日記(2025-06-08)

SS! Creation

短歌

  • もう一本ぼくを書き込む 対称が崩れた世界を作りたいから
  • ぼくたちは何も越えない愛なのに越えなきゃいけないものがたくさん
  • 機能性だけを見すぎてペンのことちゃんと分かってあげられなかった
  • 特撮を視聴し続けてどれぐらい経てば男子になれるの?先生
  • 墨をまた足して書いても曲がってく だから私はからだを捨てた

SS! Reflection

弱さ

体調不良であれ、心因性のものであれ、「弱さ」というのは「思考」の母体になる。なじめなさはその集団にたいするクリティカルな思索、構造的な思考をもたらす。むしろ容易になじめた人々のほうが無思考でいられるものである。こうすれぱああなるという程度の観察しかなくなって、構造はみえなくなる。

https://x.com/nakashima001/status/1930103674212340191

学童のころはクラスから外れた子たちが好きだった。登校拒否する子の家に通った。彼らはなじめなさのなかで思索的になっていた。だから個別に、深い対話ができた。これはヒトだけではなく、イヌでもそうだった。虚弱ではぐれてしまったりハブられた仔犬はとても繊細で、思慮深くなる。信頼関係もできる

https://x.com/nakashima001/status/1930105846685675883

ある制度、ある集団規範になじめないことでその制度や規範にたいする考察が可能になる。メタ認知というものが発動する。だからいわゆる「落ちこぼれ」からしか観えてこない視界の広さがある。その絶好の機会でしか成り立たない対話がある。会社を辞める人にしか会社の本質を語れないようなことと同じ。

https://x.com/nakashima001/status/1930109005827059793

組織では、そこに適応出来た人間が幹部として成り上がっていくが、その人は決して組織を批判的に語り得ない。なれなかった側にしか至ることのできない思考があって、そこに根本的な難しさがある。幹部に「なれた」人間が自分の考えだけの範疇でその組織を改善することなど、本質的に不可能である。

身体性

 書道というものがどうも好きになれない。イラレを使えば簡単にまっすぐな線を描くことができるのに、墨を付けて書くと自分の思ったところに線が引けないというところに他の人より大きなストレスを感じているような気がする。身体を使う芸術、たとえばダンスとかにも同じようなものを感じる。どれだけ訓練したところで、誤差の範囲が狭まっていくだけで完全には制御しきれないのが腹立たしい。制御できなさだけでなく、意図して自分の身体性を刻印しようとしているわけではないのに刻印されてしまう感じも嫌なのかもしれない。鏡をずっと見させられている感じというか。わざと自分の身体性を入れ込むタイプのグラフィックデザインと書道とは訳が違う。

 よくボカロ曲は歌い手の身体の限界と関係ないところで戦えるから音楽表現の幅が広がったところに画期性があるという話を聞くが、究極的にすべての芸術はそうあってほしい(正確には、そういう選択肢があるものであってほしい)と思ってしまう。身体と関係ないということは、病んだり老いたりしてもな関わりやすい、参入障壁の低い芸術であるということだからだ。

SS! Society

意味

 本当にその通りだと思う。

シューカツで、好きでやったことたちを意味に還元してしまったことを残念に思う

https://x.com/shirominimum/status/1929547462110535684

1.他者と自己への欺瞞
求められる資質を示すストーリーを伝えるためには、有限の体験から自己の恣意的な意味付けを行う必要があります。例えば、8割の楽しさと1割の社会貢献を理由とした活動を、後者を軸に話した方が良い時があります。この欺瞞を自らの意味付けとして他者へ表現する哀しみがあります

https://x.com/shirominimum/status/1929757991513084249

2.原体験の消失
さらには、人は行動や経験の明確な理由を持ちえません。人間の脳の並列的な思考では、理由の何%がこれこれであるとは確定しません。言葉で他者に経験を意味として目的として語ることは、否応なしに自分の行動を意味として目的として捉え直すことで、そこには消えていく原体験があります

https://x.com/shirominimum/status/1929757994654597324

AI

Googleが、AI開発プラットフォームのHugging Faceに公開されているAIモデルをユーザーがスマートフォンから実行できるようにするアプリ「Google AI Edge Gallery」を2025年5月21日に公開しています。Google AI Edge Galleryは記事作成時点でAndroid版がリリースされており、iOS版は近日登場予定となっています。

