日記(2025-07-27)
SS! Creation
設計主義
なるほど……。自分の中にある設計主義的な部分が創作活動において出てきたときにどうすべきかというのはなかなか難しい。
SS! Reflection
夢日記
深夜帯に変な夢を見たときは、目覚めてすぐベッド近くのホワイトボードに書き殴っている。
最近見たのは、新型のトラックレスライドアトラクションの夢である。灰色っぽいビークルは正六角形状の形をしていて、その六角形の辺と垂直な方向(6方向)にしか動かないという軌道の制約があるというものだった。
レール付きのダークライドがもつ規律性みたいなものをあえてトラックレスライドに取り入れるという発想が斬新で面白いアトラクションだなぁと感動した記憶がある。おそらくモチーフは「Star Wars:Rise of Resistance」。
SS! Society
チームみらい
安野たかひろとオードリー・タンが一緒に語られるけど、そもそもオードリー・タンはセクシャルマイノリティで14歳で学校に馴染めなくて中退しているマイノリティだから、エリート特権属性だけの安野たかひろとは全く正反対に位置する人だから並べるのがオードリー・タンに失礼だと思う
差別があるゆえにマイノリティ属性をオープンにしてない場合もあるから、そこはあまり決めつけすぎないようにいきましょう皆様…
これは本当にそう。正直自分も、親に学費を出してもらっている私立大学文系の人間たちが社会的責任とかに無頓着な行動をとるとかなりカチンと来るというか、特権的な立場にいる人間がどうなんだと思ってしまうのだが、自分に見えていないだけでそうではないのかもしれないという留保を忘れてはいけないのだと思う。ただ、そうなるともう他人の批判とかできなくなるのではという問題もあり、微妙なところ。
参政党
排外主義的・差別主義的な政党を支持する人に会ったときに、そういう人もいるからしょうがないよねという風に諦めたり、もしくはただ距離を置いたりするような人間にはなりたくないという気持ちがある。どう向き合って、どんな言葉を投げかけるかというのは本当によく考えていかなければいけないのだと思う。
参政党の神谷代表に対してもっとも効果的な打撃を与える論陣を張っているのは橋下徹である。橋下徹の神谷批判のロジックはとても参考になる。まず橋下徹の参政党・神谷に対するスタンスは、「過激なことを言っているが人当たりがいい、まるでイタリアのメローニのようだ」「参政党が政権をとれば北朝鮮のような国になる」という真っ向批判の立場である。ただここからはリベラル系とは違う。橋下はあえて「参政党や神谷さんが排外主義とかヘイトとかそういうのはどうでもいい」と切り捨て、徹底的に財政政策から切り込んでいく。消費減税や公約通りなら45兆円にのぼる財政膨張を、この長期金利があがるなかで執行すれば国家は破綻しますよ、米軍撤退して防衛費をどうするんだ、などを数字をあげて答えろと詰めていく。これに対して神谷氏はほぼまともに答えられない。こうやって神谷氏を回答不能に追い込んだ上で、橋下は「外国人を受け入れないでこの日本をどうやって維持していくんだ」と、神谷氏の外国人政策の非現実性を詰めていく。そして「まるで北朝鮮じゃないか」と締めくくる。橋下徹はもともとヘイトやレイシズムには厳しい立場をとる政治家だが、あえてそれを脇において、税財政のリアリズムから徹底的に詰め、その筋道から外国人問題を取り上げるという論理展開である。これは参政党・神谷だけではなく全ての減税ポピュリストに対して有効である。れいわ新選組の山本太郎は、こういう識者、専門家との討議の場には決してでてこなかった。嘘がばれちゃうからだ。でも政権入りを狙う神谷代表はこういう討議の場にでてこざるをえない。ポピュリストは選挙の土俵では強いが、公的討議の土俵ではそうはいかない。これからは「こちら側」の土俵の上で勝負させるようにしなければならない。
ただ投票を呼びかけるだけの投稿が称賛され、よくわからなくてもまず投票してみることが大事、みたいな言説を度々目にするけど
排除されようとしている人たちにとって、その一票は生に関わる重いものだと知るべき
せめて、この社会で共に生きている人間の顔をはっきり思い浮かべて投票してほしい
とても大事な言葉だと思います。選挙期間中排除される対象になった人は生きた心地がしなかったんですよ。そしてこれからも。
