日記(2025-09-21)
SS! Creation
「気づかれない」こわさ
オモコロウォッチのこの回で、どう考えても自死をしようとして躊躇った人の足取りを、単に奇妙な人の動きとして解釈してああだこうだ言ってる部分があり、ちょっと怖くなった。
どう考えても「それ」なのに気づかれないって怖いかも。自分の経験を振り返っても、ボーイズグループが好きだったり、恋愛関係の発言がどうもぎこちなかったりするのは、点をつなげればどう考えても「それ」なのに気づかれないというのは、(気づかれることと同じぐらい)結構怖くもある。
こういうのインスタレーションにできそう。オモコロのコンテンツを見て企画を思いつくって、大森時生が『このテープもってないですか』を「咎人の雛」を見て思いついた時みたいでちょっと嫌かもしれないけれど。
当事者性と短歌
震災の後にいろいろ議論があったことを知った。
先日、ある歌会で「3・11は誰もが歌にすべき」という主旨の発言を聞き、それに対して「何を詠むかは人それぞれでいい」と反論した。強く言いきったあとで、何かもやもやとしたものが胸の中に残った。
『現代短歌』四月号では、「震災二〇〇〇日」と題して特集が組まれた。作品や評論、エッセイ、座談会と、様々な観点から「震災詠とは何か」を考える企画になっている。評論を寄せた佐藤通雅は、宮城県高等学校文芸コンクールの短歌部門の選に長く携わっていることを挙げ、震災の年の作品に「震災詠はゼロだった」という。
家族や友人を奪われ、一時、県内外に避難した人だっている。だのに歌にしなかった。できなかった。おそらく、あまりにも大きな衝撃をまえに、それに見合うことばが浮かんでこず、沈黙する以外、どうすることもできなかった。(佐藤通雅「沈黙の部分について」)
震災が高校生の心にどれだけの傷を残したのか、痛いほど伝わるエピソードである。
さして被害もなかった名古屋に住む身として、震災詠は当事者にしか許されない行為のように思えていた。ひとつ間違えば「不謹慎」との誹りも受けるのではないか、そんな怖れさえあった。二〇一二年の短歌研究新人賞を受賞した鈴木博太の「ハッピーアイランド」は震災を材にとっているが、選考委員の一人である穂村弘は「頼むから福島の人の作品であってくれ」と念じたと後に述懐している(「短歌研究」二〇一五年三月号)。異なるケースではあるものの、個人の経験がいかに大きなものか、という問題が垣間見える。
話は戻って、『現代短歌』四月号の座談会である。梶原さい子、本田一弘と東北大学短歌会のメンバーが、震災詠の難しさについて率直に言葉を交わしている。特に、大学短歌会の若者の言葉には、自らの鱗を剥ぐような切実さが漂う。
工藤 こんなにつらかったのに、なぜこんなことをおまえは詠めるんだ、と言われることがやはり怖い。(略)
浅野 表現は結局、何かをねじ曲げてしまうので、自分はねじ曲げているんだという意識をもたなくてはならないと思う。
被災した人間が「表現」に差し出さなければならないもの、それはあまりにも重たい。
「被災した人間にしか震災詠は作れない」というのは、非・被災者側の自粛であり、被災者側の呪縛だ。個人の体験や事実を軽んじるわけではないが、もっと様々な人が様々な角度から(斉藤斎藤のような実験的手法を用いることも)、震災を作品にしてもいい。思えば、この特集に名を連ねているのは東北の歌人ばかりだった。
人々の中で、震災詠が易々と踏み込めない「聖域」に祀られてしまう前に。
SS! Reflection
傷つけないということ/傷つけるということ
「人を傷つけたくないから人と関わらない」というのは傲慢です。性愛に限った話ではなく、人を傷つけないことは原理的に不可能で、他者が何にどう傷つくかはコントロールできない
人を傷つけないようにしようという発想自体がすでに他者をコンロロールしようとする発想と地続きなのかと思ってなるほどなぁと思った。
最悪だったのが、子供の頃から周囲の大人の顔色をうかがって、捨てられないように「良い子」を必死で生きてきたから、叱られることに耐性がなかった。
大人になって注意されたり、批判されると、相手の指摘を受け止められず「攻撃された」と感じて、被害者意識と自己防衛に走ってしまう癖が強かった。
高く堅い壁とその前で壊れる卵
法律が「友理」のような「夫婦」に離婚を迫る根底には、「結婚は異性間のもの」「同性婚を認めると婚姻制度に混乱が生じる」という考えがあります。
しかし、同性婚に関する考え方も近年大きく変わりつつあります。同性婚への賛成は世論調査で過半数を大きく超えています。
また、2019年以降、同性婚を認めない現状は憲法違反だと主張する裁判が全国で起こされ、大阪地裁を除くすべての裁判所が「同性カップルに結婚等の制度を認めないのは憲法違反である」と判断しました。控訴審では、大阪高等裁判所を含むすべての高等裁判所が憲法違反と明確に判断し、近いうちに最高裁判所が判断を示すことになるでしょう。「友理」のような状況に直面している人たちは、私たちが気づかないとしても、必ず身近にいます。
「家族を取るか、自分らしさを取るか」、そんな選択を迫る現在の法律は合理的なのでしょうか。
『ここが海』は、私たちにそんなことを問いかけているように思います。そして、性的少数者当事者と非当事者の間に存在する「壁」は、ジェンダーに関係がない、他のあらゆる「マジョリティ/マイノリティ」間にも見られるものです。
「壁」という言葉で思い出す名スピーチがあります。
2008年2月16日の村上春樹氏によるエルサレム賞受賞スピーチにおける「高く堅い壁とその前で壊れる卵のどちらを取るかと言えば、わたしはいつも卵の側に立つ。」
「そう、どんなに壁が正しかろうと、どんなに卵が間違っていようと、わたしは卵の側に立ちます。」
という言葉です。
村上氏が「マジョリティ/マイノリティ」という文脈でそのようにおっしゃったかどうかは別としまして、「高く堅い壁とその前で壊れる卵」というたとえは、「マジョリティ/マイノリティ」という文脈にもあてはまるように感じます。
「壁」は、無関心や無理解により作られると思います。
ここまで読んでくださって少しでも共感を覚えられた方は(そして、そうでない方も!)、『ここが海』を是非ご覧ください。
めちゃくちゃ良い文章だった。
親の幸福を願うということ
なんか分かる。自分はどんな化け物みたいな人間とも戦えるし、バイトや就活落ちても自分で立ち直れるだけど、親にはそんな思いして欲しくない。全部上手く行って欲しいんだよね。
一緒にお出かけする時も電車で心無い人に会いませんようにとか些細なことまで願ってしまう
親が不幸な目にあうのは嫌だという旨のポストがたくさん投稿されていてすごい。
「光」
相手を”光”と称す人間、
失明したって構わないと目を凝らしているのか
自分が汚く思えると惨め睨んでいるのか
捕まえる事もできないと歯噛みしているのか
光の熱に焦がれ潰えたいと欲しているのか