https://gigazine.net/news/20250602-google-ai-edge-gallery/

 毎週のように新しいAI情報が入ってきていてすごい。

プライド月間

 今月はプライド月間。

プライドマンスって祝福だけの月じゃなさすぎてやばい 抗議も怒りも追悼も希望もぜんぶやります ぜんぶをやりにきました

https://x.com/KOKE_1515/status/1929532843438346258

 神戸レインボーフェスタでパレスチナにおける虐殺への抗議を掲げようとした人が注意される事態が起きた模様。

プライドパレード開始前に注意があり、プラカードを掲げられませんでした
「これはお祝いのパレードなので批判の意味があるプラカード等はご遠慮ください」とのことでした
お祝いだけして居られるならどれだけ良いのか、これは誰のためのパレードなのかという疑問があります

https://x.com/naya_n___/status/1929094510790791185

主催が事前に注意事項として『多様性を尊重するパレードです。思い思いの表現を歓迎しますが、特定の個人や団体を差別・否定する言動や表現は固くお断りします。』と説明しています。
https://koberainbowfesta.org/parade

参加するならルールを守るべきかと。

ルールを守りたくないなら参加するべきでないかと。

https://x.com/5364xyz/status/1929543818241556941

決して、この方を否定したくて引用投稿しているのではありませんが、とても良い着眼点だなと思って、私なりの持論をここで発言させてもらいます。(今回はリプライをオープンにしててよかった!ありがとう!まあまあ長くてごめんなさいね🙏)

 ご存知かとは思いますが、『プライド』とは本来「抗議」から始まったイベントです。1969年、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール」に踏み込んだ警察による度重なる弾圧をきっかけに、性的マイノリティたちが怒りを爆発させたのがその起点。そして、暴力に声で対抗したクィアたちの記憶を引き継ぐ形で、翌年には「マーチ」としてのパレードが始まりました。
 つまり、プライドの根幹には「声をあげる自由」と「権力への異議申し立て」があります。それは決して「祝う」だけの場ではなかったんですね。
 そんな歴史を思い出しながら、このイベントのガイドラインに目を通すと、そこにはこう記されていました。

「多様性を尊重するパレードです。思い思いの表現を歓迎しますが、特定の個人や団体を差別・否定する言動や表現は固くお断りします。」

 いかにも丁寧で正義感に溢れる文のように見えますが、この言葉はある種の「無害な当事者」だけを選別する装置として働いてしまわないでしょうか。例えばイスラエル国家の軍事行為に対する抗議、あるいはピンクウォッシュ企業の名指し批判、日本政府による法的差別への異議申し立て——これらは全て、「特定の団体を否定している」として排除されかねませんよね。“思い思いの表現を歓迎します”と言いながら、怒りや批判という表現を弾くのなら、それは「歓迎」ではなく「統制」です。

 もちろん、暴力的な言動や個人攻撃は論外ですが、構造的な加害を見過ごさないという立場や黙っていられないという姿勢まで排除されるのだとすれば、それは「多様性の尊重」という言葉を借りた沈黙の強制に他なりません。
 プライドとは本来、そうした沈黙に抗うものであるはずなのに、誰かが“ふさわしくない”と判断するその基準にこそ、最も問いを向けなければならないのではないでしょうか。

(補足ですが、「虐殺やめろ」という言葉は個人や団体そのものの存在を否定しているのではなく、ある特定の行為に対して倫理的・人道的な停止を求める表現です。
たとえば「◯◯会社と国家Aは滅びろ」は存在の否定になるけど、「◯◯会社は国家Aによる虐殺への加担をやめろ」は行為の否定、批判です。
つまり、存在と行為を分けて考えることがポイントにも思えます)

 祝うことと、抗議すること。その両方を許容できない場所に、「プライド」と呼ぶ資格はあるのか。私はその構造に対して問い、そして抗議しております。

https://x.com/tonkotsu_0707/status/1929551261336322466

 素晴らしい投稿だった。祝うことと抗議することは両立する。

 タイや台湾のようにBL/GLドラマ出演者やスタッフがプライドパレードに参加したり、メッセージを出すことはBLドラマで描かれるゲイやレズビアンなどのクィアな登場人物が”ファンタジー”ではなく、現実世界と接続する隣人なんだと視聴者に喚起させる為に重要だと思う

https://x.com/s_4_tune/status/1929357159969480774

 これは本当にそうだと思う。日本でもほぼ確実に数年以内に最高裁が同性婚のできない状況を違憲と判断するだろうという状況になってきており、もはや政治的イシューではなくなってきているように個人的には感じているのだが、なかなかそういう動きにはつながってこない。アミューズの法務部が近年の婚姻の平等関連の訴訟に反応する投稿をしていることもあり、アミューズ所属でBLドラマに出演したタレントがそういう発信をしてくれるのではないかと期待しているがおそらく厳しいだろうという気持ちがある。

