白鳥之歌

日記(2025-10-04)

SS! Creation

原因は自分にある。のクリエイション

久々に原因は自分にある。のファンクラブ会誌が届いた。冊子の質がすごい。表紙がマットPP加工されている。

去年謎にファンクラブ会員向けに発送された写真集みたいなZINEも1年越しに開封したらすごい。顔を一切使わずシンプルに箔押しで勝負する表紙、素晴らしい。

一ページ開くと、各メンバー別にシェイクスピアの作品のセリフが割り振られていて、ただただすごい。このクリエイションが許される環境良すぎる。“Love looks not with the eyes, but with the mind, And therefore is winged Cupid painted blind”が割り振られるアイドル……。

ここまでゴリゴリにコンセプトを固めて作り込まれた男性アイドル関連の作品って日本においてはそこまで存在しないような気がしていて(逆に韓国はしっかりしていることも多い)、げんじぶのこういう側面がもっと評価されてほしい。デザイナーの小木曽美季(Miki Ogiso)さんのインスタはすかさずフォローした。

それで思い出したのは、『仮定法のあなたへ』まわりのアートワークの質の高さ。そもそも『仮定法のあなたへ』というタイトルの時点でかなり勝っているのだが、この紙吹雪が散るジャケ写がとても良い。

紙吹雪というモチーフは、生の祝福といった感じで好きなのかもしれない。『国宝』で紙吹雪が舞うシーンがとことん美しく描かれていたのも感動的だった。紙吹雪が舞っている中で死にたいな、と思いつつ、ある短歌を思い出していた。

舞台の上で往生したい ピンスポが照っている時だけが私

京大短歌29・ますだなぎ 連作『灯体』

 自分は作品としてもこういうものを書けない感じがある。視線の中にいたいとは思わない。むしろ、真っ暗闇に紙吹雪の触感だけがある、その感覚の中で往生したい。

 昨年作ったプロジェクションマッピングには先代の作品、そして先々代の作品があって、ずっと今年に入ってからそれらの作品との違いを考えたりしていた。内容は先々代の作品、形式は先代の作品に似ているような気はしていたのだが、いまいち核心には至らないまま時が過ぎていった。なんとなく最近分かってきたのは、先々代は「重たさ」/先代は「まっすぐさ」/自分は「湿っぽさ」であり、先々代は「秋」/先代は「冬→春」/自分は「夏」である、ということだろうか。『光が死んだ夏』を見ているうちに、自分が描きたかったものってこれだという気持ちがあって多少引っ張られている部分はあるとは思うけれど……。

 先々代は、解決せずに残留する感じというか、また何かを大きなものを連れてくるというか、生きていけるのか不透明な感じが強かったように思う。それに対して先代はすべてがストレートで、パキっと一直線にゴールとか解決に向かっていくイメージがあった。じゃあ自分はというと、解決はしているんだけど別に良くなってはいない、でも生きてはいけるという感じがする。ここらへんはずっと言語化し続けて語り直し続けることになる気がする。

SS! Society

移動とジェンダー

「親が子どものために送迎するのは当然でしょ」、そう思う人もいるかもしれない。しかし、母子世帯や父子世帯であったり、遅い時間まで親が共働きしていたりする場合は、たとえ送迎が週1、2回であっても難しい。地方だと最近は熊が出る。

 時の針を巻き戻し、地域のつながりが強い時代だったら、お互い様の関係で送迎をお願いできるかもしれない。でも、今では隣人の顔も名前も知らない地域も少なくない。

 負担は、主に母親の肩にのしかかっている。ある研究によれば、母親は父親よりも地域移行に関する強い懸念を示す傾向があるという(林田ほか 2024)。一つの理由は、子どものスポーツ活動を支える過程で母親のほうが大きな精神的・身体的負担を背負ってきたからだ(宮本 2023)。共働き世帯が増えても、性別役割分業の規範は根強く残り続けている。

https://nankyokko.com/uminari/masato-ito/%e7%ac%ac%ef%bc%91%e5%9b%9e%e3%80%80%e7%a7%bb%e5%8b%95%e3%81%a8%e3%82%b8%e3%82%a7%e3%83%b3%e3%83%80%e3%83%bc%e3%81%ae%e4%ba%a4%e5%b7%ae%e7%82%b9%e3%81%a7%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b/

