日記(2025-06-22)
SS! Creation
卒論と絵コンテ
卒論を書いている。指導教員はまさに国語の先生という感じでたとえ話が分かりやすく、進め方を具体的なイメージと共に提示してくれる。
数十冊の教科書を調べていく研究で、自分自身これは一発でなんとかするのではなくて、何周も教科書を見る作業が必要だなと直感していたところ、確かにその方が良いという指摘をいただいた。「ネジをゆるめに留めて仮留めしておいて、これでいけるなとなったらそこから固く締めていくのが良い」とのこと。これはかなり絵コンテに似ている。去年プロジェクションマッピングを制作するときに絵コンテを書く際には、気になることがあっても考えすぎずに一旦全部書いてしまい、そこからまた最初のシーンに立ち返って、伏線を付けたり、演出が微妙に類似してしまっている部分について調整をかけたり(必要性を精査して一か所だけに絞る/あえてまったく同じにする etc.)、登場順をひっくり返したりする。
また、複数の教科書会社をまたがりつつも、一つの教科書会社に特化するときにどういう風に記述したらよいのか迷っていたところ、「一つの教科書会社を主人公として、そのキャラクターの特徴を掘り下げるためにそれぞれの場面で違うキャラクターと比較する」という指摘をいただいた。あまりにも(脚本を兼ねる)絵コンテの書き方すぎる。というか、そういう書き方をすべきなのに去年はできていなかったなぁと思う。
ブックマークするのを忘れてしまったのでどこかに散逸してしまったのだけれど、以前「日本の美大ではオリジナリティが強く求められるが、欧米諸国ではそんなことはなく、先行する作品に対してどの位置づけにあるかマッピングできていないとだめだ」というツイートを見た記憶がある。これも、先行研究の扱い方に近しい部分がある。落合陽一もよく新規性について語る文脈で研究と創作を並べることがある気がする。個人的には、たとえば万博を見たときの感想の深さってここなのかなと思ってしまう。万博で何かを見て斬新!と思うのは勝手なのだが、それが本当に真新しいものなのかを判断しなければ正当な評価になっているとは言い難い。実はテーマパークなどで何年も前からやっている事例なんて山ほどある。たとえば万博のショー「アオと夜の虹のパレード」の主な技術であるウォータースクリーンは2011年からのファンタズミック!(@東京ディズニーシー)で既に国内導入事例がある。じゃあ何が万博ショーの新規性なのかというと、レーザーをウォータースクリーンに写すところである。ファンタズミック!ではプロジェクターによる投影はやっているが、レーザーは使用していない(厳密には、レーザーは使っているがプロメテウス火山に当てるためであってウォータースクリーンに当てるためではない)。
グラフィックデザインから表現の領域に軸足を移してきた人間として、デザインとアートの境界線を問われることがある。アートに独自性、0→1っぽさを感じる人もいるようなのだが、個人的にはそうでないと思う。宮崎駿のオリジナル作品ですら基本的にはベースとなる児童文学があってそれに基づいて脚本を書いているように、正直既存作品のパッチワークでしかない。問題なのは、パッチワークでしかないことを自覚できていない場合である。何と何を組み合わせて、そこにどういう要素を見出しているのかを明確化できているかどうかが重要に感じる。じゃあデザインとアートの違いは何なのかというと、「分からなさ」「伝えたくなさ」が入ってくればそれはアートということである。自分でもうまく言語化できないけどどうしても気になってしまうものを形にすることは、デザイン対象への深い分析を前提とするデザインの世界では許されないと思うが、アートの世界では許される。また、デザインの世界は伝わってほしい情報がちゃんと伝わることを理想とするが、アートの世界ではそうではない。アートは見せたいという気持ちと見せたくないという気持ちの往還の中でしか生まれてこないと思う。
鍵をかける
