の作品が、思想を読者に納得させるのではなく、思想に基づいた行為に打ち込むことの美しさのみを見せているというのは悲哀(ペーソス)に満ちた皮肉でしょう。身体が状況の分裂に引き裂かれるように、政治と文学もまた引き裂かれ、短歌の中には歌人の実存のみが残ります。七〇年代の短歌の流れは、個人と政治の繋がりを解除する方向に向かいました。

  • 男歌と女歌(p.220-221)

さて、八三年のシンポジウムの盛り上がりを受けて、一九八四年には再び女性だけがパネリストを務めたパネルディスカッションが開催されます。このシンポジウムの記録は、『歌うならば、今 ‘84年京都春のシンポジウム』(一九八五)として出版されています。パネリストの留任は阿木津英のみで、新たに沖ななも、今野寿美、松平盟子が登壇しています。 阿木津はシンポジウムの中で「女歌」を「じょか」と発音していました。女流歌人に付加されてきた枷(かせ)のようなイメージを払拭し、女性による短歌を革新する意図から用いられたものです。この点は「女歌(おんなうた)」の議論との連続性を重視する今野寿美らとは立場を異にしています。 また阿木津と今野は、文体の醸し出す性とは何かについても興味深い応酬を交わしています。この話題は母性の定義をめぐる議論から導かれました。文体の醸し出す男性性の例として、今野は高野公彦の歌を引き、風景描写が男性性を感じさせると語ります。対する阿木津は、性別を感じさせる抒情など理解できず、そぎ落としたいと語り、男性性・女性性はそれぞれどのように定義できるのかと問います。 今野は社会的な対立概念と生理的な違いの総体だと答えます。阿木津はそれに満足しません。曰く、男性と女性は「生理のレベルがむしろ連続しているのに、社会的なレベルでははっきり対立」させられている。「生理的レベルの違いと社会的レベルでの違いを区別してゆくかということが問題(傍点引用者)」である、と。これは生理的性別(セックス)と社会的性別(ジェンダー)の区別不可能性を問う点で、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(原著一九九〇、邦訳一九九九)で扱われた問いに近接しています。

  • 同時代性について(pp.233-235)

ここでは俵万智と既存の短歌文脈を接続する評論のうち、重要なものを二つ紹介しておきます。 一つめが川野里子「新しさが発酵するとき 普遍性をめぐって」です。川野はこの評論のはじめに本節冒頭で引いた佐藤通雅の発言に言及し、俵万智の登場によって「何が終わり何が始まったというのだろうか」と問います。そこから、俵万智の新しさと、短歌の新しさについての考察を試みています。 川野の挙げる俵万智の特徴は「言葉のアナクロニズム」「会話体」「新しい固有名詞」の三点なのですが、それぞれの項目についてはすでに作例があります。しかしなぜ俵万智が新しいものとして受容されたのか。この一歩進んだ問いに対して、川野は「現代的な技法」に「普遍的な心情」がアンバランスに組み合わせられていることで、読者が安心しつつ俵の歌を読めるのだと分析します。これを受けて書かれた短歌の新しさに関する結論を引きましょう。

”言葉の新しさにも見馴れたとき、新鮮さは急速に目減りしてゆく。〔中略〕普遍性の表面をなぞってゆくだけに終わらせてはならない。言葉が普遍性の衣装としてでなく、普遍そのものとして深く個人の胸に抱かれるとき、新しさは普遍性の内側でゆっくりと発酵しはじめる。” 川野里子「新しさが発酵するとき 普遍性をめぐって」『現代短歌雁』一号(一九八七)

前節で引いた「カンチューハイ」の歌は新鮮さが目減りした代表例です。当時を知る人にとってのカンチューハイがいかにハイカラであったか語られても、にわかに信じることはできません。しかし次の歌はどうでしょうか。

まちちゃんと我を呼ぶとき青年のその一瞬のためらいが好き

この歌では、川野が挙げる「言葉のアナクロニズム」、つまり「我」という古めかしい語が使われていますし、また「会話体」でもあり、「まちちゃん」という固有名詞も含まれています。しかし詠まれているのは恋愛のはじめの普遍的な感情です。『サラダ記念日』から数十年を経てなお鑑賞されているこの歌は、普遍性の内側で発酵した新しさだと言えそうです。 俵万智と既存の短歌文脈を接続する評論のうち、もう一つ重要なものが、谷岡亜紀「『ライトヴァース』の残した問題」です。この評論では、俵万智や仙波龍英、加藤治郎の歌に含まれる会話体や固有名詞が、既存のハイカルチャーとしての文学ではむしろ普遍性を希求するために避けられていたことが指摘されています。それを受けて谷岡は次のように結論づけます。

”「現代若者言葉」によって表記された一連の作品は、「普遍性」をある程度まで犠牲にしても、より「同時代性」「共時性」に賭けようとする姿勢に基づいていると考えることができる。〔中略〕サブカルチャーがこういった形で文学の表面にせり出して来るのは、逆に言うとメインカルチャーがある意味で時代に対しての効力を弱めているという事の裏返しだと考えられる。つまり、こういった「ライトヴァース」をわれわれは、既成の短歌に対する一種のアンチテーゼとして読む必要があるのではないか。” 谷岡亜紀「『ライトヴァース』の残した問題」『短歌研究』一九八七年一〇月号

谷岡は俵万智の登場および若い世代の短歌を「既成の短歌に対する」「アンチテーゼ」と呼び、文学上の地殻変動として捉えています。仮に作歌している本人たちにその自覚がなくとも、時代の趨勢によって変化は起こっています。この論は一九八七年の現代短歌評論賞受賞作でした。

  • 東日本大震災について(pp.293-297)

二〇一〇年代は二つの災厄に挟まれた時期です。一つが二〇一一年の東日本大震災。もう一つが二〇二〇年以降のコロナ禍です。前者では、誰が当事者なのかをめぐって、地方と都市部の格差も内包しつつ当事者性に関する議論が行われました。後者では誰もが当事者となりました。 八〇年代後半の社会詠隆盛以降、社会的に大きな事件があると、新聞歌壇の投稿欄や結社誌、総合誌の作品欄には、歌の良し悪しはさておきその事件に関する歌が多く掲載されます。震災後は、地震や津波や原発事故の凄惨さを描いたものと、気の毒な被災者を励ますものと、二つの典型的な歌が多く現れました。その現状を、福島で地震に立ち会った歌人の高木佳子(たかぎよしこ)は次のように皮肉っています。

三・一一以降、という。[中略]だが、繰り返される「巨大な題詠大会」を目にして、原子炉建屋の爆発よろしくこっぱみじんに壊れたと思った歌の世界の価値観は、それほど以前と変わらなかったように見える。

「三・一一」こと東日本大震災は日本社会の転換点としてしばしば語られます。しかし社会詠は二〇〇七年の社会詠論争のころから「題詠大会」のまま変化がない。それゆえ高木は事実の前に立ち止まり、誰もが当事者として震災と向き合うことを訴えています。 当事者性への意識は、ある人が正当な当事者であるかという意味も同時に生み出しました。だからこそ二〇一二年の短歌研究新人賞を受賞した鈴木博太の連作「ハッピーアイランド」は(タイトル自体が福島もとい「フクシマ」を言い換えたものです)、選考座談会の議論において当事者か否かが議題となりました。 東日本大震災は、被災者を現地にとどまった人と、被災地から他の地域へ避難した人に分断しました。現地にとどまった人の作品にはときに避難者を非難するものも見られます。移住した歌人としては、石垣島へ移住した俵万智のほか、宮崎へ移住した大口玲子も挙げられます。大口の歌を引きましょう。

震災の話を皆が聞きたがり話せば満足そうに帰りゆく 「福島の人に居ませんか」福島でなければニュースにならない 虹ふたへにかかるこの世を生きながらつねに分断を強いられている 大口玲子『桜の木にのぼる人』(二〇一五)

カトリック信徒としての深い内省を含む本歌集を震災の文脈で紹介するのは口惜しくもありますが、掲出歌は被災者へ向けられるまなざしと、人々が分断される様を描いたものとして優れています。 また、震災における当事者性を突き詰めると、死者以外に当事者はいなくなります。この考えをさらに進めると生き残ったことへの罪の意識に繋がります。この意識は終戦直後の意識との類似点を見出すこともできます。この点について、震災を死者の視点で描いた斉藤斎藤の連作「証言、私」は挑戦的です。

三階を流されてゆく足首をつかみそこねてわたしを責める 撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ 斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(二〇一六)

連作の初出は震災直後の『短歌研究』二〇一一年七月号です。作者の斉藤自身は、ネットに上げられていた津波の迫る個人撮影動画を見ているうちにできてしまったと語ります(『歌壇』二〇一六年三月号)。連作には倫理の問題に絡めて毀誉褒貶が加えられました。

震災から一年後の座談会では、石川美南が歌会で出された歌を全て津波が原発の喩として読めてしまう時期があったことを語っています(角川『短歌』二〇一二年三月号)。コロナ禍の際にも同様の現象が見られたのはまた別の話です。そうした読みのバイアスが加えられた典型例に、次の歌があります。

煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠ではないほうの火 井上法子『永遠ではないほうの火』(二〇一六)

掲出歌の下句「永遠ではないほうの火」は間接的に「永遠の火」があることを示唆しています。人智の及ばない神々の世界を想起させる表現は、井上が福島出身であったことから、原発批判の喩として読まれることとなりました。その読み方の善し悪しをここで判断するのは止めておきます。 当事者性の問題からは、短歌の一人称性と「私性」の問題も派生します。論点を整理しましょう。「私性」とは、歌の主体と作者の関係を問うものです。短歌の「私」はそれを起点として二つの方向性を導きます。一つが比較的早く議論されたもので、当事者の正当性へのまなざしも忘れてはなりません。この点についての有益な資料として、『現代詩手帖』二〇一三年五月号の震災特集における、山田航、斎藤斎藤、高木佳子の論を挙げておきます。 もう一つが、短歌は無力なのかという問いから、社会や共同体を志向するものです。この論点が顕現したのは震災から五年ほど経った二〇一六年ごろでした。震災後の復興に際しては「がんばろう東北」や「がんばろう日本」というスローガンが語られました。短歌においても歌人自身と短歌の作中主体と主体を含む共同体を直列に繋げた「みんな」「君ら」といった表現が登場します。梶原さい子『リアス/椿』(二〇一四)や本田一弘『磐梯』(二〇一四)がその代表例です。この共同体志向には、国家と共同体と個人が直列に繋がれた戦時期の例を示唆しつつ、高木佳子が警鐘を鳴らしています(「東北という空間が容れるもの──《私》から《共同体》への変遷」『短歌往来』二〇一六年四月号)。社会と文学はどう繋がるのかという問いは、これ以降しばしば議論されることになります。特に二〇一五年ごろ安保法制に際しての社会詠議論では盛んに語られました。題詠批判から当事者性論議へ、当事者性から共同体へと、ゼロ年代以降の社会詠にはひと続きの問題意識を見出すことになります。

  • 私性について(pp.309-311)

二〇一四年二月には、佐村河内守代作事件が起こります。耳の聞こえない作曲家という触れ込みで一世を風靡していた人物が、実は耳も聞こえるし、曲は代作であったという事件です。これを受けて角川『短歌』では、緊急企画「感動はどこにあるのか 作品と作者と〈物語〉」という特集が組まれます(二〇一四年四月号)。歌壇外の出来事に角川『短歌』が敏感に反応した背景には、似たような経歴詐称事件が一九八九年の短歌研究新人賞でも起きていたことを挙げられます(「時間の矢に始まりはあるか」事件)。新人賞選考はもちろん匿名です。しかし受賞作が海外在住の女子高生の作として発表され、大型新人の登場に当時の歌壇は期待を膨らませました。これが数ヶ月後に中年男性の作と判明したのです。

このように、二〇一四年の歌壇的話題は私性とリアリティが問題となっていました。この最悪のタイミングで、石井僚一が父の死を扱った連作により二〇一四年の短歌研究新人賞を受賞します。何が最悪かというと、この連作は祖父の死を通して虚構の父の死を考えたものであったことです。実際のところ父は生きていました。しかも、それが虚構だとわからない形で描かれていました。

そのために選考委員やその他の歌人たちは、この連作に対して倫理的な引っかかりを覚え、騙されたという感情的反感を持つことになりました。ここから選考委員の一人である加藤治郎と石井僚一の間で虚構論争が勃発します。加藤は虚構の意図を問い(『短歌研究』一〇月号)、石井は応答の中で、事実による裏付けを求める短歌の「私性」の強さに驚きを見せています(同一一月号)。

小説では問題にならないであろうことが、短歌ではなぜ問題になるのか。これについては、穂村弘が二〇一四年末の歌壇展望座談会で、次のようにまとめています。

”穂村 この問題は、たぶん短歌の歴史性や固有性とかかわっていて、加藤さんの文章も我々なら何を言っているのかわかるけど、短歌をよく知らない人はたぶん言われている意味がわからないだろうと思う。近代以降の短歌の「わたくし」性を軸にした文体は事実性とセットになってきていて、前衛短歌における「わたくし」の拡張はあったけれども、それはセットになる文体自体の革命でもあったということですよね。ところが今回の受賞作の場合は、「わたくし」の位置づけとセットになるはずの文体の創出がないじゃないかと。従来の、我々が知っているものに近い文体で書かれていますから。 ” (座談会「現代短歌の虚構、匿名性について」『短歌研究』二〇一四年一二月号)

短歌で虚構を行うには、それとセットになる文体の革命が必要である、という不思議な不文律が歌壇にはあります。虚構論争自体は二〇一四中に終息しましたが、はたしてそのような制約を短歌に課している「私性」とは何なのか。この議論は多くの歌人を巻き込み、二〇一七年ごろまで続きました。

  • 政治的な歌について〔2〕(pp.312-214)

話題を二〇一五年の歌壇に戻します。政治の世界では、二〇一三年の末には特定秘密保護法案、二〇一五年の夏には安保法制が採決されていました。この状況に危機感を募らせた歌人たちは、「時代の危機」を題に含む二つのシンポジウムを、一五年の九月と一二月に開催しています。中心となったのは学園闘争世代の三枝昂之と永田和宏、そして先の社会詠論争の中心の一人であった吉川宏志です。

これら二つのシンポジウムを通して秀歌として記憶されることとなった短歌は知られていません。とはいえ、九月の会における黒瀬珂瀾の次の発言は、戦争詩への反省という観点から記憶すべきものです。

黒瀬 要するに、権力への批判を歌にするとき、非常に危ないのは、権力の行使者が、作者や読者である私たちと別次元にあると考えてしまうことです。やはり短歌というのは、そういうつくり方をしがちです。〔/〕そうじゃない。実は権力者であり、さらに権力者と結託しているのは、われわれ自身であることを、これからどうやって歌にしていかなければいけないのか。それを考えないと、歌自身が権力化していくこともあり得る。 (緊急シンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」鼎談「戦後七十年の軋みのなかで」シンポジウム記録集『時代の危機と向き合う短歌』(二〇一六))

黒瀬は権力者と民衆が別次元にあるものとする考え方に警鐘を鳴らしています。権力者と自分自身を一体化させる考え方や、忖度による自己検閲にも同時に注意しなければならないのは当然として、私たちは様々な対立を含む共同体の中で生きています。そこに発生する小文字の政治や権力も、またどのように社会詠としてすくい取っていくのか、考えるべきものでしょう。

またシンポジウムに並行して、二〇一五年後半には吉川宏志と斉藤斎藤の間では次の歌の読みをめぐる小論争が交わされていました。

アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました 斉藤斎藤『渡辺のわたし』(二〇〇四)

二〇〇三年の発表当時も話題になった歌ではあるのですが、吉川が二〇一五年に再び問題にしたのは作者名の機能です。「斉藤斎藤」という署名がなかったとしたら、この歌は文字通り「アメリカのイラク攻撃に賛成」しているのか。吉川はこの歌に内心の批判があるとする読みを「忖度」として退けます。しかし、そうした短歌から作者の戦争に対する立場表明を推し量ろうとする吉川の態度は、作者である斉藤自身によって批判されました。発表当時問題になっていたのはアイロニーの有効性のはずなのに、それを政治的な立場表明として読むならば、相手を政治的な文脈で批判することになります。 震災後はこのように、誰が、どの立場から、発言をしているのかが、短歌の読みの上でも問題とされるようになりました。

  • フェミニズムについて(pp.314-317)

近年の短歌史においてフェミニズムを再起動させたのは瀬戸夏子でした。瀬戸は角川『短歌』の時評欄を二〇一七年一月から半年間担当することとなり、短歌史におけるフェミニズムの不在を嘆く時評「死ね、オフィーリア、死ね」を前編(二月)・中編(三月)・後編(四月)の三回にわたって発表します。これ以降の流れの土台となるので、長くなりますが、内容を抄出します。

前編:ゼロ年代に登場した歌人たちを二つのグループに分け、グループ①(斉藤斎藤、笹公人、永井祐、笹井宏之)とグループ②(雪舟えま、今橋愛、兵庫ユカ、盛田志保子)を比較した際に、後者が冷遇されていることを指摘し、冷遇されている原因を「歌壇の中心的な登場人物が圧倒的に男性歌人に偏っているから」だと語る。なお、「男性歌人」は実際の性別の問題ではない。 中編:割愛 後編:塚本邦雄の評論「魔女不在」が塚本邦雄という「女性歌人」による女性歌人へのミソジニーであることを指摘する。また「あからさまな男尊女卑的発想を含んだ、座談会やインタビューや評論が、それ自体の論旨はすぐれているということを免罪符にして」許容されている状況に異議を申し立てる。曰く「歌壇にはフェミニズムのfの字もない」。(すべて傍点原文)

この時評は『現実のクリストファー・ロビン 瀬戸夏子ノート2009-2017』(二〇一九)に全編再録されています。 瀬戸の時評は極めてハイコンテクストな修辞が多用されており難解です。特にひっかかりを覚えるのは「男性歌人」と「女性歌人」という独自の用語です。