面白い記事だった。

加害者家族

そもそも「加害者家族」支援という概念自体が新しいものだ。それは「加害者家族」はある意味で被害者でもあるという認識に基づくのだが、日弁連がそれを掲げて本格的取り組みに乗り出すというのは歴史的な出来事と言ってよいだろう。

 よく言われることだが、日本は欧米に比べて「個の確立」が遅れ、「家」という観念が長らく社会を支配していた。その中で、家族の中に犯罪を犯した者がいると、家族ぐるみでバッシングを受ける。犯罪者の子どもであることを、その子ども本人は選択して生まれてきたわけではないから、親が犯罪者であることを理由に子どもをバッシングするのは全く理不尽なのだが、それがしばしば行われてきたのが日本社会である。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bb1d17aa883c37e2528dfc271345d9732d264d

月刊『創』(つくる)10月号にオウム事件・松本智津夫元教祖の三女である松本麗華さんと、和歌山カレー事件・林眞須美さんの長男の対談を掲げたが、この2人は、激しいバッシングを受けて生きてきた象徴とも言えるだろう。

 麗華さんは現在も就職は困難だし、銀行口座開設もできない。独学で3つの大学に合格したが、全ての大学から入学を拒否された。出自による差別は行ってはならないと教えるべき大学がそういう措置に出たという異常な現実は、この社会の歪みを表わしているといってよいだろう。

 例えば彼女の入学を拒否した当時の和光大学の学長は、差別問題に造詣が深いリベラルな学者だった。後に麗華さんに裁判を起こされて法廷で証言したのだが、「個人的には入学拒否はいけないと思っているが、組織としては苦渋の決断だった」と述べた。当時、同大学講師だった森達也さんによれば、麗華さんが合格したという情報が広まった時、彼女を入学させるならうちの子を通わせるわけにはいかないという父母からの電話が殺到したという。学長が個人としての信条を曲げてでも苦渋の決断をせざるをえないほど、社会の「同調圧力」が強かったわけだ。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bb1d17aa883c37e2528dfc271345d9732d264d

 これも良い記事だった。和歌山カレー事件で加害者とされた林眞須美の家への落書きのおぞましい画像がかなり印象的。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/00bb1d17aa883c37e2528dfc271345d9732d264d

SS! Culture

人と会ったり

 高校の先輩と会うととにかく知見を得られる感じでやっぱり良いなと思う。人の発したものに対して是々非々でクリティカルに見つつ、それは別にその人の人格の評価にあんまり響かせない。どのような言動の積み重ねがあっても、それが次の言動の評価を左右しない、言動どうしも独立的な事象として評価しているというか。100回間違ったことを言っても、次の1回にめちゃくちゃ正しいことを言うかもしれないので、ちゃんと聞いてくれるし、その正しいことを言った時にはちゃんと正しいと言ってくれるというか。懐柔しづらいが、敵にもならないというか。冷たいように見える人もいるのだろうが、開かれた態度でもあるというか。それが「らしさ」なのかもしれないと思う。理解できない言動があったときに、それが理解できないという評価はちゃんとするのだけれど、接し方には響かないというか。こう書いていると、去年まで所属していたサークルの代表の人間はある程度こういうところがあって、それが好きだったのかもしれないと思ったり。自分の場合、対作品では発揮される批評性が対人では発揮されない部分があり、こと直接話した人間に対しては「信じたい」「是非よりも解釈」が先行しすぎるので尊敬しかない。

ただ一方で、自分も多少は持っているであろう考える力みたいなのを、もっと創造的なことに使える余裕がある、その特権性には少し嫌気もさしてくる。メンタルヘルスのこと、セクシュアリティのこと、発達特性のことなど、明らかに余分なことにリソースを食われすぎているような気はする。「ガラスの天井」って組織文化の問題もあるけど、そもそもの社会構造の影響で人生における可処分時間の違いが出てることに影響されている部分は絶対にある。それが、組織を居場所と思えるようになるために積むべき努力に時間を費やせるかどうかの差(そもそも居場所を作るために必要な努力の総量自体が属性によってかなり違うのに!)に繋がってくる。