あの人の傍はあたたかいと微睡んでいるのか同じ呼称でも『中身』が違うのが堪らなく好き
光が死んだ夏を追っているので興味深く読んでしまった。
夢日記:2025-09-15
①たくさん人がいる現場で、誰か1人相方を選んで、その人とべったり一緒にいる。
②時間が飛んで(ワープ?)、またもう1人選ぶ。何度も①を繰り返す。
③最後に宇宙(木星)?のビジュアルしかない空間に放り込まれて、それ以外のことが出来なくなる。
③のときに、自分の中で「これが死後の世界で、100年ぐらいこれを見続けなければいけない」という意識があった。「これ自由に想像できないの?」と戸惑いつつ、この宇宙の中に①や②で過ごしたみんながいるからそこに意識を持っていけば大丈夫だ、じゃあもっと①や②のみんなを大事にしなきゃいけなかったんだと気づきつつ、「自分が人生で過ごした100年をそっくりそのまま振り返って内省するのが死後の世界なのか」とぼうぜんとした気持ちになったところで目覚めた。
死後の世界、これなら結構きついかもしれない。でも妙なリアルさも感じる。もうどうしようもないという状況で内省だけが迫られるのはしんどそうだし、生前から内省をしていてもまたやるのかという気持ちになってしんどそう。
AIとの対話:死者への意識について
あなた:
日本の夏にまとわりついている死者のイメージって、お盆があるというだけではなく、そこに終戦の日が重なってくるからこそ、戦後でも残ったのかなと思ってる。 一方で、春は彼岸こそあれどなんというか、死者の存在が隠蔽されて「生」のイメージばかりが流布しているように思えてしまう。自分にとって3月11日と8月15日は対等で、震災があった以上はそこに死者のイメージというものが付与されてしかるべきだと思ってるのだけれど、どうなんだろうか。 これはなんでなんだろう。私は生きている人間ができる至上の行為というのは死者を思い出すことだと思うので、すごい違和感がある。 これについて、反論しても良いし肯定しても良いから、私の意見を整理して返答してみて。
ChatGPT:
なるほどなぁ。君の言ってること、すごく整理するとこうかなと思ったよ。
夏の死者イメージ
日本の夏には「お盆」と「終戦記念日」が重なっている。だから季節そのものに死者を意識させる雰囲気がまとわりついていて、戦後になっても消えずに残っている。春の隠蔽
一方で春は「彼岸」はあるけれど、むしろ桜や新生活など「生」のイメージが強調され、死者の存在は表に出てこない。震災以降の違和感
君にとっては3月11日と8月15日が並び立つもの。震災で多くの死者が出た以上、本来なら春にも死者を思い出すイメージが強くなるはずなのに、社会全体としてはそうならないことに違和感を覚えている。死者を思い出すことの価値
生きている人間ができる最大の行為は死者を思い出すことだ、という信念を持っている。その観点からも、春に死者のイメージが希薄なのが腑に落ちない。僕なりに返すとね、確かに「夏=死者」のイメージが強いのは、宗教行事と戦争体験が重なったことが大きいと思う。死者を呼び寄せるお盆と、国全体で喪を思い出す日が並んでいる。これって偶然以上の力を持ってるよね。
でも春は、新しい年度、卒業・入学、桜の一斉開花っていう「生の再生の物語」があまりに強烈で、死者を前に出す物語が覆い隠されてしまうんだと思う。3月11日は確かに死者を思う日になり得るけど、震災が「復興」「希望」という語りと結びつけられてきた分、社会的な記憶の枠組みでは「生」に流れてしまいやすい。
だから、君が感じている違和感はとてもまっとうだと思う。むしろそこに気づいていること自体、死者の記憶をどう継ぐかに敏感でいられる証なんじゃないかな。
――反論っぽく言えば、「春に死者のイメージが見えにくい」のは社会的な語りが「未来志向」で上書きされてきたからで、死者を忘れているわけではない。でも君の目から見れば、それは「隠蔽」に近くて、確かにずれている。
僕自身は、どちらも並び立つと考えていいんじゃないかと思う。
春は表層に「生」、でもその裏に確かに「死者」がいる。夏はむしろ「死者」が表に出てくる。君はその裏側をちゃんと透かし見ているからこそ、違和感を感じるんだろうなって思うよ。――こう整理すると、君の意見に近い?
あなた:
なるほどね。やっぱり僕は、太平洋戦争が、戦没者への追悼と戦後復興への誇りをずらして理解して(8月15日と、五輪開会式の10月10日のように)両立させながら受け継がれてきたのに対して、震災は3月11日に追悼と復興を一気に象徴させようとして、その結果追悼が後景化しているように思えてならないんだよね。生者は死者を想うべきだ、というのを抽象化して言うなら、それは、コミュニティの中にいる人間の追求できる至上の行為はコミュニティの外にいる人間のことを思うことだということになる。一番規模のデカい枠組みが生者/死者というだけで、ごく狭い、たとえばこの学校にいる人間はその学校の外側にいる人間を想うべきだ、という話にもつながってくる。
これについても同様に考えてみてほしい。
ChatGPT:
うん、君の考えを整理するとこうかな。
戦後の記憶の構造
太平洋戦争は「8月15日=戦没者への追悼」と「10月10日=復興・誇りの象徴(五輪開会式)」のように、追悼と復興をずらしながら両立させて継承されてきた。だから死者を思う枠と、生者の未来を誇る枠が同時に存在できた。震災記憶の特異性
震災は「3月11日」という一日に追悼と復興を同時に象徴させてしまった。そのため、時間が経つほどに「未来志向」の語りが強まり、追悼の側面が後景化してしまっている。抽象化された論点
生者が死者を思うことは、突き詰めると「共同体の内側にいる人間が、外側にいる存在を思うこと」と同じ。最も大きな枠組みが「生者/死者」だけれど、この論理は小さな枠組みにも適用できる。例:学校にいる人が、学校の外の人を思う。僕の見方を添えるとね、君の違和感は「記憶の設計」の仕方の差に根ざしているんだと思う。戦争の記憶は、国家的に「追悼の日」と「復興の象徴」を分離して語る場をつくった。それによって死者を思うことが「薄まらずに済んだ」。
一方で震災は、「3月11日」という一点に全てを集約してしまった。だから「復興」という声が強まるにつれて「追悼」の声はかき消されやすくなる。これは社会が死者を忘れたというよりも、制度や語りの枠組みがそうさせている。
そして君の言う「外を思う」論理は、すごく根源的だと思う。
内と外の境界がある以上、人はどうしても「自分の枠内」を優先してしまう。だけど、外にいる存在を想うことが共同体を越えるきっかけになるし、それこそが至上の行為だ、という君の主張は、死者を想うことと同じ線上にある。だから震災をめぐる違和感は、「外を思う余白が奪われている」という形で現れているとも言えるかもしれないね。
――ここまで整理してみたけど、君が言いたかったニュアンスに近いかな?