表現に「鍵」をかけてしまう “善かれ” のことば。美大であれば、どんな意図で?、なにを表現したかったの、説明できなきゃわかってない、独りよがりじゃだめ、君らしくない、僕ならこうする、◯◯(著名作家)みたいだね …
SS! Reflection
一般解
依存(自愛)体質を改善するには? との質問をいただいた。依存(自愛)は一般解に守られたがる。これにたいして愛(他愛)では個別解が眼差される。一般解による「正しさ」とか「責任」とか以前に、その人個人に個人として向き合う。なので、依存(自愛)を超えるには個別解に開かれていく必要がある
なるほど……
結婚
パートナーについては、欲しいという時と、別にドーパミンが足りてないだけなんだからおとなしく電極を刺して生きていればいいのではという時が交互に来る感じがある。
陰キャにあるあるだが、友達や恋人を持ってる人が眩しく見えて憧れる気持ちがあるけど、実際は人付き合いは苦手で疲れるから一人で居たいという葛藤を抱えてる人は多いはず。
これま〜じでわかる。
別に結婚がしたいのではなく「結婚できるような人間」になりたいんですよ。結婚ができるくらいの常識と社交性と交友関係を持ってる人間に生まれ変わりたいんですよ。
普通に生きてるだけで普通に友だちができて普通に結婚ができるような人生を歩みたかったと嘆いてるんですよ。
キャンセルカルチャー
見も知らない人に馬鹿だの阿呆だの言われるよりも「あなたは差別主義者だ」というようなことを(多少無理な理屈でも)一斉に言われるほうが遥かに社会的リスクが高いにも関わらず、後者のような(道徳的要素を付与した)言いがかりはほぼノーリスクでできてしまう現在の状況はまずい。
RT 差別”主義者”という言葉はそもそもおかしい。誰かの発言について差別だと思ったら「それは◯◯への差別に当たるのでは」と言えばいいのであって「主義者」までつける意味はない。つまり「差別主義者」という決定的且つ一方的な烙印により「こいつはキャンセルされても良い」を言外に匂わせてる。
コンサル
大学生の人気就職先がコンサルって異常だと思う。
なんでいきなり助言する側に回ろうとしてるんだ?
助言したいというより、色々な仕事に携わって成長していきたいと考えてるのかと思います。
社会人経験のない中で、明確に業種を決めきれないからコンサル志望。いわゆるJTCに入るとテクノロジーの急速な進化においてかれるのでは、といった不安もコンサルが増えた要因に思えます。
こういう時の「成長」っていったいなんなんだろうかとは思う。ただ、大学の周りの人間よりも明らかに成長意識(原義通り、自らの能力を伸長しなければという半ば強迫的な意識)が高い高校の同期のコンサル率の高さを見るに、それは事実なように思う。それは進振りまで教養を学ぶ東大への進学ともおそらく思想的に関連がありそう。悪い言い方をすれば、専門化への恐れみたいなものがある気がする。
それは確かに(コンサル志望ではないが)自分の中にもあって、別に国語教師になってもいいし、メディア・エンタメ系の企業に勤めてもいいのだが、それは果たして10年後の自分にとって適職なのだろうかと思う。一貫的な自己というものを前提視すれば別に良いのだろうけれど、全然違うことに急に惹かれてしまうかもしれないのだから、この道しかないと決めてしまうのは怖いという気持ちがある。
むしろ、自分がコンサルを選ばないのは、「知性で個人戦を勝ち抜いていく自分」というあり方をずっとしていかなければいけない感じが怖いからでもある。数年で転職するにしろ、比較的長くコンサルをやるにしろ、そこでは実績で殴ることが必要になってくる。そんなに健康なほうではない自分にその戦い方ができるのかなと思うし、もっと先のことを言うのであれば、知性で身を立てたという意識が強くなりすぎると、老いとか、精神疾患とか、感染症の後遺症とかで頭がうまく回らなくなった時の精神的ダメージがとんでもなくなりそうな気がする。もっとそういうのじゃないところにアイデンティティを見出せるような職に就きたいなと思う。
フォトアプリ