ところで「名誉男性」とは、男性におもねることで、男性同様の力を獲得し、女性差別の温存に加担している女性を揶揄する言葉として俗に用いられています。ここでの「名誉」は「名誉白人」のような、形式的に与えられる意味を帯びています。瀬戸はこの「名誉男性」のイメージを継承しつつ「男性歌人」を使っています。またそこには、アララギ的リアリズムを重んじる人物の意味も付加されています。その対立項が「女性歌人」であり、反リアリズム系の歌人にも近いニュアンスが込められています。

「歌壇にはフェミニズムのfの字もない」と宣言するこの時評は多くの反響を呼びました。同時にハイコンテクストで難解なために、多くの誤読と誤読に基づく批判も浴びせられました。けれども、歌壇における批評のあり方を問い直すフェミニズムの議論は、ここから急速に動き出していきます。

奇しくも二〇一七年は、日本におけるフェミニズムが急速に再起動された年でもありました。一七年五月には、ジャーナリストの伊藤詩織が山口敬之による準強姦被害を告発します。ここから二〇一九年ごろまでは「#MeToo」運動が大きな盛り上がりを見せました。同年九月には、川上未映子の責任編集により『早稲田文学増刊「女性号」』が刊行されます。

瀬戸は歌壇における批評のあり方を問い直しました。では、どのような批評が求められるのか。フェミニズム批評とはどのようなものか。震災後の原発問題や安保法制など大文字の政治に比べて、マジョリティとマイノリティを切り分ける微細な権威・権力の問題は取るに足らないものとされがちです。ひとまずフェミニズム批評とは、大義のために瑣末な理不尽を飲み込むべきだ、という考えに異議を唱え、現存する些細な理不尽の背景を作品読解に組み入れる営為だと説明しておきます。

短歌

  • あわせてる規律性いやこぼれてるTell照るあなた ロボットダンス
    • ロボットダンスが好きなのは そこからあふれる君を観たいから
    • こぼれてく君見たくておどってるロボットダンスをみつめてた
    • あわせてる踊りではなくこぼれてる君がほんとうだからみつめる

Twitterブックマークより

テレビドラマにおけるモノローグ

なんか日本のBLドラマって、ぼーっと薄目で見てても理解できるような作りにしようという方向に行きがちな気がするけど、タイには玉石混交あらゆるBLドラマがある中にも、「わかりやすくするより視聴者の集中力を引き付けて離さない、集中して見てわかってくれ!」という力学の作品があるよなあ…と

https://x.com/QueerLovesBLGL/status/2021077727424684249?s=20 より

と思ったのも、同棲までが、モノローグ全消しで両者の感情を視聴者に読み取らせるタイプの緊張感ある「集中させドラマ」にしてほしかった…とすごく思うので…モノローグ消すとかなり沈黙の多いドラマになるんだけど、絶対その方が面白い(私の好み)し、役者はそれに耐えうる演技をしてる。

https://x.com/QueerLovesBLGL/status/2021077727424684249?s=20 より

GELBOYSとか…ITSAYとか…ㅜㅜ 10danceも予告の感じでは期待していたんだけど蓋を開けてみたらモノローグドカ盛りでぼーっと見てても理解できてしまったところがちょっとなーと思ってしまった 逆に日本BLで集中力のいるドラマがあったら知りたい😿

https://x.com/lem0nzza/status/2021106136716542281?s=20 より

未成年はけっこう「かわいそう」の意図とか友達の視線とか、視聴者側に解釈を委ねられてて良かったかも。イフ恋もモノローグはあったけど「理想の世界」や「スパダリ」に疑問を抱くかは視聴者の判断力に委ねて作られてた感じ…やっぱり視聴者に委ねる部分があるのが「集中させドラマ」なのか…

https://x.com/QueerLovesBLGL/status/2021140108163125633?s=20 より

  • モノローグが過多であるというのは多々言われていることではあるのだが、それを「薄目で見てても理解できる」というところと結びつけるのは初めて見たかもしれない。確かにそれは大いにあるように思う。
  • テレビドラマ制作系のインターンに行くと、数あるコンテンツの中から時間を割いてもらっているという意識が強く(それは良いことなのだが)、視聴のハードルをものすごく下げているように感じられる。
  • こういう風にドラマを論じるような層は、わざわざ視聴するための時間をとって心してみるわけだが、多くの視聴者がどうなのかを考える必要はある。テレビドラマが並び立っているのは、映画や演劇ではなく、むしろ他局のバラエティ番組だったりする。
  • テレビで見るよりもTVerで見るようになるという視聴スタイルの変化は、いっそうハードルの低さが重視されるようになる(重厚な作品は選択すらされないという視点から、より簡単な構造の話に傾いていく)ともとれるし、選択的に見られるわけだからある程度の視聴者のコミットメントを期待して重めに作って、強いファンを育てたほうがいいともとれるので、解釈が難しい。
  • ただ、ネトフリで最近ドラマや映画を観ると、日本のものであれ海外のものであれ分かりやすい作品が多く、作業をしながら流していても筋が理解できるような印象を受ける。数が少ないので断言はできないが、映画のドラマ化、というような現象が起きているようにも感じられる。
  • BLファン界隈で評価される『未成年』とか『イフ恋』とかが、『修仲』とか『40までに』といった大衆受けに振った作品よりも(イベントや物販の展開を含め)結果を出しているのかというと、そうでもない印象を受ける。やはり簡単なほうに向けていくしかないのでは、という雰囲気もあって、正直楽観視はできない状況である。

光が死んだ夏

よしきが同性愛者であることを告白しても光はプスプスキモーwとは言わないが、あぁそうなん?俺のこと狙わんといてな!😆✌️くらいのことは言いそうでへこむ

https://x.com/hn621hy/status/2012835626110865686?s=20 より

  • これは本当にそうで、そういう光のよくない部分をちゃんと直視しなければいけないのだろうと思う。

アイドル

20260207 #龍宮城 リリイベ 撮可 豊洲 1部 はいこれ優勝✌🏻✨ #冨田侑暉 固定📸⭐️ #ギラり

https://x.com/l2O7_O4/status/2020015161868996947?s=20 より

  • 雪の中のリリイベ、美しい。

#原因は自分にある。 LIVE TOUR 2026 輪廻の箱庭🏡🌷 \事前通販は本日19:00から/ ⚫︎商品紹介 輪廻の箱庭 ランダムペアアクリルキーホルダー ¥700(税込) 全21種よりランダム1個入り 様々なポーズが可愛い、ペアアクリルキーホルダー。 ぜひお好きなペアのゲンジブを集めてくださいね。 #ゲンジブ

https://x.com/SDE_STARDUSTBIN/status/2019677953182036448?s=20 より

  • イヤホンでぐるぐる巻きにするの、暴力性というより切実な願いのような、健気さすら感じてしまう。

  • 好きなアイドル像がなんとなく理解できるようになってきた。2人キンプリとかげんじぶは、Perfumeに近しい感じになってきている気がする。電子音(シンセっぽいサウンド)×人外を歌った曲が最近の好み。そういう曲を集めてみた。

  • 『TraceTrace』では永瀬廉がセンター、『インストール』では志賀李玖が主体というように、とりわけ好きなアイドルがメインどころになっている印象もある。

選挙情勢

概ね若者はリベラルである

https://x.com/it_is_blankarea/status/2019613820277469212?s=20 より

  • このリベラルさがリベラルな政党の伸長に結びつかない。なぜそうなのか、理由らしきものを挙げている人は多いのだが、どうもしっくりこない。
  • ある人は「政策よりイメージが優先されている」という。確かに妥当性はありそうなのだが、それで完全に説明できるとまでは言い難い。

同性婚より先にやることあるとか言う人けっこういるけど、同性婚なんてやる気になればすぐ出来るのよ。民法の文言をちょっと書き換えればいいだけ、あと行政は実務を運用変更すればおっけー。もちろん改憲なんか必要ない。どっちが先とかじゃなく一緒にやれるんだよ

https://x.com/siiudagawa/status/2019675478429429916?s=20 より

  • これは本当にそうで、トレードオフにならないものをトレードオフかのように錯覚することは「現実的な考え」ではない。そんなもんさっさと通して「重要」政策に取り掛かればいい。

まず前提を整理する。チームみらいは「テックライト」ではない。

…(中略)…

チームみらいの知的参照先は、このラインではない。安野のSF小説はAI権威主義を批判的に描いている[7]。また、規制の全面撤廃ではなく限定した地域や条件のもとで新技術を試験的に運用するサンドボックス方式での運用を提唱している。GitHubマニフェストは参院選期間中に8,559件のプルリクエストを集めた。民主主義の迂回ではなく拡張を志向している——少なくとも、表面上は。ただし、消費税減税の不採用、高齢者医療費の自己負担3割引き上げ、原発25基以上の稼働目標、防衛費増額を含む補正予算への賛成。経済右派的な色彩は濃い。テックライトの思想ではないが、テックライトと重なる政策はある。