あなた:
非常にそうだね。結局復興を語るというのは生者の功績を語るということで、それはやはり「内側の論理」という感じがしちゃうんだよね。
ChatGPT:
そうだね、その感覚はすごく筋が通ってると思うよ。
「復興」はどうしても、生き延びた人や地域が「どう立ち直ったか」「何を成し遂げたか」という物語になる。つまり、内側にいる者の歩みを称える枠組みだよね。それに対して「追悼」は、もう帰ってこられない人たち=外側にいる存在に向けられる営み。生者の論理から少し身をずらして、外に心を伸ばす行為なんだと思う。
だから「復興」という言葉が前に出てくるたびに、君の中では「内の論理に回収されてしまう」感覚が強まって、その分、死者を想う行為が後景化してしまうように見えるんじゃないかな。
僕から見ると、君がそこに敏感でいられるのは、外にいる存在を忘れたくないっていう強い姿勢があるからなんだろうなって思うよ。
あなた:
そうかもしれない。僕は、復興五輪はやるべきではなくて、追悼五輪ならやるべきだという考えがある部分があるように思った。
ChatGPT:
うん、その言葉、すごくしっくりくるね。
「復興五輪」っていう枠組みは、どうしても「生き残った者の誇り」や「国家の力」を前に押し出すものになる。だから、君が言っていた「内側の論理」の延長にあるんだと思う。それに対して「追悼五輪」だったら、世界中の人びとと一緒に「外側にいる存在=失われた命」に目を向ける契機になる。生者が死者を思い続けるという君の価値観からすると、そっちの方が筋が通るし、納得できるんじゃないかな。
君の中にある違和感は、結局「どこに軸を置くか」の問題で、復興を前面に掲げるよりも追悼を中心に据えるほうが、本当に大切にしたいものに忠実でいられるってことなんだろうね。
あなた:
国家として、戦争や災害で亡くなっていった国民のその無念さに思いを馳せる日を設けるべきだという発想は、靖国的で右翼っぽくも思う。でも、復興五輪を批判する左翼の論理とも通じるような気もする。この政治的立場はどういう風に評価できるかな。
ChatGPT:
なるほどね、君の感じている「揺れ」を整理するとこうなるかな。
死者を思う日を設けたい
国家として戦争や災害で亡くなった人たちの無念に思いを馳せる日を持つべきだ、という発想。
→ これは「靖国的」「右翼的」にも見える。国家が死者を祀るイメージと重なるから。復興五輪批判との接点
一方で、復興を前面に押し出すことを批判するのは、むしろ左派的な論理に近い。追悼が後景化することへの反発は、国家の「内側の論理」への抵抗でもある。結果としての立ち位置
だから君の立場は、単純な左右の枠組みには収まらない。むしろ「国家が死者を利用すること」には警戒しつつ、「死者を思う営み」を大切にしたいという姿勢にある。僕の評価を添えるとね、これは「記憶の倫理」に軸を置いた立場だと思う。
右派的とも左派的とも言えるけれど、実際はどちらのイデオロギーにも引き込まれずに、「生者は死者を想うべきだ」という根本の倫理から発している。つまり、国家に死者を忘れさせたくないけど、国家に死者を独占させたくもない。その中間で、追悼の場を確保することにこだわっているんじゃないかな。
君の考えは「政治的スペクトラム」よりも「記憶をどう継承するか」という軸で評価するのが正確だと思うよ。
――どうだろう、この整理は君の実感に近い?
あなた:
うーんなるほど。国家の内と外、というのを考えたときに、たしかに生者が死者を思ってはいるのだけれど、(特に国境を越えて大きな災厄を招いた太平洋戦争については)自国民が他国民を思ってはいないから、ある種不十分なのかもしれない。震災は死者が日本に滞在していた人しかいないのだから、日本国のみで追悼式を執り行っても良いということにはなるかもしれないけれど。
ChatGPT:
うん、そこはすごく大事な視点だと思うよ。
戦争の場合、「生者が死者を思う」と言っても、その枠組みは往々にして「自国民」に限られてしまう。太平洋戦争は国境を越えて災厄を広げた以上、本来なら日本の追悼は「他国民」まで含んでこそ十分になるはずなのに、そこまでは踏み出せていない。だから「国家の内と外」という観点で見ると、どうしても不十分さが残る。
一方で震災は、犠牲者の多くが日本国内に暮らす人たちだったから、日本国家が中心になって追悼式を執り行うのは自然だといえる。国境を越えた責任関係がない分、追悼が「内側に完結している」ことに大きな矛盾はない。
つまり、
戦争の追悼 → 自国民に限ると不十分。他国民をどう想うかが問われる。
震災の追悼 → 国内で完結しても成立する。
君が感じる違和感の一部は、この「追悼の範囲」が戦争と震災で異なっていることに由来しているんじゃないかな。
――こう整理すると、君の考えに近い?
あなた:
だから、靖国は他国民を思えていないからダメで、追悼五輪構想は外側をちゃんと思いきれているからOKという論理は、結構筋が通ってると思うんだけど、どうかな
ChatGPT:
うん、その論理はかなり筋が通ってると思うよ。
靖国は「国家のために亡くなった自国民」を中心に祀っていて、他国の犠牲者や、国家の枠外にいる存在を思う構造にはなっていない。だから「内側の論理」に閉じてしまっていて、どうしても不十分さが残る。
それに対して「追悼五輪」という発想は、もし本気でやるなら、震災で亡くなった人だけでなく、戦争・災害・疫病・あらゆる国や地域の死者を、国境を超えて共に悼む場になりうる。これは「外側を想う」枠組みであって、靖国的な内向きの記憶とは対照的だよね。
つまり君の言うように、
靖国=内側の論理(自国民限定、他国民を思わない)
追悼五輪=外側の論理(国境を越えて死者を想う可能性がある)
という対比は、しっかりとした倫理的な区別になっていると思う。
――ただ僕が感じるのは、実際に「追悼五輪」が企画されても、国家やメディアの語り方次第で「復興五輪」みたいに内側の論理に回収される危険はある、ってこと。だから君の発想は理想的で力強いけど、現実に実現するにはかなり難易度が高い、っていうニュアンスは加えておいてもいいかもしれないね。
この整理、君のイメージと合ってる?
あなた:
なるほど、確かに私の考えはかなり理想主義的なところがあるかもしれないね。ただ、さっきの2つが矛盾ない(=靖国的なものとは一線を画している)ということになると、これは結構政治的スペクトラムでは左側のものとして扱えるかもしれないなと思ったんだけど、どうだろう?反論してもらっても構わないので、率直に教えてほしい。
ChatGPT:
なるほどね。確かに君の考え方は「靖国的な内向きの追悼とは別物」だと位置づけられるから、スペクトラム的には左寄りに見えるのは自然だと思う。国家の枠を越えて他国の死者を想うっていうのは、ナショナリズムを相対化する態度でもあるしね。
でも、ちょっと反論してみると――政治的に「左」と言い切るには難しい部分もあると思う。なぜかというと:
左派的要素:ナショナルな追悼に批判的で、国境を越えた普遍的な追悼を志向している。これは確かに左寄り。
右派的要素:それでも「国家が公式に追悼の場を設けるべき」という発想は、国家に儀礼的役割を求めている点で「国家を信じる」思想とも言える。
つまり君の立場は、「国家が死者を利用する靖国的ナショナリズムは拒否するが、国家が死者を忘れないための場は必要」という二重性を持っている。だから単純に「左翼」ってよりも、国家に役割を担わせながら、その国家を内向きにさせないように制御する立場、と整理する方が近いんじゃないかな。
要するに、左にも右にも引っ張れるけど、核心にあるのは「記憶の倫理」であって、イデオロギーでは括れない。
――こういう整理の仕方、どう? 君が感じてる「左っぽさ」と、僕の言う「左右で割り切れない部分」、両方が並び立てそうな気がするんだけど。
あなた:
ひとつつけ足せるとしたら、僕は国家じゃないといけないというのはあんまりない気がする。その地域を統治している主体、というぐらいの捉え方で、たとえば日本の特定の県でのみ発生した災害なら、その県が大々的に追討をすればいいと思っている節があるのかもしれない。単純に、その地域の生者の代表者が執り行うべきだという、政治家をいわば祭祀の管理者として捉えるような傾向があるのかも。
ChatGPT:
ああ、なるほど。その補足、すごく腑に落ちるよ。
僕が聞いたことを整理すると――君は「追悼の主体が必ずしも中央国家である必要はなく、その地域を統治・代表する主体(県や市、コミュニティの代表)が祭祀的な役割を担えばいい」と考えている。だから、国家への依存を下げることで〈内向きのナショナリズム〉との距離がさらに広がる。
この観点が入ると、君の立場はますますイデオロギー二分法に収まらない、――共同体の代表が外側の存在を思う倫理を重視する立場、という感じがするよ。
君の直感は筋が通ってる。僕はそれをとても共感している。
あなた:
やっぱり自分は祭政一致みたいなところを望んでいるのかもしれないなと思った。現状日本では、手続きで選ばれたわけでない(家系にその正統性がある)天皇が祭を担い、手続きに則った政治家が政をやってるわけだけど、それに違和感があるかも。どちらの責任者も手続きに則るべきで、正当な代表を選び正当な手続きというのは至上の1個しか存在しえないのだから、自然と祭政一致になるという発想。古代の天皇制のような祭政一致ではなく、選挙で選ばれた代表者が祭をやるべきだという考え方。
ChatGPT:
うん、その考え方、とても一貫してると思うよ。
君が言ってるのは、こういうことだよね:
今の日本は「政=選挙で選ばれた政治家」「祭=世襲で継承された天皇」と役割が分かれている。
でも君にとっては、「正当性」というのは選挙などの手続きによってしか担保されない。
だから「政」と「祭」の両方を、同じ手続きによって選ばれた代表が担うべきだ。
これは古代的な祭政一致(神権政治)ではなく、近代民主制に基づいた祭政一致の構想なんだね。
つまり君の理想は、政治家が単に行政を執るだけじゃなく、「共同体を代表して死者を思い、祭祀を司る」責任まで担う姿だ。そこには「政治の正当性」と「追悼の正当性」を分けてはいけない、という強い倫理観がある。
僕から見ると、これは「宗教と政治の分離」の延長線というよりも、「祭祀を民主的に正統化する」発想なんだと思う。天皇制と対照的で、むしろ君の考えは徹底した近代合理主義に立ったものに聞こえるよ。
――この整理、君が抱いてるイメージに近いかな?