生きた心地がしなかったというのは本当にそうで、電車に乗っているときに怖いなと感じる瞬間というものが確かにこの選挙期間中はあった。
かつて「A君をいじめて良いという決議を多数決で決めるのは正しいか?民主主義と言えるか?」と問えば、人権や憲法の意義が伝わるという議論が弁護士の間であった。躊躇なく「正しい」と答える人口ボリュームが膨らんだ今、おのれの責務を改めて考える。
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=238
選民思想
都合が悪いと愚民論に走るのがリベラルインフルエンサー。愚民論で思考停止することで、リベラルはますます劣化する。
SS! Culture
光が死んだ夏
💎商でも『光が死んだ夏』でも見たけど「一般作品の顔をして後からBL展開になるのはやめて欲しい(やめろ)」と言うのは、実際にこの世界に数多く存在する人々を見ようともしていないし、ハナから存在するとすら思っていないからこそ出てくる言葉なんだよね。「隣に住んで欲しくない」発言とかも同じ。
わざと取り入れて書かない限り、普通そのへんには転がってない話だと思ってる。遠い国か何かの特殊事例だと思ってる。もし自分の隣人がそうだったら?って考えない。家族や友人や恋人や職場の人や親切にしてくれた通りすがりの人がそうかもしれない、とは考えない。
わかる。まんま透明化ですよねという。
Monster (2023)
#光が死んだ夏 #thesummerhikarudied
『怪物』と対照してみると面白いな、と思いつつこの発想はなかった。天才だ。
ボーイズグループ戦国時代
次々と新しいボーイズグループが出てきている。
アミューズがついに参入して、The Right Lightというグループがデビューする模様。8月にはZepp Divercityで無料ライブもあるというから驚き。同じ日の夜にオーディション(一般公開なし)をやるからそのついでなのかもしれないが、さすがアミューズ、資本を感じる。上場企業というだけあってガバナンス面に不安はなく、安心して応援できるのは大きな強み。
個人的には黒木康正さんがアミューズの系譜らしい顔立ちで推せそう。ただちょっと曲が微妙なのが懸念点。ボーイズグループの最大公約数をやろうとしすぎているような。
『Right Light』はグループ名がついた楽曲というだけあって、アイドルとしての本人たちのファンに対する心情をそのまま歌詞にしたようなストレートなアイドルソングという趣。Bメロの「タンタタン」という拍もいかにもアイドルっぽい。ただ楽器が強すぎるというか、ボーカルを活かしきれていない感じがあり、やや退屈さを感じてしまう。
『Brand New Day』は本人たちが自分を鼓舞するような部分と、応援歌的な部分とが入り交じったような歌詞になっている。ショーアップせず自然体なスタイルを貫いているという特賞もありつつ、口笛が印象的でボーカルも際立っているところもあり、こっちのほうが個人的には好き。
大手じゃないところからもグループは無数に出続けている。最近はNEWSTARというグループに注目している。WAIWAI inc.というところの所属らしいのだが、いまいちどんな会社か分からないあたりが地下っぽいのだが、地下っぽさをできるだけ消そうとする意識が感じられる(調べたらtimeleszの猪俣周杜が元々所属していたのがこの事務所らしい)。とはいえ、本人たちが原因は自分にある。のライブに行ったことをSNSに投稿するなど、勝手に履歴書を送られたり、スカウトを受けた等ではなく自らアイドルに憧れてアイドルになろうとする人ばかりで構成されている感じはすごく地下っぽい。
「今すぐKiss Me」を今カバーするという、明らかにプロデューサーの趣味でしかないプロデュース方針もご愛敬。
デビュー曲は「星降る夜の法則」。ボーカルが目立つ場所もあり、ラップあり、セリフあり、というように、各メンバーの見せ場をうまく作れている印象がある。サンプリング対象として「愛の挨拶」を選ぶのも上手いと思う。SMAPのデビュー曲「Can’t Stop!! -LOVING-」での「きらきら星」の引用を彷彿とさせる。