Be proud of who you are. Love loudly. Live freely. 🏳️‍🌈 #PrideMonth

https://x.com/dunknatachai/status/1929118669042585785

 たとえばタイの俳優・Natachai Boonprasertさんは上のような投稿をしている。

SS! Culture

映画『国宝』

 超大作の名に恥じない名作だった。鑑賞しに来ている年代は類を見ないほどかなり広め。歌舞伎というだけあって松竹配給と思いきや、東宝配給。歌舞伎を観たいという気持ちになる。今から染五郎を見ておけば一生観れるのか……と思うと本当に歌舞伎役者はえぐい。

 メインを張る吉沢亮・横浜流星が最初に共演したのが『仮面ライダーフォーゼ』というのがすごい。仮面ライダーと歌舞伎は地続き……。

良かった点

  • 3時間近い作品ということで何度も舞台のシーンが挟まるが、どれも鬼気迫る芝居で、役者の鍛錬を感じた。設定や展開にはところどころご都合主義的な部分があるが、そういったことを気にしないで見終えられるほどに歌舞伎の監修が行き届いていると感じた。
  • 時間を空けて同じ作品を演じたり、登場人物の置かれている状態と芝居の内容が重なったりと、劇中劇の主要な使い方をすべて使い切るような万全さだった。喜久雄と俊介の友人ともライバルとも言い難いような運命共同体的な関係が、『曾根崎心中』を演じることによって、恋慕すら交じるようなものとして示されていたのが良かった。
  • 特に劇中劇で素晴らしかったのは、喜久雄と俊介が最後に共演する芝居がピークになってしまいそうなところ、そうではなくきちんと最後の喜久雄ひとりの舞台がピークになっていたところ。俊介の無念さを背負うようなところが感じられた。
  • 喜久雄の少年期を演じた黒川想矢の芝居が凄まじかった。少年期といっても、単に主人公の背景を描くだけのものではなく、たとえば最終盤で人間国宝になった喜久雄が『鷺娘』を演じるところに直結する舞台見学のシーンなど、吉沢亮が演じる部分との一貫性が強く求められるところを、一切の違和感なくやり遂げられていた。一代記の半分を担うという気迫があった。
  • 迎合と裏稼業との距離の近さや、師匠という「父」のもつ暴力性など、芸事の正しくなさを正面から取り上げていた。序盤の暴力団同士の抗争シーンの迫力がとんでもなくて、超大作ゆえの豪華さを感じた。
  • 芸事の正しくないがどうしようもなく美しくて惹きつけられてしまう感じがうまく表現できていた。喜久雄が、本当の父の死んだときに雪が降る風景と、舞台上で紙吹雪が舞う風景を重ねて、そこに強く惹きつけられるところの描写が美しかった。そこだけ黒地に雪が舞うCGを挿入することで、印象的な演出になっていた。
  • 芸事における才能の格差をかなり丁寧に扱っていた。才能のある喜久雄 vs. 血を受け継いだ俊介という構図はかなり単純というか、よくあるものではあるものの、(明言されていないのでもしかしたら読み違えかもしれないが)俊介が糖尿病を父から受け継いで舞台上で事故を起こし、早死にする描写が挟まることで、血統というものを多面的に描けていたのが良かった。
  • 「悪魔との取引」をはっきりとセリフにしていた。
  • 歌舞伎の劇場に来るような観客と、余興としての日本舞踊をたまたま観るような観客の層の違いが分かる描写が良かった。特殊なコードのうえに歌舞伎が成り立っており、そのコードは一般社会には通用しない(たとえば喜久雄が人間国宝になったことを多くの国民は知らない)ということがよく描けていた。
  • 「伝統」というものを描くときに、一代記はかなり有用だと感じた。時代が変わってもその時代ならではのモチーフが登場人物と一緒に登場しない描写が続くと、急に登場人物が老け込んだように見えてかなり違和感があって良かった。