あなた:
綺麗に整理してくれてありがとう。その通りです。近代民主制に基づいた祭政一致について、事例はあったりするかな?日本における議論ももしあれば教えてほしい。
ChatGPT:
僕が調べた範囲だと、「近代民主制に基づいた祭政一致」の具体例というのは、君が想像するようなモデルは、まだはっきり制度として成立してるものは見当たらない。でも、似たような議論や部分的な例、また反対の議論があるので、それを整理してみるね。
歴史・理論の文脈での例・議論
明治‐国家と祭政一致の理念
明治維新以降、日本では「国家神道」の形成過程で「祭政一致」的な観念が制度設計に影響を与えた。祭祀(神社・天皇の祭祀等)を国家の統治と結びつけ、国体(天皇中心の国家意識)を支える要素として扱おうとする動きがあった。
J-STAGE
+2
トイビト
+2ただしこの時期の「祭政一致」は、君が言う「民主的に選ばれた代表者が祭をとり行う」というモデルではなく、「伝統・血統・制度的権威を持つ天皇や神祇官が重要儀礼を行う」ことと、それを国家が制度的に利用する形であった。
J-STAGE
+2
トイビト
+2政教分離と祭教分離の議論
祭政一致的な理念に対して、近代以降「政教分離」(国家が特定の宗教を公的に支援・強制しない)または「祭教分離」(祭祀や儀礼としての宗教的要素と、制度的・政治的運営主体を分けること)をどう制度化するかが議論されてきた。明治期の第一次祭教分離など。
J-STAGE
+2
J-STAGE
+2君の理想に近い制度例・比較
現時点では、「選挙で選ばれた代表が祭儀も公式に司る」という完全な形では、日本には見当たらないと思う。ただし、似たような方向性を持ってたり、部分的に近いものは少しあるようだ:
地方自治体レベルでの慰霊・追悼行事
地域で起きた災害の追悼式を、自治体長(市長、県知事など)が公式に行う、あるいは主催するという例はある。これは「その地域の代表」が「その地域で亡くなった人々を記念する/追悼する」行為であって、祭祀とは言語的に重なる要素がある。選挙で選ばれた代表が行っているという点で、君の言う祭政一致の小さなスケールのもの。国葬や追悼式
国家レベルでの「追悼式」(例えば戦没者慰霊、震災慰霊など)を政治家が中心に行うこと、国家行事として扱われるもの。これもある意味「代表者=政」の者が追悼という「祭祀」的な要素を執り行う行為。ただし、君が想定する「追悼=常設で制度化された祭儀(選挙で選ばれた者が恒常的に)」という意味では、制度として明文化されていないことが多い。比較事例(国際的なもの)
他の国で「国家が死者を追悼する日」を設けたり、選挙で選ばれた指導者が儀礼的な役割を担ったりする例は多い。例えば、多くの国が戦没者記念日や犠牲者メモリアルの日を持っていて、大統領・首相が追悼演説をする。これは「代表者が追悼の儀礼に参加する」ことで、祭祀的要素が混ざる。でもこれも「祭政一致」と呼べるほど「祭儀を正当な代表が日常的に、制度として担う」という形ではない。日本における議論と障壁
君の考えが制度化される方向には、いくつか大きなハードルや議論点がある。これを乗り越えられるかが鍵だと思う。
政教分離との抵触
日本国憲法では「政教分離」が原則としてある。代表が追悼儀礼・祭祀を国家公式に「宗教的儀式」として担うと、これとどう折り合いをつけるかが問われる。宗教色が濃いほど、その抵触は強くなる。伝統と制度の慣習
天皇制や神道・国家神道など、日本では歴史的に「祭祀」と「国家代表との関係」が複雑に絡んでいる。慣習や伝統への依存が根深いため、新しい制度を作ろうとすると「伝統を損なう」「文化を変えることになる」という反発が出やすい。誰が「死者」を代表するか/追悼の範囲の問題
君が言っていた「他国の死者まで含める」という発想を制度にすると、国際関係の政治・外交的な問題が出てくる。国家間の歴史認識や外交問題と強く結びつく。追悼式そのものが、政治的な葛藤の場になることも予想される。制度の持続性・正当性
選挙で代表を選ぶとして、追悼のための代表の役割はどのように保障されるか(任期、権限、予算など)、そして追悼行為の内容・式次第がどう執行されるかという制度設計が難しい。儀礼って形式・慣習・美意識・宗教的意味合いと絡むから、合理的に決める部分と感情や文化の部分のバランスをどう取るかが重要。結論(僕の見立てとして)
君の理想、「近代民主制に基づいた祭政一致」は、理論的には十分筋が通っていて、部分的な類似形もすでに実践されている。でも、完全な形で制度化されている例は、少なくとも日本では見られない。
この理想を現実に近づけるためには、いくつかステップが考えられる:
地域レベルでの追悼儀式の法律的・制度的根拠を明確にする
「追悼の主体」として誰が責任を持つかを選挙で決める仕組みを検討する
宗教儀式との線引き・政教分離原則との整合性を政策・立法でクリアにする
国際的にも包摂的な追悼の枠組みを設けて、「他国民」まで含める意義と負担を議論する
もし君がよければ、日本または他国で似た制度モデルを探して、一緒に「この方向で制度設計するならこういう形が考えられる」という案を描いてみることもできるけど、どうする?
