日記(2025-07-13)
SS! Culture
源頼実とファウスト
これまでも、才能にまつわる映画は数多く作られてきた。生まれながらにして天才的な音楽の才能を持つモーツァルトと、凡庸な宮廷音楽家サリエリとの対立を描いた『アマデウス』。世界一のジャズドラマーを目指す学生ニーマンと、その才能を限界まで引き出そうとする鬼教師フレッチャーとの、壮絶な師弟関係を描いた『セッション』。もしくは、完璧なバレリーナを目指すニナが、自身の内なる闇と戦いながら「白鳥の湖」の主役を演じようとする『ブラック・スワン』。得てして才能の物語は精神崩壊系になりがちだが、『国宝』の場合はそこに“血”という横軸が加わることで、ドラマに奥行きが生まれている。
しかもこの作品は、さらにもう一つ大きな仕掛けが施されている。心の奥底に抱く強い欲望(知識、富、権力、名声、若さなど)を叶えるために魂を悪魔に売り渡す、ゲーテの戯曲「ファウスト」でよく知られるモチーフ「悪魔との取引」(Deal with the Devil)が登場するのだ。契約した者は、寿命であったり、愛する者であったり、精神的な安定であったり、その人物にとって大切なものが代償となる。
『国宝』しかり、『風立ちぬ』しかり、ファウストっぽい話が好きなので、源頼実まわりでも同じような話があると知って興味がわいてきている。
神に自分の命と何かを取り替えた人間の話は幾つか伝わっているが、優れた歌を詠ませてくれるなら自分の5年分の命と取り替えてもよいと神に祈った男の話を鴨長明は『無名抄』で次のように記している。
80 頼実が数奇のこと
左衛門尉蔵人源頼実(※1)は大層な数寄者です。彼は和歌への執心が深く、住吉明神(※2)に「私の5年の命を差し上げますから秀歌を詠ませてください」と祈願したのです。
それから年月を経て頼実が重病を患った時、「どうぞ私の命を助けてください」と祈願したところ、かの住吉明神の霊が使用人の女性に憑依して「以前にそなたが秀歌を詠むことが出来たら5年の命を召すと祈願したのを忘れたのか。お前が
木の葉散る宿は聞き分くことぞなきしぐれする夜もしぐれせぬ夜も
【現代語訳】:木の葉が散る宿では聞き分ける事が出来ません、しぐれの降る夜も降らない夜も。しぐれも落葉と同じようにさびしい音をたてますから、の秀歌を詠めたのは、そなたの願いを私が叶えたからだ。だから今度の願いを叶える事は出来ないのでお前の命が助かることはないぞ」と仰せられた。
ところで、この話は幾つかのバリエーションを伴って伝わっており、例えば藤原清輔(※3)が保元2年(1157)年に著した歌学書『袋草紙』では、源頼実が和歌に執心するもののゆきづまって住吉明神に参詣し、秀歌を一首詠ませて戴ければ命を召すと祈願したのち、西宮で「木の葉散る」の歌を詠んだものの彼は秀歌とは思はず、その後再び住吉明神に秀歌を祈願すると、夢の中に現れた住吉明神が「木の葉散る」で秀歌を詠んだではないか」と告げ、その後頼実が六位に至った時夭折したと記している。
他の説話は大半が「無名抄」と内容は同じだが、中には住吉明神が頼実の家の7〜8歳になる子供に憑依して、秀歌のために命の半分を召しますと祈願した彼に、本来60歳まである寿命を「木の葉散る」で秀歌を叶えさせたと告げると、頼実は心安らかに30歳で死んだとの話も伝わっている。
夜、落ち葉が屋根に散りかかっている家では、聞いて判別することができない。時雨が降っているのか、降っていないのか――。
一人の隠棲(いんせい)者が、山里のわび住まいの中、寝られぬままに、更(ふ)け行く初冬の夜のしじまに包まれている。ふいに屋根から、ぱらぱらと音が聞こえてきた。そしていつのまにか止んだ。あれは時雨の雨音だったのか。それとも落ち葉の降りかかる音だったのか。そんなことが幾晩も繰り返される。
源頼実が、わが寿命と引き換えに秀歌を詠ませよと住吉明神(すみよしみょうじん)に祈願し、この歌を詠んだことで早世したという伝承が残っている。降ったかと思うと止む時雨の特徴と、閑居の中の静謐(せいひつ)な孤独感とが落ち葉の音と交錯しつつ、絶妙に通じ合っている。
「時雨する夜も時雨せぬ夜も」の繰り返しは和歌ではルール違反ともいえるが、かえって山里に棲(す)む人の、他者に向ける言葉を要しない日々のつぶやきを思わせ、深い。
我が身を秀歌に替える事を祈って夭折した話など、歌道執心を伝える逸話が残る。
……(中略)……
逸話:『袋草紙』
「江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」」と云々。」逸話:『袋草紙』
「源頼実は術なくこの道を執して、住吉に参詣して秀歌一首詠ましめて命を召すべきの由祈請すと云々。その後西宮において、
木の葉散る 宿は聞きわく 方ぞなき しぐれする夜も しぐれせぬ夜も
と云ふ歌は詠むなり。当座はこれを驚かず。その後また住吉に参詣して、同じく祈請す。夢に示して云はく、「秀歌は詠み了んぬ、かの落葉の歌に非ずや」と云々。その後秀逸の由謳歌せり。また其の身六位なる時夭亡すと云々」逸話:『今鏡』
「左衛門尉頼実といふ蔵人、歌の道すぐれても、又好みにも好みけるに、七条なる所にて人々夕べにほととぎすを聞くといふ題を詠み侍りけるに、酔ひてその家の車宿りに立てたる車に歌案ぜんとて寝過ぐしけるを求めけれど、思ひもよらですでに昂然として人みな書きたる後にて、このわたりは稲荷の明神こそとて念じければ、きと覚えけるを書きて侍りける。
稲荷山 越えてや来つる ほととぎす 木綿かけてしも 声のきこゆる
同じ人の、人に知らるばかりの歌詠ませさせ給え。五年が命に代えんと住吉に申したりければ、落葉雨の如しといふ題に、
木の葉散る 宿は聞きわく ことぞなき 時雨する夜も 時雨せぬ夜も