気になった点

  • 最初にわざわざテロップで舞台に立つのが男性のみに限定された経緯を述べるという工夫ができたのだから、男たちの芸事の世界で犠牲になる女性の苦悩をもう少し描けたのではないか。終盤にある喜久雄と娘との和解も、喜久雄にとって都合が良すぎる部分がある。時代が経過して指導者となった喜久雄たちが「父」の暴力性を良くないことだと言い合い、実際に暴力的でない指導をするという描写があり、「父」を相対化できていたのが良かった分、「梨園の妻」像に対する批評性がもう少し欲しかった。ただ、時間的にこれが限界なような気もする。

MAMA

作詞作曲にAI使ってるってデマ記事流されたあとのMAMAのステージでリダズがAIから指揮棒取り返すオープニング、どんな反論より生身の音楽で勝負するセブチさんの生き様見せつけてくるのめっちゃ痺れた

https://x.com/i1028s/status/1930040735946137601

 これ素晴らしい演出だった。JO1がSupercaliを披露した時といい、MAMAはレベルが高い。

オムライス

黒川想矢が出ているMVということで、1年前の作品ながら観た。曲も演技も素晴らしかった……。自分が踏みにじった善意みたいなものが見えて自己嫌悪がひどくなる悲痛さがうまく表現されていた。

宮崎駿

 久々に『宮﨑駿と青サギと… ~「君たちはどう生きるか」への道~』を観た。ものを作ることへの覚悟、そして孤独。あまりにも立派で、本当に作ることを選んでよかったのだろうかとクヨクヨ逡巡してしまう自分が情けなく思えてくる。

『眞人は他者を受け入れていく、他者に対する理解や共感を持つようになる。今までと違う世界に目を向けて動き始めたときにようやくなんとか……』

『どれだけ自分のつっかえ棒になってくれていたんだろうと思うんだよね。そういうのは記憶の中で消えていってしまうけれど、その人たちはずいぶん大きな支えになっているっていう』

『自傷事故を僕は起こしたことはないんだけれども、自傷事故の寸前ぐらいまでは何度もいってると思うんだよね。子どもってそういうものだと思うんだよね。本当にしんどい時期があるはずなんですよ。子どもたちはちゃんと抱えているんですよ、黒い種を。元気にやっているように見えてもね。そういう人間に声をかけるのは年寄りの役目よ。俺はそう思っているんだよ。』

『宮﨑駿と青サギと… ~「君たちはどう生きるか」への道~』より

クィア・リーディング

良い記事だった。

鉄道関連の懐かしさ

たとえば自分のよく使う路線のかつての発車標のデザインってノスタルジーを刺激してくれるのだが、こういうのって記録しがたい。

 京葉線のアナウンスや発車メロディーというのは、ディズニーランドに行った記憶と強く結びついていて、特別だ。かつては日常の世界から隔絶されているようなものが採用されていたから余計に思う。

 アナウンスについては、2016年まで京葉線では多くのJRの駅で導入されていたATOS と呼ばれる仕組みがなく、PRCという仕組みが長く使われていたため、「ドアが閉まりますからご注意ください」という独特なアナウンスが聞けた。

 また、発車メロディーもVerde Rayo V2という独特のものだった。これも今年5月に京葉線からなくなってしまったよう。

未成年を消費するということ

成人女性がこれにキャーキャー言うのはアリなの…?
男女逆だったら絶対批判されてるよね

https://x.com/pupoyo8w9/status/1928794644357460369

STARTO ENTERTAINMENTのジュニアに対する投稿が話題になっている。(女性)ファンの反応としては、性的な消費ではないというものが多いように感じる。

ジャニオタ兼ハロオタのワイ、男女逆も何も「スターになれ!頑張れ!」がベースのアイドルの推し方でなく性的ベースに考えられることに頭抱える。性的に見るな、成長を見ろ。

https://x.com/sakuloverars/status/1929196786565947848

ヅャニオタは彼らの幼さに惹かれてるんじゃなくて「輝かしい未来」にキャーキャーいってんの。ただのガキには興味無いのよ。

https://x.com/mimi_meriru/status/1929039917415354823

 『無名の人生』を観た直後ということもあって今はすごく厭世的な気分なので、こういう反応を見ても、都合の良い話を並べているだけのように感じてしまう部分がある。

 まず気になるのは、仮に男性アイドルの女性ファンが性的消費をしていないのが正しいとしても、じゃあなぜその逆はやたらめったら性的消費しているというステレオタイプが流通しているのかという点である。男性アイドルの女性ファンが「輝かしい未来」を見ているというなら女性アイドルの男性ファンだってそうではないのか。また、この場合男性アイドルの男性ファンで、恋愛感情が男性に向く人間に対するイメージはどうなるのだろうか。よく分からない。