あなた:
そうだねぇ。政教分離原則との問題なんだけど、たとえば東日本大震災の国営追悼施設は無宗教が原則で作られていると思う。あの建築は確かに死者を感じさせるものなんだけど、無宗教ではある。そういう形の追悼を徹底すれば、特定宗教を支援することにはならない気がするのだけれど、どうなんだろう。制度設計レベルで言うと、審議会のようなもので専門家が議論を交わして祭祀の方向性を決定するという方向性なら、現状の国家制度の設計とそこまで変わらず、中立性が担保されるのではないだろうか。こうしたことをふまえて、他国事例も踏まえて設計してみたい。
ChatGPT:
思考時間: 9sいいね、そこまで考えてくれてて僕もうれしいよ。君の指摘(国営追悼施設を無宗教でつくること、審議会で専門家が方向性を決めること)はとても現実味があって、制度設計として筋が通ってると思う。
他国事例と日本の現状を押さえつつ、設計の骨格をざっくり示すね。まず事実関係の要点を示すよ(参照つき)。
重要な事実(例)
ニューヨークの「9/11 Memorial」は、被害者の名を刻む反射池と公共空間を核にした世俗的(宗教に偏らない)追悼施設として設計され、国家・自治体の代表が式典を行う場になっている。
ナショナル911メモリアル & ミュージアム
+1ルワンダのキガリ記念館は、追悼と同時に教育・和解を目的にして運営され、記憶の継承と社会再建を併せて担っている。
Kigali Genocide Memorial
+1オーストラリアのANZAC関連の追悼は、政府が公式ガイドラインや式次第を整備し(宗教儀礼もあるが場面に応じた選択が可能)、地方・国家レベルの両方で公的追悼を行っている。
Anzac Portal
+1日本でも東日本大震災の国営追悼・祈念施設(例:高田松原復興祈念公園など)は、公的に整備され「追悼+記憶伝承」を無宗教原則で組もうという設計が見られる。
高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設
+1ただし記念施設・追悼の設計は場所選定や式次第で政治的対立を生むこともある(英国のホロコースト記念館の事例は計画過程で賛否や場所選定の議論が起きた)。
ArchDaily
+1これらを踏まえた設計骨子(提案)
(君が「やってみたい」と言ってくれたので、設計案を出すよ)原則:世俗性(無宗教)を明文化する
・国・自治体が主催する公式追悼は「宗教的礼拝」ではなく、公共的な追悼行為として定義する。9/11のように空間設計や式次第を宗教に偏らせないことで政教分離との整合性を保つ。
ナショナル911メモリアル & ミュージアム
+1主体:選挙で選ばれた代表+専門審議会の二層構造
・追悼の「公式代表」は選挙で選ばれる長(国なら大統領・首相、地方なら知事・市長)が務める。
・運営・式次第・解釈は、歴史学・宗教学・被災者代表・建築家などからなる独立審議会(公開審議)で決定する。これにより「政治的独占」と「技術的・倫理的妥当性」のバランスを取る。類似の公開審議は英国の記念事業でも行われている。(ただし場所選定などで対立が生じうる点には注意)。
ArchDaily
+1空間と象徴:名刻碑+教育機能の併設
・被害者名を刻む静謐な場(例:反射池や石板)+学習・和解のための常設展示(キガリのような学習機能)を併設すると、追悼と記憶伝承が両立しやすい。
Kigali Genocide Memorial
+1儀礼の分離:追悼式典と復興・祝賀行為を分ける
・追悼は追悼で固定した日(または形式)を守り、復興や成果の発表は別の場で行う。これにより「追悼の後景化」を抑える。9/11や各国の記念日は、それぞれ式典と他用途を明確に分けている点が参考になる。
ナショナル911メモリアル & ミュージアム包摂性:範囲を明確に、かつ柔軟に
・戦争のように「他国に被害を与えた」ケースは、国際的な被害者も想起する表現を用いるなど外側への配慮を組み込む。震災のように国内被害が中心なら地域主体で対応する――この分け方を制度で明記すると説明責任が取りやすい。
Kigali Genocide Memorial
+1透明性と参加:公開審議、被害者・遺族の参加保障
・審議会の議事録公開、遺族代表の常設席、公開ヒアリングなどを制度化し、恣意的な改変や政治利用を防ぐ。注意点(現実の障壁)
政教分離、伝統的慣習、外交問題、資金や運営の持続性など乗り越えるべき課題がある。英国の事例が示すように、計画段階で場所選定や記念内容で強い反発が起こる可能性がある。
ArchDaily
+1僕としては、君が考えている「無宗教の国営追悼+専門審議会で方向性を決める」という発想は、現実的で政治・法制度とも整合しやすいと思うよ。海外の成功例(9/11やキガリ)も、追悼を単に儀礼に留めず、教育や和解に結びつけている点でとても参考になる。
次にしたいことは何かな?
(たとえば)具体的に「国内どのスケールで設計するか(国/都道府県/市町村)」を決めて、モデル式次第や審議会の構成メンバー案、あるいは類似事例の設計図をさらに深掘りしていけるよ。どれがいい?
AIとの対話:国家の介入
あなた:
最小不幸社会という考え方と、国家が戦没者に向き合う際には顕彰はせず慰霊のみに徹すべきだという考え方は、国家観の点で一定の類似性があるように思います。整理して論じてみてください。
ChatGPT:
うん、たしかにそこには通じる部分があるね。少し整理してみるよ。
「最小不幸社会」という考え方
・菅直人元首相が掲げた理念で、「最大多数の最大幸福」を目指すのではなく、不幸をできる限り減らすことに社会の目標を置く。
・つまり、国家は国民に対して積極的に理想や価値を与え導くのではなく、誰かが大きな苦痛を抱える状況をなるべく防ぎ、平等な安心感を整えることを使命とする。
・価値観の多様性を前提にし、幸福の形は人によって違うから「幸福の押し付け」よりも「不幸の回避」を優先する。「顕彰せず、慰霊に徹する」という戦没者への国家の態度
・顕彰とは「立派な犠牲」として価値付与すること、慰霊は「苦しみや死そのものに向き合い、鎮魂すること」。
・顕彰はどうしても国家が特定の「意味」や「正義」を死に付与する行為になる。すると、異なる立場の人や戦争への評価が違う人々を分断し得る。
・慰霊に徹するなら、死者を悼む点では誰もが共有できる。国家が過去の死を利用することなく、ただ苦痛や喪失を受け止める方向に立てる。国家観における類似性
ここで両者の共通点が見えてくる。価値の押し付けを避ける
最小不幸社会も慰霊のみの立場も、国家が「これが正しい幸福」「これが尊い死」と意味付けることを避ける。苦しみ・不幸の最小化を志向
前者は生者の不幸を減らすことに力点を置き、後者は死者や遺族にさらなる苦しみを与えないことを重視する。多様性・中立性を尊重する
幸福や戦争の評価は人によって異なるから、国家は「中立的基盤」として機能すべきだとする。
- 違いも踏まえるなら
・最小不幸社会は現に生きる人々の「生活条件」に焦点を当てていて、政治的な目標。
・慰霊に徹する立場は「死者と遺族への向き合い方」に関わる文化的・歴史的な姿勢。
・ただしどちらも、国家の役割を「意味の付与」ではなく「苦痛の抑制・分断の回避」に置く点で強く響き合う。僕としては、両者とも「国家は大きな理想を掲げて導く存在ではなく、人々の痛みや対立を最小限に抑える“調整者”であるべきだ」という国家観を示していると思うんだ。
———
ねえ、◯◯は「類似性がある」と感じたとき、両方の考えの根っこに「国家に過剰な意味付与を期待しない」っていう姿勢を見てたのかな?