エキストリームセンターという補助線 チームみらいについて考える際に押さえておきたいのはむしろ、テックライトではなくエキストリームセンターの概念だ。 パキスタン系イギリス人の作家・活動家タリク・アリが『The Extreme Centre(極中道)』(2015年)で論じたのは、1989年以降の主流政治が「市場のニーズにどれだけ応えられるかの競争」に収斂したということ。トニー・ブレアの「第三の道」が典型だった。左派政党が新自由主義の基本前提を受け入れ、「What matters is what works(大事なのは何がうまくいくだ)」を合言葉に、イデオロギーより効率性を前面に出す。左右の対立軸は消え、どちらが勝っても同じ経済政策が続く。

…(中略)…

Pol.isでは市民が能動的に議論に参加し、投票のたびにリアルタイムで合意形成の地図が更新される。ブリッジング・ステートメントは参加者の行動から自動的に浮上する。AIによる文章解釈は介在しない。プラットフォームは市民の行為を構造化するが、内容を解釈しない。 T3Cでは、LLMが市民の発言を事後的に解釈し、抽出し、分類し、要約する。市民はデータの提供者であり、分析プロセスの参加者ではない。「何が語られたか」はLLMのフィルタを通過した後に可視化される。

…(中略)…

アメリカの政治理論家ジョディ・ディーンの提唱した「コミュニケーション資本主義」という概念がある。デジタル参加が民主主義の価値——アクセス、包摂、討議——を「物質化」するが、実質的な政治的変化にはつながらないメカニズム。「政治の複雑性——組織化、闘争、持続、決断、分裂、代表——が、一つの技術的解決策に凝縮される」。 GitHubの市民提案。ブロードリスニング。「参加した」という感覚は確かに生まれる。 しかし、目を向けるべきなのはその「参加」の実態だ。参院選期間中に提出された8,559件のプルリクエストは、2024年都知事選(104件)の約80倍に膨れ上がった。AIチャットボット「いどばたシステム」がGitHub操作の知識なしにPR作成を可能にしたことで、入力のスケーリングには成功した。しかし、2025年参院選における正確な採用件数は公開されていない。チーム側自身が「選挙期間中に精査して反映するか否かを判断しきれなかったものが多く残ってしまった」と認めている。入力をAIで拡張するのは容易だが、判断の人間ボトルネックは解消されないというスケーラビリティの非対称性が明らかになった。

https://okadaasa.theletter.jp/posts/5c5f5c60-9c33-4311-832b-c78cc34efcd8 より

  • 「参加している感」だけがもたらされるというのは確かにそうな気がする。政治参加を通じて実際に何かを動かすためにはもっと心血を注ぐ必要があるわけで、チャットに書き込むみたいなそんなライトなものでやった気になって良いのかとは思う。
  • 前回のブログでも少し取り上げたが、中間集団の政治的意義というのをよく考えなければいけないと感じる。選挙一発とか、ネット上からの簡単な参加というより、もっと長期的で、肉体的なコミットの仕方。その象徴が中間集団なのではないかと感じる。(復興支援のイメージを持ってくると分かりやすい。一発の寄付より、継続的に通い続けて関係人口になったほうが心強い)
  • なんとなく、直接民主制を志向する人が多いのではという感覚がある。でも、その「直接」というのは相当な責任を負うことに他ならない。それを問うている人々に、それをやる覚悟があるのか?と思う。ハッシュタグアクティビズムを否定するわけではないが、ただポストするだけでは世界は何も変わらない。インスタントに達成感を得ることが政治参加の主目的になってはいけない。

さて、というわけで「オードリー・タンはチームみらいと違ってAIを使わない」は誤情報ですし、「PolisはTalk to the Cityと違ってAIを使わない」も誤情報なわけです。台湾もPolis開発チームも、AIを活用して民主主義を改良しようとしています。この技術的トレンドは2022年のChatGPTのリリースによって加速したものであり、2015年時点の情報で議論するのは周回遅れです。 もちろん、AIを使わない方法での民主主義の改良も並行して議論されています。Audrey TangとGlen Weylの書いた書籍「Plurality: The future of collaborative technology and democracy」では、たとえばQuadratic Votingなどの技術が紹介されています。これは、特に集団的意思決定の手段としての投票は、検証可能性の高さが求められるからです。この辺りの議論に興味があればPlurality本を読んでみるのも良いでしょう、日本語版も昨年のジュンク堂池袋本店政治部門年間ランキング1位になっていましたし。 最後に、AudreyがTalk to the Cityを称賛しているメッセージがTalk to the Cityの公式サイトのトップページに載っているのでそれを紹介して終わりにしたいと思います。 2014年当時、ミニバブリックにインタビューし、その意見をニュアンスを損なわずに集約することは不可能だった。しかし今や、Talk to the Cityの支援により、そのコストは実質ゼロにまで削減された。これはブロードリスニングであり、そして再帰的な公共の本質を変えうる。 --- オードリー・タン https://talktothe.city/

https://note.com/nishiohirokazu/n/n58b6f250d298 より

新しい公共

  • 上記の中間集団とは主に創価学会や労働組合を想定した文言だったが、そういうものへの嫌悪感は広告代理店やNPO法人に対しても向けられているように感じる。
  • ネット左翼は保守政党と広告代理店の「癒着」を批判するし、ネット右翼はリベラル政党が推進するNPO法人による「公金チューチュー」を批判する(以下のように)。

本来なら「牽制する構造を作って論点を明確化し、国民参加により合理的かつ当事者意識をもった行政運営を目指す」はずだったのに…… 「新しい公共」と名を変えたら、いつの間にやらNPOやNGOが委託費や補助金を貰って好き勝手をする妙な仕組みに化けてしまい……

https://x.com/micky1359/status/1965397697210581317?s=20 より

AI君の回答がガチ過ぎてフイた。どうりで公金チューチュー勢が与党アンチになるわけだよ。 ロジック: 政府は「徴税」と「基準策定」のみを行い、実際の福祉サービス(教育、医療、介護)はNPO、協同組合、自治体、コミュニティなどの民間・中間集団が担う。

https://x.com/kmjn9ohb/status/2020106691245969741?s=20 より

  • ここで新しい公共の概念と関連してくるのではないか。確かに「中間支援組織」というのは行政機関ほどの透明性が確保されていないという批判はあって然るべき(というよりむしろ、選挙で選ばれた者が社会を主に動かすべきだ、という官僚批判の論調にも近いようにも見える)だが、それ以上の理不尽な批判もまたあるのではないか。今一度その議論を確認する必要があるのではと思う。

ネオリベラル・フェミニズム/フェムテック

本来は制度改革や集団的取り組みが必要な課題であっても、ネオリベラル・フェミニズムの文脈では「女性一人ひとりが工夫し自分自身を高めれば解決できる」というストーリーにすり替えられてしまうのです 。その結果、この潮流は一見女性の自立を促進しているように見えながら、実際にはジェンダー不平等という構造的問題を見えにくくし、現状の新自由主義的秩序を補強する役割さえ果たしかねないと指摘されています 。 著者のロッテンバーグによれば、ネオリベラル・フェミニズムにおける肝となる概念は「適切=幸福な仕事と家庭のバランス」を達成することにあります 。キャリアと家庭の両方を完璧に両立し、しかも女性らしさや笑顔も忘れない――そうしたスーパーウーマン像こそが理想の「フェミニズム的主体」として語られます。

https://note.com/femtechjapan/n/n310d2d81b54d より

Femtechは、女性のQOL向上やエンパワーメントに大きな可能性を持つ一方で、そのメッセージングやプロダクト設計でネオリベラル・フェミニズム的な発想を強化していないか?という視点が必要です。 例えば、キャリア女性向けの生理管理アプリや卵子凍結サービスを宣伝する際に「身体を自己管理することで、仕事も家庭も両立がしやすくなるでしょう!」といった謳い文句を使っていないでしょうか。 一見ポジティブなこのメッセージは、裏を返すと「両立できないのは自己管理が足りないせい」とプレッシャーを与えるリスクがあります。Femtech製品が「女性の自己最適化」を促すツールとして歓迎される一方で、それが個人への過度な自己責任の押し付けになっていないか、常に目配りすることが大切です。

https://note.com/femtechjapan/n/n310d2d81b54d より

  • techのもつ自己管理への志向性を言い当てたいい論考だった。

パターナリスティックに扱われるということ

  • バラエティー番組「ドッキリGP」で、特撮俳優は、共演者の女性が襲われかけるという非常時にヒーロー然とした動きをするのかという検証のドッキリの様子が放送されていた。本島純政と相馬理が出演。
  • 本島純政は、手を繋いだり、頭をポンポンしたり、「彼氏なんで」と言ったりと、やりすぎだろというぐらいにヒーロー然としたふるまいをしていた。女の子の代わりに女の子の意向を述べたりもしていた。
  • 自担の恋愛ドラマが無理というスタンスが自分には正直全く理解できないのだが(それは役であって本人ではないという認識なので)、このような、あくまで本人の「素」として本人が撮られていることを自覚せずにやっている中でこういう動きを見せられるとかなり嫌かもと思った。
  • でもこの番組を見た勢いで写真集は買った。負けている。