ほまに、コレ、だし、彼らが腰振っても何も思わないてかむしろちょっと👉🏻👈🏻って思っても彼らのモチベーションのためにキャー‼️と黄色い声を上げるのがヅァニオタなんですよね

https://x.com/xokawaii_/status/1929162141140946977

 加えて、「本当のところ」性的消費をしていなくても、結果的に性的消費に加担している場合は大いにある。たとえば、ファン界隈で出回りがちな上のような言説(キャーというのは実際にそう思っているわけではなく、形式美として言っている云々)というのは、アイドル本人にも「あくまでもファンという体裁上そう反応していますよ」という言外のメッセージが伝わっているならただの共犯関係ということで済まされる話だが、そうでなく純粋に喜ばれていると誤認されている場合は往々にしてあるように思う。第一、本当に喜んでいるわけではないが喜んでいるそぶりを見せる、というのは、本当はジャニー喜多川が加害をしていると知っているけれども知らないそぶりを見せるという誤りと、アイロニカルな没入であるという点において軌を一にしているように思える。もちろん、ジャニー喜多川の一連の問題に関する女性ファンの沈黙というのは、日本社会において女性に対する加害行為が取り立てて問題視されてこなかったという背景を抜きにして語れない問題であるため、激しく非難することは難しいが、それと同様の誤りを今もなお繰り返すことには批判があっても仕方ないだろう。

 また、性的消費ではなくても、未成年のアイドルを応援するという行為自体が、人格を消費する行為であるという認識が薄弱であるようにも思われる。近年のジュニアファンがさかんに批判するデビューの行き詰まり感は、未成年をデビューさせるという倫理的にグレーな行為を現在のSTARTO社が渋っているという点では良い部分もあるのではないか。

性的消費以前に特定の血縁もない子供に執着して応援しているということに危機感を感じるべきだと思うんだけどジャニオタにはそういった概念がないらしくてびっくり

https://x.com/newtopia_offcl/status/1929510393069666534

 罪人としての意識を持てとまではいわないものの、自分の「応援」という一見純粋な感情や行為が常に消費と結びついているという呵責なしに未成年をまなざすことは恐ろしいことのように思う。もちろん留保があればいくらでもまなざしていいわけではないのだが、「対等」に見えるものも含めてすべての対人関係は力関係でしかありえないから人間関係を洗いざらい辞めるべきとはならないように、生きるためにそういった「正しくなさ」に手を染めることもある程度は必要なのだろうと思う。

 なお、本筋からは大きく逸れるが、個人的には具体的な加害が伴わない性的消費というものを完全に悪いものとみなして異常性のある矯正されるべき行為とすること自体に疑問がある。この論争では悪いものであるという前提にのって話が進んでいるが、そうでない可能性もあるのではないかと思う。別に推奨されるべきとはまったく思わないが、実際に目の前にするでもなく、お茶の間でテレビに出て来る男性アイドルを女性が性的にまなざすことは、女性の自由であって、取り立てて他者によって咎められるべきことではないのではないか。ここで「性的に消費していない!」という体裁を保つ言説が流布するあまり、自由が剥奪されているのではないかという危惧もある。

万博

デザイン

最近、「今回は“デザインの万博”ですね」と言われることが増えてきた。1970年の大阪万博が“科学技術の万博”だったとすれば、2025年の大阪・関西万博は、“デザインの万博”と言えるのかもしれない。おそらく、そう言ってくれる方は、建築の話だったり、僕の関わっているデザインシステムや「こみゃく」についての文脈で、気を使ってくれている部分もあるのだろう。けれど、客観的に見ても「デザインの万博」という評価は、決して的外れではないと思っている。

実際、かつての万博は「人類の進歩と調和」がテーマだった。人類の、日本の今後の科学技術の発展や経済成長の可能性に心躍らせていたことと思う。今回の万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。「デザイン」という言葉が万博の“大テーマ”に掲げられるのは、歴史上はじめてのことだそうだ。それは単なる言葉選びではなく、「デザインとは何か?」「デザインに何ができるのか?」という問いが、いま社会全体に投げかけられているということだと思う。

なぜ、僕がここまで万博にコミットしているのかといえば、デザインが大テーマに掲げられているこの場で、その力を示せなければ――それは、正直、情けないし恥ずかしいことだと思っている。
一方で、デザインの意味や可能性を社会に示す、またとないチャンスだとも感じている。