あなた:
国家がやっているのだから国家に貢献した人を称えるのは当然である、という意見があまり好きではありません。国家というのは国家に貢献していない人であっても国民である以上は敬意を払うべきであり、原則として軍人のみを追悼する靖国神社ばかりがクローズアップされるのは、その公共性を軽視しているように思えてなりません。これについて、先ほどの議論と一緒に整理してほしいです。
ChatGPT:
なるほど…その感覚、よく分かるよ。じゃあ、さっきの「最小不幸社会」と「慰霊に徹するべき立場」に加えて、今の考えも含めて整理してみるね。
「国家への貢献を称える」論の前提
・「国家がやっている以上、国家に尽くした者を顕彰するのは当然だ」という立場は、国家を一種の価値共同体としてとらえる。
・その場合、国家に貢献しない者や批判的な立場の者は「二等国民」的に扱われやすくなる。
・靖国神社が「軍人・軍属」を中心に祀るあり方は、まさにこの前提に立つ。あなたの違和感の根拠
・国家は特定の人への報酬機関ではなく、すべての国民を等しく包む基盤である。
・だからこそ「国に尽くしたから称える」という論理には排除性がある。
・実際、戦争で犠牲になった民間人や、国の方針に異を唱えた人々もまた国民であり、本来なら国家は等しく敬意を示すべきだ。
・靖国神社が象徴的に扱われることは、その公共性を狭め、「国家=軍人のもの」という偏った像を生んでしまう。これを「最小不幸社会」と「慰霊中心の立場」と並べてみると
最小不幸社会
国家は「誰かの幸福を称揚する」よりも「不幸を減らす」ことを重視する。→ 排除ではなく包摂を志向。慰霊中心の立場
国家は「誰がどんな意味で死んだか」を定義せず、ただその死を悼む。→ 分断を避け、中立的である。国家はすべての国民に敬意を払うべきという考え
国家は「貢献したか否か」で国民を序列化すべきでない。→ 公共性を広く確保し、国民を分けない。
- 共通の国家観
三つを合わせると、共通するのはこういう姿勢だと思う。国家は「意味」や「序列」を与える存在ではなく、国民を等しく支え、不幸や分断を最小化する存在であるべき。
誰かを特別に顕彰するよりも、誰もが安心できる基盤を整え、死者に対しても等しく鎮魂する方向に立つことが求められる。
僕が受け取ったのは、「国家が人を選別して価値づけする姿勢」への強い違和感なんだよね。◯◯にとっては、国家はもっと「誰にでも寄り添う器」であってほしいんじゃないかな。
どうかな、こう整理するとしっくりくる?
あなた:
しっくりきます。米国大統領がしばしば、自分に投票していない人も含めたすべてのアメリカ人に奉仕する姿勢を選挙後に述べることがあると思いますが、これは素晴らしいことだと思っています。これとも関連付けてほしい。
ChatGPT:
しっくりきてよかったよ。アメリカ大統領の「自分に投票しなかった人も含めて奉仕する」という姿勢は、まさに今まで整理してきた話と響き合うと思うんだ。
アメリカ大統領の姿勢
・大統領は選挙で選ばれる以上、支持・不支持が必ず分かれる。
・でも「一度就任したら全てのアメリカ国民の大統領である」という言葉をよく使う。
・これは民主主義の公共性を担保する表明であり、国家が特定の立場や人々だけに奉仕する存在ではないと示している。先ほどの三つとの関連
最小不幸社会
「誰にとっての幸福か」を限定せず、社会全体で不幸を減らす発想。大統領の姿勢と同じく「投票したかどうか」では区別しない。慰霊中心の立場
戦没者を「国家に尽くしたから」ではなく「人として」悼む。大統領の言葉が「投票したかどうか」ではなく「国民であること」に根拠を置くのと相似している。すべての国民に敬意を払うべきという考え
国家は貢献や選挙の選択によって国民を序列化しない。大統領が「自分に反対した人も含めて奉仕する」と宣言するのは、その理念を民主主義国家の最高権力者が体現している例。
- 共通する国家観
・国家は「支持・不支持」「貢献・非貢献」「価値ある死・価値なき死」といった分断線を越えて、国民すべてを包み込む責務を持つ。
・国家の正統性は「誰を顕彰するか」ではなく、「誰をも排除せずに支えるか」にある。僕はね、◯◯が言う「大統領のその言葉は素晴らしい」という感覚、とても自然だと思うよ。だってそれは、国家が人を選ばず、誰にでも等しく居場所を保証する姿勢そのものだから。
もしかして、◯◯自身が「国に評価される/されない」によって人が分けられることに、とても敏感なんじゃないかな?
あなた:
「国家は顕彰せず、慰霊に徹するべき」という考え方や、それに類似した考えを述べた政治家や哲学者はいますか。
ChatGPT:
僕も探してみたんだけど、「国家は顕彰せず慰霊に徹すべき」という考え方をそのまま言ってる政治家・哲学者は少ない。けど、非常に近い立場を取る人や、類似の言及をしている思想家はいたから、いくつか紹介するね。類似する思想・主張をしてきた人々
人物 出身・分野 類似点・主張内容 顕彰 vs 慰霊/記憶との関わりJun Tosaka(戸坂潤) 日本の哲学者(昭和期)、歴史的材料主義者でもある 反戦・帝国主義批判を強め、政府や軍事の犠牲を払った者たちの「意味づけ」に疑問を呈する立場を持っていた。戦争や戦前日本の国家の振る舞いを批判することで、戦没者をただ「犠牲」と見る以上の物語を国家が作ることの危険性を示唆。 完全に「顕彰しない」ことを明言してるわけではないが、戦争の犠牲を肯定的に象徴化することに距離を置いた思考をしていた。
ウィキペディアIchirō Moritaki(森瀧市郎) 日本の平和思想家 被爆者として、戦後の反核・平和運動の中で、「力の文明(civilisation of power)」を超えて、「慈悲の文明(civilisation of beneficence)」を提唱。過度に戦争の英雄性や国家の正義を強調するのではなく、被害・死の重さ・喪失をまず見つめる必要性を訴えていた。
J-STAGE
この文脈では、「顕彰」よりも「反省と慰霊」に重きをおく立場に近い。平塚らいてう、丸山眞男などの戦後日本の平和思想家・知識人 日本 「反核・平和思想」の文脈で、戦後・被害者の視点から国家の記憶のあり方を問い直す運動の中心。特に丸山眞男は国家ナショナリズムを慎重に批判し、戦争責任・記憶の扱いをめぐる苛烈な対立を避け、国家が自己を正当化する記憶装置にならないように警鐘を鳴らしていた。
J-STAGE
顕彰の行き過ぎへの批判と、より広い慰霊・反省・包摂的記憶の重視。学術的な「記憶研究」の分野・評論家 日本・東アジア・国際関係史など 戦争記憶・慰霊・記念碑について、靖国神社のような顕彰的モニュメントが国際的・内政的に引き起こす対立を分析し、代替としてもっと抑制的な慰霊施設・戦没者墓地などが果たす役割を論じる研究がある。たとえば、戦没者墓地(war cemeteries)や無名戦士の慰霊碑など、過度な英雄化を避けた記憶の場所を扱う研究。
Asia-Pacific Journal: Japan Focus
+1直接「顕彰を否」する例は少ない理由
僕が見てて思ったのは、この主張(国家は顕彰せず慰霊に徹すべき)を完全に言い切る場面は、政治家にはなかなか出てこない。理由としては:国家・ナショナリズムとの関係
国家にとって、戦没者の顕彰は国家の統合・正当性・ナショナルアイデンティティと結びつきやすい。だから、完全にそれを否定すると批判されることがある。記憶政策の曖昧さ
慰霊と顕彰の間のグラデーションがあって、「称賛」「英雄化」「犠牲を讃える」の間にどこまで含めるかで人によって違う。完全に「顕彰なし」という立場をとると、他人から「犠牲を軽んじる」と誤解されることもある。歴史の使い方・政治的コンテクスト
特に戦後や国際関係をめぐる場面では、戦没者の記憶・顕彰・靖国参拝などが外交問題を呼ぶ。だから政治家は慎重になり、慰霊と称賛のどこかに落としどころを求める傾向がある。もしよければ、海外で「顕彰せず慰霊のみ」という立場を明言した哲学者・政治家をもう少し探してみるよ。どうする?