こういう風に考えているうちに、果たして大学の間に仲良くなったものの結局微妙なところに落ち着きそうな相手って自分にとって良い相手だったのだろうかなどと考えが移ってきた。この人といる時の自分って良いなと思えるのってだいたい高校の関係者といる時なような気もする。味方を作って、そこにいない人間のことの言動に曲がった評価をして悪く言うような文化圏は結局本来の自分に合わないというか、そこにい続けると魂が汚れてしまうような気すらある。排除のうえに成り立った「味方」グループの中に入れて居場所が出来た気がするぐらいなら、そんな暴力的な構造に加担するぐらいなら、最初から排除される側に回ったほうがましなのかもしれない。そもそも、たとえば「7人組のうち3人で動くのは別に良いが、5人で動くのはさすがに排除では?」みたいな感覚ってどこまで共有されるものなのだろうか。そこの境目がないというか、どこまでも有志で動いている感覚であるがゆえに、それが他の人から見たら排除になりうるという自覚を持てないまま突き進んでいってしまうのはそこそこある事例な気がしていて、ちょっと怖い。

 いろいろメモ。

  • ゲーム産業はこれから強いのではないか。AIが体験ごとデザインできるようにできれば、それぞれにどんな体験があったか会話が生まれるのでは。じゃあ「同じものを見る価値」ってなんだろう。批評ってもう成立しないのでは?

    • 同じものを見ているはずなのに違う感想が出て来ることが面白味として消費されているからまだ映画ってこんなに売れるのではとも思うので、ちょっと100%そうだとは思わなかった。
  • チームみらいのエンジニアが、SNS上にはびこる言説に染まってしまう前に言語化できる機会を万人に提供して、そのうえで政治信条が比較的近いが少し異なる人同士での対話を促していくことで合意形成を図れるのではないか、としていたという話も面白かった。

  • 関西万博での落合陽一のパビリオンの問い、人間の価値を賢いことに求めるのは違うのでは?という問いは確かに良いのだが、ポピュリズムの流行を見るとそれはそれでどうなんだ、みたいなことを感じるという話も確かにそうだなぁと。

  • 資本主義社会というのは基本的に、予め目標があって、それを達成するために設計図が組まれるというトップダウン的な方向性で仕事が生まれていくが、どちらかというと、日曜大工的な、その場にある材料から何が作れるかを考えることのほうが好きかもしれない、という話も出た。

  • 「瑠璃の宝石」と「ルリドラゴン」などの漫画も知った。

シニカルさ

批判は重要だし、他人事と思わないと批判できないというのもあるけれど、当事者性や責任感を失ったシニカルさに転じて欲しくないとは思ってます。

https://x.com/nomikaishiyouze/status/1974390178493215015

批判の手段として「皮肉」は確かにあって、有効な時もあると思うのですが、仲間内の頷き合いに終始してしまったり(連帯を強めることそれ自体は重要だと思いますが)、当事者として真正面から議論すること、責任を負うことから自分を避けさせてしまう効果もあるのかなと感じる時もあります。

https://x.com/nomikaishiyouze/status/1974417647090753764

 げんじぶのもつシニカルさって、ともすれば責任回避的に写りかねないような気はする。でもげんじぶってそうじゃないんだよね。自分が特に好きになったのがもろに彼らに当事者性がある『灼けゆく青』あたりからというのもあるし、もともとのグループ名のおかげもあるんだろうけど、連帯したカウンターという雰囲気に振っている感じがある。

当事者性と解釈の問題

NHK短歌 題「昔の自分と話せるなら」
選者 木下龍也
入選しました。2年前に入選し、もう2度とないだろうと思っていました。
木下龍也さんは短歌を始めるきっかけになった歌人なのでうれしいです。ありがとうございました。

https://x.com/aoisoka7/status/1972097013404852235

 これ、「宮城県石巻市」と入るか入らないかでかなり受け取り方が変わるように思う。「宮城県石巻市」と書かれていなくても、「宮城県石巻市」と書かれた時に想像する文脈の可能性を考えられる読者でありたいなぁと思う。少数者の作った作品は自己開示を伴わないと読み取ってもらえないというのは結構大きな権力勾配な気がする。

『光が死んだ夏』

 アニメ最終回が放送された。2期もさっそく決まったようで。地上波アニメでここまで直接的に表現していいんだという感じだった。これ放送できるならなんでもできるのでは。

yoshiki saying “ya don’t gotta be normal” with straight couples in the background hmm i know what you are yoshiki

https://x.com/nuieater/status/1972011428463923202

 アニメオリジナル展開でよしきがヒカルに対してかなり怒って手を出すシーンがあったのがよかった。このシーンがあったことで厄介なタイプ、モラハラ気質などと評されている部分もあるのだが、「かわいそうな善人」ではないクィアを描くというか、「こういう欠点もあるけど、でもこの人の感情はちゃんとこの世に存在するものとして認められるべきだよね」という話をしているし、そういう「厄介さ」を創り出した要因の一つは何ですか?という話もしている。バケモンでない、当たり前に受け入れられるべき存在をバケモノのように扱うから、抑圧に次ぐ抑圧で本当に行動がバケモノのようになってきてしまう(それで余計に認められなくなっていくという負のループに陥る)時に、じゃあどこに瑕疵があるんですかという話になってくる。