万博に来た方には、デザインや建築などの表層だけでなく、そのアウトプットに込められた思想や機能にも目を向けてみてほしい。それらが人間、自然、テクノロジーとの関係性にどう向き合い、未来のあり方そのものをどう問いかけているか――そして、何をメッセージしどのような社会を動かす変化を起こしているのか?そこにこそ、デザインの力がある。

たとえば僕の仕事でいえば、デザインシステムや「こみゃく」たち、会場のデザイン、アート、サウンドスケープなどは、単なる見た目の話ではなく、体験性や拡張性、そこから生まれるSNSでの広がり、二次創作による参加、万博へのイメージの変化。そして、その土台には「生命中心の未来」からなる、人間、自然、テクノロジーなど多様ないのち同士、世界同士が如何に共に新たな世界をつくるべきか?「世界と世界が、つくる世界」への問いかけが根底にある。見た目を超えて、そうした機能性や思想性なども含め「デザインが未来を動かす力になる」と感じて貰えれば、本当にありがたいことだ。

デザインとは、ただの装飾ではなく、よりよい未来の社会そのものを形づくる力なんだと考えている。いま、その力を社会に示す絶好の機会が、この2025年の万博なんだと思う。

そのデザインは、決して専門家だけのものではない。イベントに参加してくれる人たち、二次創作を楽しむ人たち、万博の魅力を誰かに伝えてくれる人たち──

そのすべての行為が、未来を共に“デザインする”営みだと感じている。

未来は、誰かが与えてくれるものではない。ただ受け取るものでもない。
それは、私たち自身が想像し、手を動かし、かたちにしていくものだ。
そして今、その“つくる”という行為の真ん中に、デザインがある。

僕は、デザインをひらき、社会をひらき、未来をひらいていく事に今回の万博の意義があると考えている。それは僕がコンセプトとした「OPEN DESIGN 2025」にも現れている。今回は「開かれたデザイン」の万博であったねと言われるように最後まで頑張っていきたい。

https://x.com/kouta_hikichi/status/1928990139000483926

 大屋根リングも一部残す方向で話が進んでいるらしく、本当に素晴らしいと思う。東京でやっていたらおそらく全部撤去されている気がする。

大阪・関西万博のシンボル・大屋根リングについて、大阪府と大阪市が、1周2キロのうち南側の350メートルを保存するなど2案を検討していることが、複数の関係者への取材でわかった。日本国際博覧会協会(万博協会)や国、経済界が出席する3日の会合で提示する。

https://www.yomiuri.co.jp/expo2025/20250602-OYT1T50171/#

特集記事

NHKのチェコパビリオン特集記事がすごかった。

手がけたのは、7年前に96歳で世を去ったチェコのガラス芸術家、レネー・ロウビチェク(1922年~2018年)。

「チェコ伝統のガラス工芸を芸術の域にまで高めた偉大な芸術家」として国際的にも評価されています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250523/k10014811031000.html

パチネックさんが、ロウビチェクから学んだこと。

たくさんあるそうですが、その中でも最も大事にしていることを教えてくれました。

それは「ガラスは自由である」ということ。

「ガラスは形を変え、決して一定ではなく、何にでもなれる」

どんな時代でも、ガラスで自由に表現することを諦めなかった芸術家の思いです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250523/k10014811031000.html

イタリア館の飛行機

 イタリア館に展示されていたのは、1920年にローマー東京間を飛んだアルトゥーロ・フェラリンの飛行機の模型らしい。

5月7日に撮影

このアルトゥーロ・フェラリン、『紅の豚』のフェラーリン少佐のモデルらしい。すごい。

また、1970年の大阪万博でもこの飛行機の違う模型の展示があったらしい。アメリカ館の月の石といい、前回の万博の文脈を踏まえた展示物選定を各国がしていることに感動する。

本館と産業館は、敷地の対角線を境界にして分けられ、その間は階段のある通路と、段々畑状の芝生になっていた。この段の“中腹”に、イタリアのダルミネ製鉄会社が出品した F・T・サルトーリ作のスチール彫刻が飾られていた。そこをさらに下がった産業館西側の芝生には、1920 年、初めてローマから東京間の飛行に成功した複葉・単発プロペラ機の実物大模型が置かれ、さらに東南端の芝生には、現代イタリアの一流彫刻家の1人ジャコモ・マンズーの新作「大きなリボン」というブロンズ彫刻があった。

https://www.expo70-park.jp/cause/expo/itaria/