と詠みて侍りけるを、必ずこれとも思ひよらざりけるにや、病つきていかんと祈りなどしければ、家に侍りける女に住吉のつき給ひて、さる歌詠ませしは、さればえいくまじとのたまひけるにぞ。ひとへに後の世の祈りになりにけるとなん。」https://www2u.biglobe.ne.jp/heian/kenkyu/waka-rokunintou/yorizane-m.htm
『ファウスト』は手塚治虫もモチーフにしていたことがあるらしい。読んでみたい。
「ファウスト」研究者が聞いた 晩年の手塚治虫の言葉
長谷川 つとむ
長谷川さんは日本における「ファウスト」研究の第一人者。ルネッサンス期にヨーロッパを徘徊した実在の魔術師ファウストが、ゲーテらの手によって伝説化されていく軌跡を研究している。長谷川さんは、手塚の「百物語」など「ファウスト」を題材にした作品を知り、晩年の手塚と交流を深めた。その中で、戦争や科学について語る手塚の重要な言葉を聞いていた。僕はいろんな『ファウスト』を書いていてですね、やっぱり日本の『ファウスト』を書きたかった。ところが、日本の『ファウスト』はですね、森鴎外(1862ー1922 小説家・軍医)の『玉篋両浦嶼(たまくしげふたりうらしま)』(ゲーテ「ファウスト」に着想を得た戯曲1902年)にしろ、それから北村透谷(1868ー1894 詩人・評論家)の『蓬莱曲』(ゲーテ「ファウスト」に影響を受けて書かれた劇詩 1891年)にしろ、それから中島敦(1909ー1942 小説家 “僕のファウストにする”という志で書かれた未完の連作「わが西遊記」がある)さんはね、早く亡くなりましたけどね、結局ね、日本的なストイシズムに沈んじゃっているんですね。で、ゲーテ(1749ー1832 ドイツの作家・詩人・政治家)のダイナミックなあれがないんですね。
それで僕がね、それまで漫画っていうのはほとんど興味なかったんですけども、神田の古本屋でですね、神保町の古本屋でね、神保町ってご承知のとおり、爆撃を受けてないんですよ、神保町は。それで探しに探したらですね、手塚治虫の『ファウスト』(1950年)と『百物語』(1971年)に行き当たったんですよ。で、「これを中に入れていいですか」って、手塚プロに連絡したのが、手塚先生と知り合うきっかけですね。
参考になりそうなレファレンス事例も。
質問『ファウスト』(ゲーテ)、『神曲』(ダンテ)の読解の手助けになりそうな本はないか。
回答
以下の資料をご紹介します。
(1)『ファウスト集注』(高橋義孝/著 郁文堂 1979)
(2)『ゲーテ「ファウスト」を読む』(柴田翔/著 岩波書店 1985)
(3)『ダンテ神曲解説』(里見安吉/著 山本書店 1979)
(4)『ダンテ『神曲』講義』(今道友信/述 みすず書房 2004)https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000057625&page=ref\_view
クィアリーディングできないかと模索する人もいる。参考になる。
真面目な話、神曲をクィア的視点での読み解く論文は集めようと思っててポツポツ集めてる。
だってマジのマジにベアトリーチェとの感じ悪く硬直したやり取りに比べて、ウェルギリウスとの細やかで愛情に満ちたやり取りは胸に迫るものがあるよ神曲は
今年の論文でドンピシャの掘り当てたぞ!!!嗅覚鋭いなあ自分(自画自賛)
そしてその論文によると、どうもダンテとウェルギリウスのホモエロティックな関係を研究で取り上げるのはあまりないことらしい。でもゴリゴリあるよねってことで。
Abstract
At the intersection of Dante Alighieri’s The Divine Comedy and literary analysis of sexuality, scholarship has often focused on the sodomy cantos. Dante’s treatment of the homoerotic prompts investigation into the ways sodomy is depicted in Hell, Purgatory, and Paradise. However, scholarship rarely focuses on the way Dante himself becomes entangled in the homoerotic, chiefly through his relationship with his guide, Virgil. This paper builds on existent scholarship on Virgil’s role in the Divine Comedy as well as analyses of Dante’s depiction of sodomy to investigate Virgil’s role as a connection to the homoerotic and homosocial realm of Hell. With an analysis grounded in the Dante-Virgil relationship, Virgil’s absence from Paradise becomes a signal of departure from the homosocial bonds of Hell and a mark of Dante’s transition out of Purgatory.
宮沢賢治とクィア
「よだかの片想い」再見。宮沢賢治のクィア解釈として「怪物」に先行する作品ながらあまり話題にならなかったのが残念。光に満ちたラストも共通してて良い映画なのにな。