純正以上にいいアプリなんてないだろと思っているのだが、これはなんか面白そう。
AdobeがiPhone向けのカメラアプリ「Project Indigo」を発表しました。このアプリの開発者の1人であるマーク・ルヴォイ氏は、Google Pixelの純正カメラに搭載されているコンピューティショナルフォトグラフィー技術の開発に携わった人物として知られています。
SS! Society
「世界によって自分が変えられないようにするため」
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」と。ガンジーの言葉らしい。パレスチナにおける虐殺に抗議するデモに参加する人が引用していたことをきっかけに知った。
生存が抵抗になるという下の文章を思い出した。
“クィアは存在しているだけで、クィアを追い込む構造への抵抗になっている。あなたが今居る場所が現場で、あなたが今息をしていることが、腐った構造への強固な抵抗。あなたの実存はすべてのクィアの力になり、生存への連帯になる。あなたは無学でも、無力でもない”
ファウストと『国宝』
ファウストや、『風立ちぬ』との関連性を指摘する投稿がそこそこある。確かにそう感じる。
ADHD傾向と社会的意義の強い仕事
先に断っておくと、これは倫理的に問題のある議論である。他人の特性を勝手に推し量ってラベリングすることはあってはならない。
ADHDというのは、空気が読めないなどコミュニケーションに困難があるものの、社会的報酬への感度が高いともいわれている。実際、教職課程を履修していると、そういう困難さを持つ人の割合が一般の授業と比べて多いような気がする。取り立てて論拠のない仮説だが、社会一般のコミュニティにはうまく馴染めないが、他人に寄与する方向性をもったこういう人たちのおかげで、正当な報酬が与えられていないが本人の貢献意識の強さによってギリギリモチベーションを維持できるタイプの仕事(教師 tec)が成り立っているのではないか。マジョリティは、そういう人たちを特性ゆえのズレを理由にしてコミュニティから排除することはあれど、包摂を含めた正当な対応を講じておらず、特性ゆえの貢献意識にフリーライドしているのではないか。そう思えてならないのである。
自己肯定感と自己責任
「父のキゲンは、巨人が決めている。」このキャッチコピーが炎上している。個人的にもあまり好きな部類ではないのだが、「自分の機嫌くらい自分で取れ」という表現で反発している人を見かけて戸惑ってしまった。これ、ストレートに自己責任論に直結している表現だと思う。
これ、「機嫌」じゃなくて「やる気」とか「元気」なら嫌だと思う人かなり減ると思うんだよね(ひいきのチームが負けて機嫌が悪い、というと家族に対する八つ当たりなどを連想させるが、ひいきのチームが負けて悲しいので元気がないとかやる気が出ない、なら他人に当たり散らす行動を連想させないから)
相手を利す攻撃
尼崎市議選でもそうだけど、「気に入らない候補に罵声を浴びせる」という手法について。
その候補にとって動画映えする良いコンテンツになっている(頭のおかしいアンチを神論破!みたいな)ので、やめた方がいいんだけど、まあそんなことでやめる人たちではなさそう
面倒なことになるから、リベラルな政治家でも口をつぐんでる人が少なくないんですよ。でも、そろそろ黙っている場合じゃないと思います。
私も同じことを思っていて、現在のSNS環境では地方選でカウンターをかけると、かけられた候補が浮上するという結果になります。
でもカウンターしている集団は、そもそも自分たちがやりたいからやっているのであって、結果については「投票した住民がバカ」という向き合い方をするだけなんだよな
これは本当にそうだと思う。「戦い方を指図するな」「罵声を浴びせるしかもはや手段がない人から罵声を浴びせる手段を奪うのか」という立場はあって然るべきだけど、その考えにあぐらをかいて、いくらでも手段があるのに感情的にそういう手段に安住してしまっている人はいるのではないか。