医療脱毛のお兄さんが一部位終わるたびに『痛くないですか?休憩する?』って聞いてくるアレは正直ちょっとメスになる

https://x.com/punyaritan/status/2019610689380516174?s=20 より

  • (適度に)パターナリスティックに扱われたい(≒守られたい)みたいな欲望が人間にはある気がしてきていて、純政のこれはそれに刺さる感じはあった。
  • 相馬理は、これとは対照的で、あくまでも女の子のやりたいことを言わせてあげるというスタンスで接していた。バラエティー的には面白みがなく大部分がカットされていたのだが、これは結構素晴らしいことなのではと思っていた。
  • 彼が出演していた『ブンブンジャー』は「自分のハンドルは自分で握る」という言葉が繰り返し語れる作品で、ある種特撮が内包してきたパターナリスティックな部分を自己批判してあらゆる子どもに開かれた作品へとブラッシュアップしたものだったので、そういうニュアンスがあった。

相馬理さん、アイドルを弱い女の子として庇うんじゃなく対等に扱って それなりにサポートしつつ、最後囲まれたら「自分で言いな〜?」と背中を押したの 「自分のハンドルは自分で握る」 というブンブンジャーの教えを体現しただけなので何も間違ってないんだよな……

https://x.com/pelu_kamenrider/status/2020107348455395810?s=20 より

相馬さんの「自分で言いな?」は本当に、 自分が男だから女の子を守らなければ、とかそういうんではなく、男女関係なく対等な立場で、 その人の本当にしたいことを、自分で決めて自分で進んでもらうべきだと思ったから行ったんだろうな… 自分の方が強いから守らなきゃとかではなく 自ハンだ…

https://x.com/mikenyanko568/status/2020111822091874652?s=20 より

カメラ

【“世界最速のカメラワーク”BOLT(ボルト)】 | 選挙ステーション2026では、より“ライブ感”をもってお伝えするべく、ロボットアームカメラ『BOLT(ボルト)』を初めて生放送で導入しています 人間が操作するカメラでは不可能なスピードと動きで、撮影を行っています

https://x.com/hst_tvasahi/status/2020492521940406385?s=20 より

  • 導入する必要性は全然ない気がするのだが、ロボットアームカメラが導入されていた。
  • 日本と韓国の音楽番組の大きな違いは、カメラワークだと考えている。韓国では、振付に合わせて一気に寄ったり離れたりするカメラワークが多い。日本でも最近はそれに匹敵してきていて、King & Princeの『SPOTLIGHT』はまさにそう。カメラワークまで込みで振付が考えられている感じがある。
  • 韓国の音楽番組ではかなり人力でやっている部分もあるらしいのだが、ロボットアームカメラが定着すれば日本の音楽番組でもそれができるのでは。事故りそうで怖いけど。

セクシュアリティの政治

  • Rubin, Gayle(1984)“Thinking Sex:Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality”でまとめられていることの整理。

・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け 近代西洋社会には、「結婚していて、生殖を伴う異性愛者」を頂点とする性のヒエラルキーがある。その下に、「カップルではあるが結婚していない異性愛者」が続き、その他の異性愛者がさらに下へと位置付けられる。 「ひとりだけのセックス」(=マスターベーション)は、「パートナーとの出会いがない人達の劣った代替行為であるという考えなど」のようなスティグマを付与されている。 安定し、長期間続いているレズビアンやゲイのカップルは尊敬に値されるようになっているが、バーに通うようなレズビアンや乱交好きのゲイはピラミッドの最底辺にある集団の少し上あたりをうろうろしている(p.105-106) 最も軽蔑される性的なカーストは、今のところトランスセクシュアル、トランスヴェスタイト、フェティシスト、サド・マゾキスト、売春婦やポルノのモデルなどのセックスワーカーであり、その中でもとりわけ低い位置にあるのが、性的な結びつきにより世代間の境界を侵犯するような人々とされている。(p.105-106) このようなヒエラルキーの上位に位置する人には様々な物質的・制度的・社会的恩恵が付与される。対して下位の人々には、病気扱い、犯罪、恩恵の喪失、制裁などが与えられる。このヒエラルキーを示したのが、以下の図である。

https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2017/04/04/203915 より

・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論 これまで述べてきたセクシュアリティのヒエラルキーを踏まえて、どの階層の性までが許されて、どの階層を認めないものとするか、に関する境界線が引かれる。そのことを表したのが、次の図である。

では、なぜこのような境界線を必要とするのか? 境界線がなくなると、「邪悪な」セックスがなし崩し的に生じてしまうのではないか、という不安があるからである。そのようなイデオロギーを「性的な危険のドミノ理論」と呼ぶ。

https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2017/04/04/203915 より

ボーイズラブの境界線

  • 「「怖いけど尊い」青春ホラーBL大賞」の募集ページで、「ボーイズライフ」と「ボーイズラブ」の境界線について述べられている。本当か?

  • それはそうと、下の記事はいい記事だった。詳しすぎる。

実写BLマイベスト2025🎖️

🏆これぞタイBL賞&キスシーン賞
RESET/タイ
🏆普遍的かつ拡張的BL賞
GELBOYS/タイ
🏆翻案うますぎ賞
TOP FORM/タイ
🏆アラフォー政治BL賞🥐
MANDATE/タイ
🏆映像と音楽賞
Shine/タイ
🏆世にも奇妙なBL賞
ifの世界で恋がはじまる/日本
🏆あの夏賞
That Summer/タイ
🏆家父長制と異性愛規範が全部悪いで賞
Love in the Moonlight/タイ
🏆制作イノベーション賞
10DANCE/日本
DatingGame/タイ
🏆2期をありがとう賞
25時、赤坂でseason2/日本
続・BLドラマの主演になりました/日本
🏆Mandee賞
Me and Who/タイ
KHEMJIRA/タイ

https://note.com/sabonsoda/n/n9b8b17cb2b35?sub_rt=share_sb より

もうひとつ大きなトピックスは「40までにしたい10のこと」が深夜のBLドラマとしては大きくヒットしたこと。「普段BLドラマを観ない人たち」が観たとして話題にもなったと思います。正直なところ、その「普段BLドラマを観ない人たち」の共感を呼ぶための脚本や演出、事前の記者会見などで同性愛表象やBLジャンルであることを漂白する姿勢も含め、個人的には2025年ワーストな翻案でした。ですが、有名俳優を起用し、原作にあるゲイである主人公たちの身体的な欲望は消し「これはBLではなく人間ドラマ」と言いながらBL文脈のモーメントは利用する、という姿勢が、現時点、国内市場を意識したBLドラマとしては「高い数字」が出せるものだというのが証明されたな、という感じです。 一方で、上にも挙げた「ifの世界で恋がはじまる」は、大ヒット、ではないかもしれないけど、数字優先の「誰に観せるのかを中心に考えた物語」ではなく「物語のために説得力のある世界を構築する」という考え方が監督と演者の中で貫かれていた作品でした。

https://note.com/sabonsoda/n/n9b8b17cb2b35?sub_rt=share_sb より

また、BL漫画やBL小説が原作ではない、ゲイのカップルが主人公である「ぼくたちん家」「おいしい離婚届けます」が立て続けに制作・放送されました。ロマンスを中心としない形での同性同士のカップルの物語がたくさん作られてほしい一方で、しかし、そうなると「家族」というテーマがまず大きいものとなってくるんだな…と思ったりもしました。個人的にはどちらも追い詰められる子ども(女の子)と母親がおり、犯罪を犯してるか病を得てることなど、そのあたりがあまり飲み込めなかったのもあります。

https://note.com/sabonsoda/n/n9b8b17cb2b35?sub_rt=share_sb より

日常系を得意とする日本BLと、非日常系を得意とするタイBL。日本がタイのBLをリメイクするには、何より超低予算と時間のなさとスケールダウンする際の翻案が大きなネックになりがち。LoveSeaはそれをちょっとおもしろおかしくすることで振り切ってた感があったとは思いますが…この先もこのプロジェクトは続いていくんでしょうか…。

https://note.com/sabonsoda/n/n9b8b17cb2b35?sub_rt=share_sb より

私のような浅く広くのBLファンにとって、ここ最近中国の実写BLといえば、さまざまな事情で「原作はBLだけど映像作品としては「ブロマンス」になっている(陳情令や山河令)」という認識でした。 ここ最近は上記の「Yesterday 」のように「My Stand In」や「Battle Of TheWriters」など、中国のBL小説をタイBLとして制作する、あるいは「僕らも知らない僕らーUNKNOWNー」や「某某<mou-mou>~僕らが恋する確率〜」のように台湾BLとして制作するというパターンから、新たに「制作の中心や俳優も中国だが権利関係は海外の会社で配信ルートも海外のみ」という方式をとることで「大陸のBLドラマ」を制作・配信する、という流れができています。 最たるヒットはやはり逆愛。凄まじいヒットでしたね。私は途中まで視聴してますが、とにかく勢いがすごい。台湾やタイや日本とも全く違う「これぞ大陸…!」というパワーを感じます。蛇がいっぱい出ます。(浅い情報)日本からは楽天TVやFODなどでレンタル視聴可能。