もちろん気にならない点がないわけではない。サビ頭には同じメロディーが2回繰り返されるのだが、それぞれ「巡り合えたのは」「導かれたMy Life」という言葉が割り当てられている。ここは対になる言葉を並べるのが適切(「巡り合えたのは」「導かれたのは」のような形)だと思うので少し違和感がある。またメンバーの歌い方も平板っぽくなっている部分があるように思う。ただこういう違和感がトンチキ味としてクセになるところもあり、一概に悪くは感じない。
言葉の意味のずれ
NHKドラマ『舟を編む』を観ている。
本作ではよく、相手が言った言葉を理解できず、辞書で深掘りしてみると自分が思っていた意味と違う意味が発見できて、相手への愛着が深まるという形で話が展開されていく。ドラマになるだけあって、最初に主人公がぶつかる「分からなさ」は結構大きい。パートナーから距離を置こうと言われ、その理由として提示された言葉が分からないとか、母親から幼少期に言われて半ばトラウマになっている言葉が分からないとか、そのレベルのものが描かれる。日常ではそのレベルの断絶はそうそうない。
でも、「通じていると思っていたけれど実は違う意味で使っている」ことなんて日常茶飯事、というか全ての会話はおそらくそうなのだろうと思う。おおむね近い意味で使っているから問題なく会話できているように感じるだけで、ぴったり重なっていることは絶対にない。比較的特殊な環境で育った人間は、分かりやすくその特殊な要因に関係する部分だけが捻じ曲がっていて、そこでマジョリティと大きな断絶が生じるからしんどいというのはもちろんあるんだろうが、それと同じぐらいかそれ以上に、日々うっすら感じる意味のズレが少しずつ積もっていくような部分があるのではないかなと思う。そういうコミュニケーションの基本的な部分を、辞書というモチーフを軸に物語に落とし込める力量はすごい。
それでいうと最近思うのは「忙しい」という言葉のずれである。どれぐらいのことを忙しいと呼ぶのか、自分はまだいまいち分かっていないような気がする。自分は、まともに食べれない、寝れない、連絡を返せないなど、日常生活に実害が出始めることを指して忙しいと呼んでいるが、他の人はそうでもないような気がする。そのレベルになったら「忙しすぎる」という表現が適切で、適度に用事が入っていればそれは「忙しい」なのだろうか。そもそも他の人がどういうスケジュールで日々生きているかなど知りようがないので、そのあたりはよく分からない。
その関連で印象的だった投稿を。率直に言って一切賛同できない意見ではある。
意味のわからない現代アートにも現代詩にも素朴な拒否感がある。芸術家は初めから〈語りえぬもの〉に屈服し、その語りえなさを誇張しつつ表現しようとするが、語りえるものを語りえる仕方で語りつめた先に現れる〈語りえぬもの〉をめざしていきたいよな。後者の方が実はより深刻であるように感じる。
まず、語り得なさが先にあって、それからその語り得なさを対象化して表わそうとするという段階を踏んでいるような書き方になっているが、これはあり得ないように思う。語り得なさが表現物の中に表れているというのは事実だが、それは意図して表現したものではなく、表出「された」ものにすぎないのではないか。ここでいう「芸術家」のやっている作業とは、語り得ないものはないかとことん突き詰め、外堀を埋めていくように分かりやすく語れるものを省いていくことではないのか。
また、「語り得るものを語り得る仕方で語り詰めた先」に「語り得ぬもの」が出て来ることはないように思う。語り得るものを語り得る仕方で語り詰めた先には、豊富な語りがあるだけであって、どこに間隙があるのかということは見えてこないのではないか。語り得るものというのは基本的に無限であって、そっちの方向をまなざしてもしょうがないのではないか。
こういうのは書いているうちに訳が分からなくなる。この手の問題は、先に結論を決めてから書き始めると後々論旨がぐちゃぐちゃになってきてしまう(上の文章は結構そうなっている気がする)。書きながら考えるという選択肢を意識できるようになりたい。
ちょっと考えて思ったのは、自分は「語り得ぬもの」にこそ本質が宿っていると考えて真ん中に置きたがる傾向があるということかもしれない。上の投稿は「語り得ぬもの」というのは、「語り得るもの」を置いていった残りの部分という意識があって、それは結構正しいと思うのだけれど、ちょっと姿勢としては違うのではという気がしちゃう。「語り得ぬもの」に価値を感じるのであれば、それを真ん中に置くという敬意があって然るべきなのではと思う。