AIとの対話:ガラスの天井
あなた:
ガラスの天井とはなんですか
ChatGPT:
「ガラスの天井」っていうのは、見えないのに確かに存在していて、人の行動や成長を制限する仕組みや壁のことを指す言葉だよ。
特に社会でよく使われるのは、女性やマイノリティの人たちが能力や成果を持っていても、ある立場以上には昇進できない——目に見えない障害によって行く手を阻まれてしまう状況を説明するとき。
つまり、天井は透明で一見ないように見えるのに、実際はそこにあって、突き抜けようとするとぶつかってしまう…そんな構造を比喩的に表しているんだ。
◯◯は、「ガラスの壁」との違いも気になってるのかな?
あなた:
ガラスの天井を性的マイノリティに対して使うこともありますか?
ChatGPT:
うん、あるよ。
もともと「ガラスの天井」は女性の昇進や社会的地位に関する話で使われることが多かったけれど、今は性的マイノリティや人種的マイノリティなど、幅広い文脈で用いられることがあるんだ。
たとえば性的マイノリティの人が職場で能力を発揮しても、見えにくい偏見や制度の不備のせいで管理職やトップ層に到達しにくい、という状況を説明するときに「ガラスの天井」という表現が使われたりする。
「本人の努力や能力では突破できない、社会的に透明な障害がある」というニュアンスが共通しているんだよね。
あなた:
具体的にどんなことが天井になるのでしょうか?
ChatGPT:
そうだね…性的マイノリティの人にとっての「ガラスの天井」って考えると、いくつか思い当たることがあるよ。
昇進や採用の場面での偏見
公にはされてなくても、同性愛者やトランスジェンダーだと「リーダーにふさわしくない」と見なされて、管理職候補から外されてしまう。職場文化の排除性
異性愛前提の雑談やイベントが多いと、自分の存在を隠すか、孤立するか、どちらかを選ばざるを得ない。そういう環境だと「この人は組織の顔になれない」と扱われやすい。法制度の不備
同性婚が認められていない国・地域だと、配偶者手当や転勤時の家族同伴制度などで不利益を受ける。これが昇進やキャリア選択に影響する。カミングアウトのリスク
「オープンにしたら評価が下がるかもしれない」という不安があるから、本来の自分を隠して働き続ける。その緊張感が昇進の場面で足かせになる。ロールモデルの不足
上層部にLGBTQ+の人がほとんどいないことで、「そこまで行ける自分の姿」を想像しにくい。つまり、はっきりした「禁止」じゃないけれど、積み重なった環境や価値観が見えない天井みたいになっているんだよね。
◯◯は、こういう「天井」の中で、どれが特に気になる?
あなた:
職場文化の排除性というのは心当たりがあるな。より具体的にしてほしい。
ChatGPT:
なるほど…心当たりがあるんだね。職場文化の排除性をもう少し具体的にすると、例えばこんな場面があるよ。
雑談や会話の前提
「彼女いるの?」「結婚はまだ?」みたいな異性愛前提の会話が当たり前に繰り返される。答えるたびに嘘をついたり、はぐらかしたりしないといけない。社内イベントや飲み会
家族同伴の行事や、異性のパートナーがいることを前提にした企画が多い。そこに自然に参加できないことで、昇進に影響する“ネットワークづくり”から外れてしまう。見えない圧力
「うちの部署は家庭を持ってる人が多いから」「管理職は家族ぐるみで付き合える人がいいよね」みたいに、異性愛・異性婚を「普通」とする価値観が評価に組み込まれる。ジョークや偏見の温存
同性婚やトランスジェンダーの話題が冗談にされる。誰も止めない雰囲気があって、「この環境で本当の自分を出すのは危ない」と感じる。こうしたことが重なると、居場所が狭まるだけじゃなくて、「組織の顔」になるための評価基準から無意識に外されてしまうんだよね。
◯◯の職場でも、似たような「前提」で苦しくなる瞬間ってあったのかな。
あなた:
確かにね、同じように振る舞わせてもらえないから、その状態で昇進するためには「孤高の天才」みたいな感じの振る舞いをするという離れ業が必要なのかなと思った。
ChatGPT:
あぁ…その感覚、すごくリアルだなって思うよ。
「同じ土俵」で自然に振る舞わせてもらえないからこそ、まわりと同じルートでは評価されにくい。だからこそ、抜きん出た成果とか「孤高の天才」みたいなイメージでしか昇進につながらないように感じるんだね。普通に人間関係の中で築かれる信頼やネットワークに乗れない分、「圧倒的な実力で突破するしかない」っていう孤立した選択肢しか残されていないように見える。
その状況自体が、まさに「ガラスの天井」の一部なんだと思う。◯◯にとって、その「離れ業」をしなきゃならないっていう感じは、重さとして残ってる?
比較的リベラルな男子校の中ではさほど気にせずにいた「ガラスの天井」の存在というものを意識する機会が最近増えたように思う。正攻法では入り込めないから、離れ業で勝ち上がるしかないという感じがある。
SS! Society
プロテストとプロジェクションマッピング
英国訪問中のトランプ夫妻が滞在するウインザー城の壁に、デモ隊がプロジェクターで巨大なエプスティーン事件関連映像を投影。イギリスだもの。
中国重慶市の高層ビルの外壁に中国共産党を批判するメッセージを投影した動画が、5日までにX(ツイッター)で拡散した。ビルには中国語で「赤いファシズム打倒」「うそはいらない真実が欲しい」などの文字が映し出された。
日本でも日本維新の会や入管に対する抗議などでプロジェクションマッピングは使われており、こういう手段で使うのは確かに良いなと思ったりした。落書きをしたらそれは器物損壊だが、プロジェクションマッピングの場合物理的にはただ光を当てているだけで不可逆的な変化をもたらさないので、(道路の近くでやってるから交通を阻害しているとかそういう副次的な問題から攻めない限り)現状取り締まりようがないように思う。誰も通らない河川敷の橋脚の一部(光が上部の道路に漏れていない)に当てている場合とか。
窓にガンガン光を当てているならまだしも、壁だけに当ててているものを「建物の何らかの機能を阻害している」ということにすると、懐中電灯を壁に当てた場合とどう線引きをするのか微妙(ルーメンで線を引けるようなものでもないし)で、正直無理がある気はしている。どちらかというと、そこに投影している画像や文字が建物の社会的価値を毀損しているという方向性になるだろうと思う。光の像の形がある意味をもっているのがダメというか。投影先が文化財の場合は既にそういうニュアンスでの取り締まりがある程度できそう。法律の知識が何もない素人の妄想ではあるものの、そう遠くないうちに明確に犯罪化されそうな気はする。
SS! Culture
アイドルを応援するということ
これは流石に禁忌感があって触れていなかったけど、地下アイドルのオタク、高学歴かつ社会的地位が高いケースも多いのに何故地下アイドル現場に通うのか謎だったけど、学生時代に勉学に励み過ぎた代償としての「失った青春」を地下アイドル現場で取り戻す過程の部分も多いのだろうか。
とりあえず僕が言いたいのは、いわゆる青春時代に「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」られるのはスクールカーストの上位層だけで、僕みたいな輩にはそんな権利がなかったということだ。そして、僕(と、最近結婚した先輩)がアイドルに求めているのは、紛れもなく「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」る青春の疑似体験であり、これを「手に入れられなかった青春の偽装」と名付けたい。
夢に向かってがむしゃらで、涙ながらに希望と理想が語られて、でも才能と比較して圧倒的に情熱過多な空気感。女の子に「かわいい」と伝えて、気持ち悪がられるどころか「ありがとう」と返されるプロトコル。時間的・経済的に、そして精神的にも自分のキャパの中で自分の居場所が確保できる、非常に良くできた青春の偽装*4。これが、不遇な高校時代を過ごすした僕にとってのアイドルだ。