https://note.com/sabonsoda/n/n9b8b17cb2b35?sub_rt=share_sb より

  • 『GELBOYS』は本当に評判が良いし、映像としても参考になりそうなので見たい。

疎外

単なる私的感想だけど、「日本の技術ってどこにあるんだろう?」等と考えてたことを、やっと言葉にできた気がする。 「現代の技術は複雑すぎて一人では完結できない。だからこそ分業するが、その代償として、面白さが全部入りの仕事がどこにもない。微細に刻まれて、組織の隅々に散らばったのか」

https://x.com/Dirg_rocketdyne/status/2019811526274908467?s=20 より

マルクスの「疎外」概念だ。分業による意味の剥奪。

https://x.com/eitangono_akuma/status/2019930689102311821?s=20 より

  • これは結構ある気がしていて、学園祭とかで全部の工程に関わりたがるのって意味の剥奪に抗いたいというところがあるのかもしれないと思っている。

椎名林檎

椎名林檎の作家性の本質って加爾基や丸の内サディスティックみたいなしょうもないサブカル教養趣味ではなくて、むしろ閃光少女や正しい街みたいな私小説的な内面の吐露にあると思うんだよな

https://x.com/Attachken/status/2020396795776626887?s=20 より

作品と出会っていきたい

  • 海外の名著を探すときに、AIを使うのは結構ありなのかもと思った。気になるテーマの本を教えてもらったりしている。

中間集団の機能不全と、それがもたらす民主主義の危機について論じた近年の翻訳書を3冊挙げる。いずれも、国家(政治)と市場(経済)の間に位置する「共同体」や「組織」がいかにして社会の安定を担っていたか、そしてその衰退が何をもたらしたかを主題としている。

  1. ロバート・D・パットナム『上昇(アップスウィング)』(2023年邦訳) 『孤独なボウリング』で知られるアメリカ政治学の重鎮による、ここ数年の決定版と言える一冊である。本書は、過去100年のアメリカ社会を「I(私)」と「We(われわれ)」というサイクルの変動として分析している。 かつての中間集団(労働組合、教会、市民団体)は、単なる利益誘導機関ではなく、異なる背景を持つ人々を結びつけ、社会関係資本を醸成する「接着剤」としての功績があったと論じる。現代を「I」が極大化した時代と位置づけ、中間集団の衰退が政治的分極化と経済格差の主因であると断じている点は、組織票や中間集団の意義を再考する上で極めて示唆的である。

  2. スティーブン・レビツキー/ダニエル・ジブラット『少数派の横暴』(2024年邦訳) ベストセラー『民主主義の死に方』の著者たちによる続編。本書は、政党という「政治的な中間集団」の役割と、その機能不全に焦点を当てている。 本来、政党組織は過激なデマゴーグを排除する「ゲートキーパー(門番)」としての功績を持つべきだが、現在の共和党などがその機能を喪失し、逆に熱狂的な少数派(マイノリティ)に乗っ取られている現状を分析している。組織が弱体化し、予備選挙などで「個人の声」が直接的に反映されるようになった結果、かえって民主主義が脅かされているという逆説的な視点は、中間集団の重要性を裏側から証明している。

  3. ラグラム・ラジャン『第三の支柱』(2021年邦訳) 著者は元IMFチーフエコノミストであるが、本書の主題は政治経済学的な「コミュニティ」の復権である。 社会を支える三本の柱を「国家」「市場」「コミュニティ(中間集団)」と定義し、近代化の過程で国家と市場が肥大化する一方、コミュニティが切り捨てられてきたことがポピュリズムの温床になったと論じる。中間集団を「古臭いしがらみ」として排除した結果、人々が孤独と無力感に苛まれ、それが反エリート感情へとつながるメカニズムを解明している。組織の「功罪」のうち、「功」の部分を現代的な文脈で再評価するのに適している。

  • 展覧会にもできるだけ足を運んでいきたい。最近気になっているのは、「恵比寿映像祭2026」。

メディアアート

  • 高橋裕行さんがメディアアートに関する記事をたくさんアップしている。かなり面白い。

一般に、「開かれたアート」、とくにインタラクティブアートは、絵画や彫刻といった古典的なアートに対して、次の点が「良い」とされる。 ・観客の参加=民主的である。誰にでも開かれている。 ・インタラクティブ=対話性の増加。 ・体験的=身体的で深い理解。 これらはしばしば、インタラクティブアートを「民主的で進歩的な表現」と位置づける根拠として語られてきた。しかし一方で、次のような批判も可能であろう。 ・インタラクティブアートにおいて、観客は参加することを期待、さらには強制されていないか? ・インタラクティブアートにおいては、システムの応答が保証されている。応答し続けるシステムは、観客と作品、あるいは観客相互の摩擦や拒否、対立を無害化していないか? ・インタラクティブアートは、単に装置が機械的に反応を返してるにすぎず、観客は「選択肢を与えられた消費」をしているに過ぎないのではないか? ・インタラクティブアートにおいて、システムは不可侵である。とすれば、ルールは作者が決めており、観客はルール自体を壊せない。これは「疑似参加」なのではないか?

https://note.com/hyktsh/n/nc397f9b8f80b?sub_rt=share_sb より

インタラクティブアートにおいて見逃されがちな論点とは何か。それは、インタラクティブアートが、観客に「何ができるか」を喧伝する一方で、「何をしなくてもよいか」「何を拒否できるか」をほとんど考慮していない点である。 実際、インタラクティブアートの紹介文では、過剰なまでに「自由」が強調される(「自由に3D空間を探索できます」など)。しかし、それは本当に自由なのだろうか。そこでは、自由が語られながら、実のところ、作者の期待した範囲で動くこと、触ること、反応することが暗黙の前提となっている(参加者はほかならぬ私でなくても良いのではないか?)。その結果、単に見ること、距離を取ること、沈黙することは、消極的、あるいは不十分な関与として扱われがちになる。

https://note.com/hyktsh/n/nc397f9b8f80b?sub_rt=share_sb より

まず、「閉じた作品」を復習しておく。近代的な「閉じた作品」を構成するのは、「自律性」「完結性」「完全性」「独創性(作家性)」「非日常性」であった。これを緩めると次のような「開かれた作品」の特徴が析出される。 ・自律性→サイトスペシフィック(「場」によって作品の意味が変化する) ・完結性→ワークインプログレス(完成よりも「過程」が重視される) ・完全性→仮設性、一時性、更新可能性 ・独創性(作家性)→観客参加、共同制作 ・非日常性→日常との境界の曖昧化 インタラクティブな作品の場合には、とくに4番が重視されるわけだが、これは、他の特徴とも相互に影響を与えあって成立する。この状態を「開かれた作品」としよう。 さて、急ぎ足ではあるが、これをさらに進め、「開かれすぎた作品」を考えるとどうなるか。 ・文脈(状況)にのみに依存し、コンテンツは存在しない。 ・はじまりも終わりもなく、作品を区切る時間的境界は存在しない。 ・つねに変化しつづけるため、作品を固定する物理的境界は存在しない。 ・完全に無名、もしくは匿名な群によって作られる。 ・日常と区別がつかない。 これらは一見すると、徹底的に自由な状態のように見える。しかし、ここまでくると、もはや「アート」もしくは「作品」とは呼べないと誰もが思うであろう。 では、「開かれた作品」と「開かれすぎた作品」の境界はどこにあるのだろうか。それは単に程度の差なのだろうか、それとも質的な差を持ったものなのだろうか。おそらく、問題は、「開かれ」というものが、対立や拒絶、沈黙や遅延を許容する構造を持っているかどうか。ここにかかっているのではなかろうか。

https://note.com/hyktsh/n/nc397f9b8f80b?sub_rt=share_sb より

思い出したのだが、「開かれた作品」概念そのものはウンベルト・エーコの議論があって、開放性=無限ではなく、解釈や遂行に構造的な制約があるとのこと。

https://x.com/kakuya_sris/status/2019601373525078216?s=20 より

Umberto Eco: The Open Work, 1962 To avoid any confusion in terminology, it is important to specify that here the definition of the “open work,” despite its relevance in formulating a fresh dialectics between the work of art and its performer, still requires to be separated from other conventional applications of this term. Aesthetic theorists, for example, often have recourse to the notions of “completeness” and “openness” in connection with a given work of art. These two expressions refer to a standard situation of which we are all aware in our reception of a work of art: we see it as the end product of an author’s effort to arrange a sequence of communicative effects in such a way that each individual addressee can refashion the original composition devised by the author. The addressee is bound to enter into an interplay of stimulus and response which depends on his unique capacity for sensitive reception of the piece. In this sense the author presents a finished product with the intention that this particular composition should be appreciated and received in the same form as he devised it. As he reacts to the play of stimuli and his own response to their patterning, the individual addressee is bound to supply his own existential credentials, the sense conditioning which is peculiarly his own, a defined culture, a set of tastes, personal inclinations, and prejudices. Thus, his comprehension of the original artifact is always modified by his particular and individual perspective. In fact, the form of the work of art gains its aesthetic validity precisely in proportion to the number of different perspectives from which it can be viewed and understood. These give it a wealth of different resonances and echoes without impairing its original essence; a road traffic sign, on the other hand, can be viewed in only one sense, and, if it is transfigured into some fantastic meaning by an imaginative driver, it merely ceases to be that particular traffic sign with that particular meaning. A work of art, therefore, is a cornpiece and closed form in its uniqueness as a balanced organic whole. While at the same time constituting an open product on account of its susceptibility to countless different interpretations which do not impinge on its unadulterable specificity. Hence, every reception of a work of art is both an interpretation and a performance of it, because in every reception the work takes on a fresh perspective for itself.