選挙報道
選挙報道改革の取り組み
【目指すこと】
・ネット空間の情報なども検証、ファクトに迫ることを目標の1つに。
・有権者に判断材料を提供するため、事前報道の「質」を高めて、「量」を増やしていく。【ファクトチェックの取り組み】
・ネット上の投稿などを24時間体制でモニター。偽情報・誤情報・誤解を招く言説の広がりが確認さ れた場合、これらを打ち消すための報道も行う。
・選挙における典型的な偽情報・誤情報をあらかじめ打ち消す取り組みを実施する。
・SNS利用の注意点などについて、専門家のインタビューも交えて伝えるシリーズ企画を放送する。【争点や政策に関する事前報道を充実】
政党・候補者の主張やスタンスなどを整理・分析して伝える番組・企画を拡充させ、各地の放送でも展開する。【党首・候補者の「第一声」をコンテンツに活用】
WEBサイトにノーカット版動画や全文テキストを掲載。争点に関する発言、真偽不明の発言について は解説を加え、正確な理解につなげる。注目選挙区では第一声の内容を詳細に分析する。https://www.nhk.or.jp/info/pr/toptalk/assets/pdf/soukyoku/2025/06/001.pdf
素晴らしい。
ハッカーになろう
3. 有益な情報を公開する
これまたよいことは、役に立つおもしろい情報を集めて選り分け、それをWebページにしたり、あるいは FAQ (Frequently Asked Questions lists)のような文書にすることです。そしてそれらを一般公開することです。
大事な技術 FAQ 類の維持管理者は、オープンソースの作者とほとんど同じくらい尊敬を得られます。
4. インフラが機能し続けるように手伝う
ハッカー文化(さらに言うとインターネットの技術的開発)はボランティアが運営しています。それを機能させるためには、必要ながら陽の当たらない作業をたくさんやらなくてはならないのです。たとえば、メーリングリストを管理したり、ニュースグループの議長を勤めたり、アーカイブサイトで大きなソフトウェアを維持したり、RFC 類やその他技術的な標準を開発したりするようなことです。
このような種類の仕事を立派にこなす人々は多大な尊敬を受けます。このような仕事が時間ばかり食って、しかもコードで遊ぶほど楽しくないのをみんな知っていますから。それを引き受けるのは献身ぶりを示すことになるわけです。
個人的にudemyとかで有料で動画に出してるタイプの人を(一方的に…)ライバル視してる
知識は平等に、求める人が求めたときにもっとも親切な形で与えられなければならない
高校の同期が無料で講演スライドをアップしていて、これもそういう思想を感じてすごいなぁと思う。
SS! Culture
高橋文哉
NHK仙台局の番組「定禅寺しゃべり亭」に出演していたのをたまたま見た。料理と演技の似てる部分とか、芝居における役の背景への理解とか、興味深い話がたくさんあった。
高橋(料理の魅力について)「今だから気づいたことなんですけど、本当にお芝居と似てて。たとえばここにいらっしゃる皆さんがお芝居がうまいと思う俳優さんって全員違うじゃないですか。美味しいって思うご飯も全員違うじゃないですか。で、ゴールがないという。美味しいの天井を知らないじゃないですか、僕らって。追求するゆえの楽しさが料理にはあって、のめりこんで、役者の道にってなったときも気持ちがすんなりいけたのは、たぶん料理と近いものがあったから自分の好みにすごく合ってるんだなというのは思いましたね」
高橋(映画『少年と犬』で犯罪に手を染める役を演じたことについて)「悪い人なんだで終わっていたのが、なぜその仕事とを選ばなければいけなかったのかということをいろいろ考えて。すごく素直な、ピュアというか、わだかまりのない青年ではあるけど、なぜその仕事を選んだのかっていうのが、お世話になってる先輩だから断れなかったとかのパターンもあれば、気づいたらやっちゃってたというパターンもあると思いますし、そこに罪悪感があるかないかっていうのも含めて、いろんなことをつなげていって、役を作っていったという感じがしますね。」