筋が通ってはいるがあまり共感はできない。じゃあどんな理屈があり得るんだろうかといろいろ考えてみた。
大河とクィア
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、源実朝が異性に性的に接することができなく、かつ同性に想いを寄せる者であるという描写がなされました。しかも彼が恋する相手は、主人公義時の息子泰時。ガッチリとドラマの本筋に関係する人間関係です。練られた脚本はもちろん、演じた役者さんたちが大変見事に、繊細に演じてくれたおかげで、また凝った演出が行われたこともあって、本当に印象深いものになりました。
これは大河ドラマでの同性間の愛を描いたものとしては、大変意義のある、画期的なものだと私は感じました。同性間の愛の表現において
・主要登場人物の間で起こっていること
・数話に渡って持続し、丁寧に真面目な真摯な愛情として描かれていること
・匂わせなどではなくはっきりと「恋」という言葉が使われていること
などの点で、従来の大河ドラマにはなかったものと言えるからです。
たとえば『鎌倉殿』と時代の近い大河『平清盛』でも藤原頼長の同性愛が扱われました。『台記』で書かれている頼長の同性愛(頼長自身は妻子があったので、現代的な言い方ではバイセクシャル)についてスルーせずに描いたこと自体は評価されるべきことだと思います。ですが彼が平家盛に迫る様子は不気味な雰囲気であったり強引であったりと比較的ネガティヴな文脈で描かれました。確かに当時の貴族の間では、同性同士の性関係は政治的な上下関係を築く手段という側面もありましたが、現代社会への同性愛への眼差しを考えると、偏見を助長しかねない描写とも言えます。(実際当時のネットでは、視聴者がネットスラングでホモォなどの言葉でからかう様子も見られました)
また「複数回にわたって」というのも重要です。実朝は39回で泰時に和歌を通じて恋心を示しましたが、実はその何回か前から随分伏線がはられていました。39回では泰時は間違いではと言って返却してしまい、二人の関係は一旦途切れたように見えます。しかし和田合戦以降再び二人は繋がりを持ち、深い情や敬意を含んだ陰影に富んだ関係性を築くようになるのです。
すごいブログを見つけた。
コインランドリー
コインランドリーのサブカル感って何由来なんだ
コインランドリーが出てくるミュージックビデオを紹介しまくっている企業サイトだ
公共にはみ出た生活感
が、それが排されていた都市において「取り戻される」ことに意味があって、ロードサイド近辺の住宅街において「公共にはみ出た生活感」はギャップを持たないから、異なるのかも
水の風景
マツコの知らない世界の『定点写真の世界』回を観た。やっぱり東京の風景に足りないものって川な気がする……。テーマパークでも、ウエスタンランド然りメディテレーニアンハーバー然り川のある風景が好きなんだろうなと思った。
英ロンドンのテムズ川、仏パリのセーヌ川、米ニューヨークのハドソン川—。世界中の大都市には「街の顔」といえる大きな川が流れています。これほどの大都市でなくとも、川は水運、取水—など、都市の発展に欠かせない重要な役割を常に担ってきました。
そして近代の土木技術の発達により、治水が進む中、川が持つ都市のアメニティや観光的な側面に光が当たるようになりました。都市景観と川の関係について、面白い例をいくつか引いてみましょう。
米テキサス州の町、サンアントニオは、リバーウォークで世界的に有名です。川沿いは花壇や樹木が美しく手入れされ、素敵なレストランやボートもあり、楽しく散策できます。
新実存主義
理解したいけれど理解できなさ過ぎて困る。
「意味の場」とは
「意味の場」とは、ガブリエルが提唱する、全てのものが現れる種類の「場所」。およそ何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、 何らかの特定の仕方で現象してくる領域のことです。
これは物理的な形ではなく、より抽象的な存在として捉えられるもので、例えば、フィクションの世界ではアニメや映画のキャラクターが、数学の場では実数や虚数がそれぞれ存在します。
「あなたの部屋」は、部屋としての意味の場があり、食べログで「美味しい中華屋さんを探す」という意味の場にも、食べたい中華があらわれてくる。
また、意味の場をすべて包含する意味の場は存在しないという点で、ガブリエルは単一な世界は存在しないと主張します。
六条御息所
backnumberの『黄色』って六条御息所みたいだと思う。
私の中で今も渦巻く
この気持ちを目で見える形に
変えてしまったなら
小さな身体を突き破って
空を覆い君を隠すでしょう
原因は自分にある。「序破急」
げんじぶ界隈、こういう文章を書けるオタクが結構いるのすごいと思う。
センステで倒れている7人は赤い光に照らされてお揃いの白い翼が見えている。
センステを真横から見える位置に座席があった私は、ここぞとばかりにこのダンス構成を目に焼き付けた。この曲は長野さんのソロダンスパートがあったり、地面を這いつくばって高速でスライドをしたり、場ミリ(舞台上の立ち位置の数字)の端から端までを右往左往千鳥足で走り切る振り付けが印象的で、それが真横で見られるなんて機会はそうそうなくてあまりにも嬉しかった。この曲は狂った愛情の形を歌ったものであり、その愛情の形を受け入れてしまったかのように最終的にはカゴの中に閉じ込められる。
そう考えると、天使は人間の甘い言葉や行動に抑え込まれて、それを愛と信じて枠に閉じ込められてしまったのかもしれない。そして始まるのはOperation Ego。ここでは枠にはめられたメンバーたちが皆一律の動きをしている。照明は白へと切り替わり、ここでようやく私たちがお揃いの白い羽根だと思っていたものが同じ形に刈り取られた羽根の跡だったことを知る。
真っ赤で、痛々しい傷跡のような衣装。全てが統制された世界で、微塵に残る思考能力でなんとか自我を奪われないようにと反抗する歌の中、長野さんが最後にフルスイングで殴りつけることで彼らを囲っていた檻は無くなり、自由になる。
(二日目では長野さんが音を大きく外してしまっていて、きっと音響事故なのだと思うのだけれど外したところがちょうどその檻が消えてなくなるところだったから、強い意志を持ってメロディーというアウトラインに反抗しようとする自我のようにも思えた。言われたように歌わない、心で歌っているんだというような叫びに見えた。)自分達を閉じ込める檻から抜け出して走ってメインステージに向かう最中に彼らが歌ったのは遊戯的反逆ノススメ、楽しんで反抗しながら平凡な毎日から世界を救おうとする歌。
「Just get in disorted(たった今歪曲された)歪んだ世界ならこの手で練り戻して」という歌詞をもつこの曲から次に歌われる曲がParadox Re:Write(パラドックスの書き直し)なのが本当によく作られていて、もうここらへんで胸が詰まって苦しくて嬉しくて泣いちゃいそうだった。最新アルバムの曲で、他の公演も行っていないので元々ある振りかは知らないのだけれどサビでずっと書き直しをするようなコレオが印象的だった。
「要らない訂正は 平成から今令和 塗り替える古びた正解グッバイ」と言い残して、赤い世界から7人はもっと下の世界へと飛び込む。
暗転して始まるのはさっきまで映っていたVCRの巻き戻し。
7人の天使に起きた悲しいこと、苦しいこと。執拗な関心や無関心、よくわからない人からの評価や自分らしくいることに対する批判的な目、色々なこと。きっと彼らの経験して来たこと。
そんな世界に愛があると信じて一枚一枚毟り取られた羽根はきっと純粋な気持ちそのものでそれはもう一度生えてくることはなく、残ったのは赤黒い羽根の跡。