Eco, Umberto. The Open Work. Translated by Anna Cancogni, with an introduction by David Robey. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1989[1962]. via

1962, essay, interpretation, openness, umberto eco, work

https://www.ocopy.net/2016/10/21/umberto-eco-the-open-work-1962/ より

チームラボ批判にも読めるけど、僕はチームラボがここまで成功してるの見ると、むしろ(商業的成功には)作家性とか要らんのでは?とか思えるし、そこにこそ現代的な堀りがいがあるのでは?とかも思ったり。 ( Xがバトルフィールドになったみたいに)

https://x.com/hachiya/status/2019568645417111718?s=20 より

反論を用意する

  • 大学に入ってから、大して親しくもない間柄のコミュニケーションの中でかなり危なっかしい発言を聞くことが増えたように感じる。それだけ様々なバックボーンの人と関われているのは良いことなのかもしれないが、心理的な負担はデカい。
  • 思えば、浪人期の予備校での小論文の学習で、「素朴なナショナリズムに陥っている回答が多い」と講師が苦言を呈していたことを思い出す。人文知というものを身につけやすい環境にいた者としてはちょっと衝撃的だった。
  • これって典型的な差別主義的発言では……?すかさず何らかの言葉を補わないとそう思われてしまうのでは……?と一回自分の喋ろうとしていることを内省する意識が欠落しているのはどうなんだろうか。私立文系の界隈って心理的安全性がめちゃくちゃ高い環境ということなのかもしれないけど。

「多様性を否定するのも多様性でしょ」

  • 授業のグループワークで持論として述べている人がいてびっくりしてしまった。持論として述べるにはあまりにもクリシェすぎるし、中身からしてもさすがに中学生ぐらいで止めといてほしい。

  • (実際にそうであるかは別として)世間的にエリート大学生とされてしまうような立場である以上、第一に「寛容のパラドックス」という言葉が浮かぶようであってほしい。

  • この論において混同されやすいのが、内心の問題と言動の問題である。

  • 「多様性が尊重されつつある社会」というものが現代の社会の姿であると仮定したとしても、多様性を否定する考えを持つこと自体は何も否定されていない。否定されることがあるとすれば、それは多様性を否定する言動であろう。

  • ただ、反差別の立場からの提案内容が、内心と言動を不可分のように見せてしまっているところは否めない。たとえば「アンコンシャス・バイアス」は良く取り上げられる概念だが、このバイアス自体は内心の問題であり、どれだけバイアスがかかっていたとしても問題はないはずである。しかし、反差別の立場からは、自らのそれを客観視し、修正することが求められることがままあるように思う。有名なACのCM「聞こえてきた声」にも、そのようなニュアンスが含まれていることは否めない。

▼ ACのCMを批判する例 https://note.com/kind_impala862/n/n7daba0a44a96

小問題点その一:経験と規範を対立させている この広告が要求していることは、それぞれのセリフを中性的、もしくは従来のジェンダー役割とは逆の性の声で聞くことです。

小問題点その二:リトマス試験紙の役目しかしていない 第二の小問題は、このCMが一種のテストになっていることです。

  • 確かに言動の前提として内心がある以上、それを改善しようと努めることは必要なのかもしれない。しかしこれが内心の規制として意識された時に、「多様性が尊重されつつある社会」への反感が生じるのではないか。「客観視することが正しい人間の姿である」という規範は、たとえ遵守が強制されなくても、存在するだけで暴力的かもしれない。
  • 私自身、相互尊重に関するルール策定をサークル内でやった時に内心規制の懸念を後輩から指摘され、文言を修正した経験がある。
  • では、反差別の立場からはどのように発信していけば、より大衆的な理解を得られるのだろうか。あくまでも規制されるのは言動だけであることを明瞭に伝えられるのだろうか。反差別の立場からすればバックラッシュ的に見えるかもしれないが、ここはかなり後ずさりして考える必要があるように思う。
  • まず、内心は自由であり、そこにおいて「多様性を否定するのも多様性」という状況があることをあえて伝えてみるというのはどうだろうか。マイノリティにとってはいささか居心地が悪い環境かもしれないが、これを土台にすることが、大衆を巻き込んだ行動規制を可能にするというなら乗らない手はないだろうと思う。
  • そのうえで、言動のレイヤーでは差別的な言動が一切許容されないことを伝える。ここで重要なのは、よく知らない間柄だけでなく近しい間柄にもその原則が適用されるということである。他者と関わるということはそれすなわち何人たりともこの緊張感があるという事実を忘れてはいけないということが、現代的な人間観なのだろうと思う。
  • 「多様性を否定する人」と「多様性を深く認めたい人」の共存共栄が可能になる道は、これしかないように思う。行動のレイヤーでも、「多様性を否定するのも多様性」を適用すると、それは多様性自体が履かされるため容認できないのは当然である。これは、ミルの自由論における他者危害の原則にも近い考え方である。
  • こうしたフォーマットにすら反発するのであれば、それはもはや互いを脅かさない健全な共存共栄の実現を自己の権利侵害だと読み替えてしまうような、肥大化したエゴの問題になってくる。

「差別的だという人が差別しているのでは」

藤本タツキの『ルックバック』の内容が「偏見や差別の助長につながる」と一部修正。 健常者であれ精神障害者であれ、人間を殺めるほどの凶暴性は誰しも持っているもので、精神障害者が差別されるとクレームする人は、精神障害者をそのように同じく差別しているという投影の法則が当てはまると思う。

https://x.com/phonon7476/status/1427062261735034882?s=20 より

  • このような論調はよく見られる。しかし、これは論点をずらしていると言わざるを得ない。社会に存在する偏見を認識して指摘することと、その偏見を内面化していることは全く別の事象である。いわば、病巣を発見した医師に対して「病気のことを口にするお前が病原体だ」と非難するようなもので、暴論に他ならない。

  • ただ、これに直接反論することが難しいのは、「差別していない」ことを断言することができないからである。しかし、発言者が差別しているかどうかを話したいのではなく、いやむしろ発言者が差別していたとしてもそれに加えて構造的な差別が存在していないか、という論で乗り切るしかないのではという感じもある。

  • また、「差別的だという人は差別している」と言ってしまえばそれは無敵の論理となり、あらゆる差別を温存することになるからそんなものはありえない、という反論はありえるが、しかし「この場合に限ってそれを言っているのであって、あらゆる差別にしてそうだとは思っていない」とさらに返される可能性を想定する必要がある。そうなるとやはり上のものが的確なのだろうと思う。

  • 結論:「発言者が一切差別していないと断言することは難しいが、たとえ差別していたとしても、それに加えて構造的な差別が存在していないかを問題にして話したいので、こうして論点をずらすべきではない」

「ハラスメントを指摘するのがハラスメント」

  • 「多様性を否定するのも多様性」「差別的だという人が差別的」「ハラスメントを指摘するのがハラスメント」といった論は、すごく単純な構造の言葉である。「多様性」「反差別」「反ハラスメント」という絶対的に見える正しさの前で、せめてもの一手として出しやすいミラーリングらしき言葉なのかもしれない。

  • ハラスメントにおいて問題なのは、権力勾配である。その上位から下位に向かっていくハラスメントと、逆にそれに異議を申し立てる行為とを同列に見なすのは無理がある。

  • しかし、こうした意見を述べる人に見られる考え方として、現代においては告発する「下位」とされる側がむしろ絶大な権力を握る「上位」となっているのではないか、というものがある。確かに、「上位」「下位」というのはアプリオリに決まっているわけではないはずなのに、反ハラスメントの立場に立つ人はそういう風に考えておらず、男性>女性、上司>部下と決め切っているように見える。それがおかしいのでは、という問いはあって然るべきである。

  • 部下であっても集団で上司に不当な行為をした場合はハラスメントにあたる等、本来の反ハラスメントの論理は、権力関係を固定的なものとして扱ってはいないことを伝えなくてはいけないのだろうとは思う。

  • この論も、ハラスメントを指摘するのはハラスメントに絶対ならないとはいえないから厄介なのである。確かにハラスメントになる場合もあり得るのだが、「ハラスメントを指摘するのが」という普遍性のあるような言い方をすると、適正な異議申し立てすら拒まれる規範を生まないですかという方向で解決するのが丸いか。