小田井涼平「お話を聞いていると、一人の人間として捉えたとき、悪い人であれ良い人であれ、一個筋が通っているのが本当は正しいんですけれど、そこから枝分かれしていくときに、ひょっとして急にこういうことを思い立って悪いことをしてしまうかもしれないという可能性は常にあるんだなということに気づかされません?掘り下げていくと。」
高橋「どんな人にどんなことが起きる可能性もあると、それは感じますね。」
これはかなりすごいことを言っているように思う。点でなく線で人を見れるようにするために演じてみるって結構有用なのかもしれない。演劇教育論とかを研究したい気持ちになった。
アンビエント
細野晴臣が昔アンビエントの新しい聴き方として聴こえるか聴こえないかくらいの微小な音量で聴くっていうのを提唱していて最近寝る前に実践してるけど割と良い、新しいものが見える気がする
確か細野晴臣はブライアンイーノのこのアルバムでこういう聴き方してるって言ってた気がする、ほんとに良いからみんなもやってみて
ブライアンイーノのAmbient 1: Music for Airports。部屋で微小な音量で聞いてみると、外から聞こえる車の音や、室内のエアコンの音など普段は意識していない音が浮かび上がってくる感じがあって結構面白いかも。
『インディアン』の名称
今夜22:00〜『水曜日のダウンタウン』は、インディアンスがネイティブアメリカン系のそれっぽい団体から抗議を受け、コンビ名の改名を要求される「インディアンス改名ドッキリ」です。
なんというか、世の中の大体の人間の意識っておそらくこうで、その点大衆の意識を正確に捉えているとは思うんだけれど、こういうコンテンツを作る人間にはなりたくないなと思ってしまう。こういうのを「風刺」「鋭い」とか言って称えるの、もうサムくないですか?その程度で思考が終わってしまうレベルの知性って、だいぶオシマイじゃないですか?
スピッツ『チェリー』
良いラジオ。スピッツの『チェリー』の歌詞を歌人の岡本真帆さんが読み解く回。
岡本「この『響き』もすごい。残響ですよ、残響。」
原宿「空洞の中に、愛してるって言うことだけが、胸の中の空洞かもしれないけれど」
岡本「本質じゃなくて、外側にある空気とかも含めた響きってことだと思うんですけど、『愛してる』って伝えた事象そのものじゃなく、それが反響して残ってるってその……」
原宿「『愛してるの響きだけで強くなれる』は、なんか」
岡本「嘘です、それは嘘、それは嘘です。『気がしたよ』まで言うから誠実なんですよ」
万博の描き方
いい記事だった。万博の面白さがちゃんと伝わってくる。
「他人が怒っている」ということ
NHKの英語番組「#バズ英語~SNSで世界をみよう~」のSNSで、男性同士が仲を深めることを「危険」と呼んで笑いものにする表現が。正直言ってこういうのはあまりにもありふれていて、これを当初見た時もよくないなーつらいなーとは思いつつあまり考えたくなくてスルーしてしまった。でも数時間経ってまた閲覧したらかなりしっかり目に炎上していて、おそらく謝罪にまで追い込まれそうな勢い。モヤモヤが晴れたというか、ちょっと泣いてしまった。自分が耐えればそれで済むじゃんという決着の付け方にあまりに慣れてしまって……。
その後投稿は削除された。
NHK Eテレの番組「#バズ英語」の予告映像と番組公式Xの投稿が、同性愛に対する差別や偏見を招く内容だとして批判が上がっていた問題で、NHK広報は6月18日、ハフポスト日本版の取材に回答し、「誤解を招くおそれがある」ことから投稿の削除などの対応をしたと説明した。
17日の放送では、問題となっていたシーンはカットされていた。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story\_jp\_68534ef5e4b0dd3af03691b7