 この話をしていると、何を「バケモノ」とすべきなのかがだんだん分からなくなってきていて、かなり異なる解釈も出てきている気がする。自分の行動が至極自己中心的だとよしきが自認していることを引き合いに出して、そのエゴがバケモンなんだという解釈も確かに成り立ちはしそう。でもそれは客観的に判断できるバケモノがあるという前提に立っているような気がして、自分は乗れない。よしきが自分で考えている「バケモノ」像というのは、内面化した社会規範(とくに異性愛規範)によって捻じ曲がっていて、過剰に自分をバケモノだと思う節がある、という点を考える必要がある。あくまでバケモノは個々人が勝手に見出すものであるが、バケモノであるという共同体の中での合意が取れる時にその存在というのはその共同体で完全にバケモノ扱いされ、排除されるようになる。よしきをバケモノ扱いしないコミュニティは人間界のどこかにはある(でも同時によしきが今ヒカルとの二人の世界にしか居場所がないと思っているその切実さは理解したい)けれど、ヒカルをバケモノ扱いしないコミュニティはおそらくなくて、だからよしきが唯一の居場所だったりするのだろう。

 と書いていると、これこそが『怪物』でやるべきことだったのでは?と思う。怪物というのは社会的に作られるものであって、別に最初から怪物である存在なんていないんですよという話をするために、わざわざクィアを社会から排除して終わるようなああいう結末を描く必要はないのでは。あらゆる人間を対等に描いた前半パートの努力というものが、最後一気にクィアに不利な状況に傾いて終わるのはちょっと違うのではと思った。

もうきみを忘れずにいることでしかきみに会えない 驟雨が過ぎて(榊原紘)

銀河鉄道の夜のジョバンニとカムパネルラ、こころの先生とK、呪術廻戦の五条悟と夏油傑、光が死んだ夏のよしきとヒカルのような関係性に狂ったことがあるひとは榊原紘さんの歌集『悪友』を読んでとどめを刺されて欲しい

https://x.com/7888999eeettt/status/1972261863108038947

 めちゃくちゃいい短歌だ。

――その塩梅が、絶妙ですよね。田舎だからだめ、という描き方は決して、されていない。よしきの感じている生きづらさも、田舎だからではなく、どこにいてもある程度は感じるものなのではないか、とあとがきで書かれていたのも印象的でした。

モクモクれん:因習に縛られた老人たちはどうしても悪者のように見えてしまうけど、長く生きてきたからこその経験と知恵があるから、村を守るために言わなくてはならないこと、やらなくてはならないことがあるわけで。彼らがいちばん恐怖を感じているから、ああいうふうになってしまうのだということはしっかり描きたいと思っていました。よしきに関しては、自己否定しがちなのはプライドの高さゆえでもあって、おそらく達観しているふりをして自分を守ろうとする性質なんだと思うんですよね。だからたぶん、どんなコミュニティに属していてもネガティブな面は消えなかったんじゃないのかな、と。表出の仕方は変わるかもしれませんけどね。

https://ddnavi.com/article/1294738/a/2/

面白い慣用表現

日本語学をやっているからなのか、慣用表現が気になることが増えてきた……ような気がする。

  • 「悪いこと言わないから」

    • 「あなたにとって悪いことを言う意図はなく、むしろ良くなってほしいと思うがゆえにするアドバイスなのですが」をここまで短縮できるのすごいなぁと思う。
  • 「◯◯(単語)なわけじゃないんですが……」といって、それと矛盾しないことを後に続ける

    • 結局それ「◯◯」じゃない?と思うからよく分からない。たとえば「我田引水というわけではないですが、この話を聞いてまず思い浮かんだのは自分の経験でした。」とかは、我田引水以上にこの状態を端的に言い表す適切な言葉が見つからないから、周縁をなぞる感じで我田引水といってみましたみたいなところを感じる。