  • 結論:「ハラスメントを指摘することは場合によりハラスメントになりうるが、すべてがそうだとはいえず、適切な申してである場合もあるので、断言調で言うべきではない」

「ポリコレのせいで作品はつまらなくなった」

  • この論自体に反論する前に、まずは「ポリティカル・コレクトネス」の概念でもって批判されることのある作品について取り上げてみたい。

藤本タツキ『ルックバック』

「ただし1点だけ。やむを得ないとは思うけれど通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ。」  何がステレオタイプかについて、はっきりした定義があるわけではない。印象論と言われればそうかもしれないし、精神科医という職業柄、この種の表象に過敏になっているのかもしれない。それでも通り魔的に無差別大量殺人を犯したと報じられた人物が、「独語のように幻聴を示唆する言葉」を呟き、「自分の作品を盗まれたという被害妄想らしき言葉」を口にしていれば、このひとは「意思疎通が不可能な狂人」であろうと推測してしまうのは、かなり自然な反応ではないだろうか。他の人物造形が繊細かつ入念になされているだけに、なぜここだけ、ひどく凡庸な狂気のイメージが置かれたのか、それが不可解だったのだ。ステレオタイプ、というのはそういう意味のつもりだった。  このシーンは藤野の想像であり、藤野の個人的偏見が投影されて生まれた表象なのだから、犯人の解像度も一段階低く描かれているし、「あえてのステレオタイプ」なのだ、という解釈もあり得る。しかし私には、現実のシーンとしては離人症的なアンリアルさ、夢想のシーンとしては妙な生々しさ、があるように感じられた。さらに言えば、この場面は藤野と京本が出会わなかった世界線で“実際に”起きたことであり、だから京本は(小学生の)藤野テイストの四コマを描いて(描けて)、藤野はそれを「こちら側」で受けとって持ち帰った、とも読める。さまざまな解釈を宙吊りにするような巧妙な仕掛けだ。だからこそ私は「空想の産物だからしかたない」とは思わない。

https://note.com/tamakisaito/n/nbeac7a25626b より

そんなことまでうるさく言い出したら作品なんか作れない、という意見には賛同できない。映画に関して言えば、いまやほとんどの作品が精神障害者を含むマイノリティへの偏見描写抜きで魅力的な悪を描き、理不尽な暴力を描こうとしている。PC (Political Correctness 政治的正しさ)が過ぎればフィクションが貧しくなると言う説にもくみしない。例えば野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』には、実在した犯罪者などを下敷きにしつつ、現実にはありえないほど誇張されたキャラの変態的殺人鬼が何人も登場する。いわゆる伝奇的手法(ただし狭義の)というものだ。にもかかわらず、徹底した取材とゆきとどいた配慮によって、PCには1ミリも抵触することなしに、手に汗握る変態暴力宝探しを展開し続けている。

https://note.com/tamakisaito/n/nbeac7a25626b より

本作において通り魔の存在は、「人の形をした理不尽な暴力」として描かれていて、それ以上でもそれ以下でもない、という解釈も可能であろう。藤野の空手キック一撃で倒せる程度の暴力である必要があったので、天災や事故であってはまずいし、個人的な背景を持った変態とかストーカーを描いてしまうと、作劇上のバランスが崩れてしまう、のかもしれない。せめて幻聴を匂わせなければ、という気もするが、それだと完全に某事件の某容疑者がモデルに確定してしまう。難しいところだ。

https://note.com/tamakisaito/n/nbeac7a25626b より

  • ここで指摘されているのは、記号の問題である。
  • 「精神障碍者(と思われる人物)が犯人であること」それ自体が問題視されているわけではない。無差別殺人という凶行と統合失調症を強く想起させる記号(=意味不明な独り言や幻聴)が結び付けられている点に問題がある。精神障碍者の理解不能性が殊更に強調され、そのステレオタイプが再生産されているのではないかという指摘である。
  • ここで提示されるべき視点として、とりわけ短い時間で表現するためには記号を用いることは不可避であり、ステレオタイプの再生産を回避することは不可能なのではないかという考えがある。ここで指摘したいのは、そうしたステレオタイプはいわば「社会にありふれている」わけで、そういった凡庸さに依存した作品であるという時点で既につまらないのではないかという視点である。差別的な記号というのは、「差別だからつまらない」というより、「クリシェに依存しているからつまらない」ともいえる。これと対照的な例として挙げられるのは、たとえば『光が死んだ夏』だろう。怪物=悪というステレオタイプをずらしていくことに面白さがあり、これは「権利志向的だから面白い」というより「ずらしが面白い」といえるだろう。
  • こうした議論がある一方で、記号が封じられることで、短い時間の中でそもそも「精神障碍者(と思われる人物)が犯人であること」自体が描けなくなるのではないかという連想も生まれてくるだろう。これを表現の自由の剥奪のように捉える人もいるかもしれない(「表現の自由」とは一般に公権力からの自由を意味するもので、これは誤用に近いが)。
  • しかし、ここで指摘しておきたいのは、大衆向けの作品に伴う責任である。たとえばミニシアターや小劇場で上映される映画のように社会の中のごく一部の人々のみに見せるための作品とは違って、大衆的な知名度を得た作家の新作というのは不特定多数の大衆に届きうる作品である。作者がタッチポイントを設計しづらい作品といってもいい。
  • その際考えなければいけないのが、社会的コンセンサスの問題である。10年前であれば問題なかったことも、現代の大衆は許容できないかもしれない。そのことを考える必要が生じるのではないか。本当に「自由」に作りたいなら、匿名でpixivにでもアップすればよい。
  • では、本当にそう言い切れるのだろうか。「表現の不自由展」が脅迫行為によって中止となった際、展覧会を批判する立場からは、「私費で勝手にやることは禁止されていない」と述べていた。この論理は果たして正しいのだろうか。私個人としては、部分的に正しいと感じる。公の展覧会として行う以上、商業的な成功も視野に入れて、大衆に「拒絶」されないで済むかどうかは慎重に検討される必要がある。ただしここでの「拒絶」と「批判」は異なる。批判であったとしても、むしろ作品を歓迎するような場合はあり得るだろう。また、ここでいう「批判」も「拒絶」も、あくまで健全な言論に依らなければいけないだろう。
  • 話を『ルックバック』に戻したい。ここで指摘された記号の問題は、「拒絶」に近い。そして、商業的な意図をもって、それは修正された。これをもって藤本タツキが筆を折ることになったわけでもない。これをもって「表現の自由の侵害」とするのはいささか無理がないか。ただ単に、多くの観客に「拒絶」されない作品にするための商業的な設計の一つなのではないか。

新海誠

  • この大衆向けの作品に伴う責任の問題が顕著に出ているのが新海誠作品である。
  • 新海誠については女性描写の不適切性も指摘されているが、個人的には神話や天皇に関わるモチーフの扱い方に粗さがあり、それが『君の名は』以降の大衆作家としての新海のありかたと矛盾しているように思われる。
  • これも、『秒速5センチメートル』あたりの新海だったら許容されていただろうに、観客の幅が広がり、思わぬところに届きだしたために、「拒絶」が生じ始めてきているというように考えることができる。

本題に戻る

  • ここまで見てきたように、ポリティカル・コレクトネスによる修正というのは、より多くの観客に「拒絶」されないで済むという商業的な計算の一部として捉えることができる。

  • しかし、ここで指摘すべきなのが、「拒絶」の一つとして捉えられる「炎上」は、そこで炎上している描写の当事者である観客のもつ商業的インパクトにふさわしい範囲の権利行使といえるのか、という問いである。

  • 「商業的計算」という言葉を字面通り捉えるなら、マイノリティへの配慮というのは少数への配慮にすぎないのであって、軽視しても構わない。だから、現代における「炎上」は領分をわきまえない不当な権利行使であり、不適切だという考えがあり得るかもしれない。

  • では、本当にそうなのだろうか。

  • ここで考えられるのは、観客の他者へのまなざしである。「拒絶」というのは自分自身が踏みにじられた時だけに発動されるものなのではなく、他者に対してもある程度発動される。「誰かが踏みにじられている」ということが前面に表れたとき、そのコンテンツを受け入れられなくなる、という人は一定数いるのではないか。「炎上」というのは、その気づきを可能にする導線といえるのかもしれない。

  • また、気づきへの導線としての「炎上」を不当な権利行使とするのであれば、資本主義社会において少数者がその尊厳を回復することは最初から困難になってしまう。それが構造的に不適当であり、その不適当さは、「炎上」の不適当さを超えるのではないか、という比較の観点も必要になるだろう。

  • 結論:「ポリコレによる表現規制」と言われているものの実態は、単なる商業的な工夫であることが多い。また、クリシェに頼らずに作品を作るべきというのは、そのクリシェが「差別的」であるかどうかに関わらず一般的な制作の原理である。さらに、「炎上」は確かに手続き上の正しさを伴わないが、資本主義社会において少数者がいち消費者としての権力しか持ち合わせていないことによって差別が温存されることの正しくなさと比較した時に許容されるべき「正しくなさ」として捉えることができる。