SS! Creation
アイコンの設計(と他者性について)
SNS等で使用するアイコンを設定する際には、自己を固定化した1つの画像として取り出すことへの逡巡が常にある。自己はもっと複雑で変わりやすいはずだ。自分の手でもって取り出してしまった瞬間に、そのイメージに自分自身が「やられてしまう」のではないかという危惧がある。そこで2つのソリューションが考えられる。
1つ目は、複数の名義のアカウントを確保したうえで、そのそれぞれに対して違う画像を適用することで、自己の多元性を確保するという方法である。これは今も部分的にやっているが、いかんせん管理が面倒で、自己の更新をうまく反映できないという問題がある。
2つ目は、アカウントは単一であっても、できるだけ多くの頻度でアイコンを切り替え続け、自己の流動性をある程度うまく表象する方法。これは近年まで写真やデザインのストック上かなり困難な方法ではあったものの、画像生成AIができたことによって、例えば直近記した日記や直近撮った写真をもとに自動生成するなどの方法で原理上は可能になっている。本来はアイコンの切り替えも含めて完全に自動化できれば望ましい。
これに関連して思うこととして、プロフィールに経歴、たとえば大学名、サークル名を書くことへの抵抗感がある。特定の関係値を持つ人間にしか開放していないアカウントについて、その関係値(大学関係、高校関係、趣味関係等)を明示することに差支えはないのだが、それ以上の情報は書きたくない。それは、ある特定の経歴によって自己を代表させることが絶対的に不可能であるということに起因している。ありとあらゆる経歴を網羅的に記述できるならまだしも、そこに選別がなされた時点で、その自己像は恣意的になってしまう。これは別に「本当の自分」じゃないから嫌だというものではなく、意図しない恣意性は自己の可能性を制約しうるものだから嫌なのである。いっそ逆手にとって意図的に選別して見せたい自己を作ればいいのかもしれないが、日々使うようなSNSにおいてまで自己像を設計する面倒なゲームには参加したくないから、この恣意性はできるだけ抑え込みたい。
経歴を書きたくない。この考えには、自己の中の他者性に対する眼差しが消えるという意味でも良くないと思っている。一般的には、今の自分というものは、これまでの経歴を踏まえた自分でしかありえないとされるがちだが、そうではなく、これまでの経歴のうちのどれかをもし経験していない自分というものの可能性も、常に今の自分の中に含まれている(いわば異なる世界線の自分が混在して今の自分ができている)という捉え方をしている。経歴を書いてしまうことは、その経歴を踏まえていない自分自身が今の自分の中に存在する可能性を否定する宣言、過去の可能性に目を瞑ると同時に未来の可能性を閉ざしてしまう宣言のように思えてしまうから嫌なのである。
「こうでなかった可能性」は、「このサークルに入らなかった可能性」のような卑近な例もあるだろうし、「東日本大震災の日に東北地方にいた自分」というものが今の自分につながっているという捉え方も含まれるだろう。自分自身は被災者ではないかもしれないが、同時に被災者であるかもしれないことによって、よりその問題にコミットできるようになるのではないかと思っている。ここにはかなり微細なニュアンスがある。
ここでいう「おそらくは被災者ではないかもしれないが、被災者であるかもしれない」ことは「被災者ではないが、被災者であった可能性を考えて生きている」とは違う。結論が留保されているかどうかというのは、たぶん合格している合格発表の前日に合格していない可能性を考えるのと、合格した後に合格していなかった可能性を考えるのが違うように、かなり重要なファクターだ(この例と違って、先述の例では実際には被災者ではないことが本当は分かっているのだが、そこからあえて時間を遡るというか、そこに目隠しカバーを付けるような感覚で思考する)。
また、「おそらく被災者ではないかもしれないが、被災者であるかもしれない」捉え方に基づくアウトプットは、「他の人の立場に立って」考えたことに基づくアウトプットと質が明確に違うという意識もある。わざわざ「自分事化」などと仰々しく言う必要もなく、当たり前に当事者性があるからである。このあたり、量子の重ね合わせの考え方とか、フーコーの考え方とかにものすごく近いが、それらの考え方を無理やりインストールしているのではなく、自分自身の直感的な意識を表すものとしてそれらがしっくりくるという感じがする。
話が少し逸れるが、自分が好きな13月という概念についても近いものがある。12月までしかない暦の体系を受け入れた時点で、13月を見つけられる可能性は絶たれる。どのような暦の上に生きているかという問いへの答えを留保して可能性を模索していければ、13月は見つかるかもしれない。
SS! Reflection
「外側」を想像することの難しさ
去年学園祭で作品を作る際に、そこにいる観客のためだけではなくて、あくまでも病院のベッドにいる人に対しても作らなければならない、ということを考えていた。そもそも、そういう華やかなイベントに来るということを日々の予定の選択肢に入れることすら叶わない人たちというものが、世の中にはたくさんいる(当たり前だが、それは決してかわいそうな存在というわけではない)。そういうところへの意識を持たなければ、祭というのは、自他境界をあいまいにして合一の意識を生んでいくものから乖離して、誰かと誰かの間に線引きをするものになってしまう。それは祭の姿としては全く持って正しくない。
話を変えると、例えば特定の属性をもっているがゆえに大きなサークルの中での活動に不安があって、多数者の専制が恐ろしくて、関わりたくても入る選択肢を最初から外させる得なかった人たちというのはいるはずだ(セクマイの当事者サークルで聞く話は「あのサークルはノンケ感が強いよね」とかで、そういうニュアンスがある)。だから、現状のサークルに在籍できている人が、自らの視点だけで、より多くの人を包摂する動きの必要性を判断しようとすると確実に見誤る。かなり酷く生存者バイアスがかかっている。特別な対応がなくても在籍できたり、在籍を継続できたりした人間は、まぎれもなく特権的な立場にある。そういう人間が、本来の組織のポテンシャルがもっとあるはずだと考えて、「いま・ここにいないあなた」の立場から、もっと外を、もっと外を……というように考えていかないといけないように思う。
生活
5時起床→すき家で朝定食を食べる→映画館でミッション・インポッシブルを観る→久しぶりにGEOに行ったら何屋か分からなくなってて困惑する→行ったことのない中華屋でラーメンを食べてみる→カルディでお買い物→コメダ珈琲でかき氷を食べる→一人カラオケ→家に帰って気絶(38歳男性の休日)
https://x.com/ronanyo/status/1927003688326881331
良い休日だ。
午前中にやったこと
・エレベーターに挟まれる
https://x.com/whalesantaro/status/1927567455376839036
・大慌てゴミ捨て
・お客様からチャットで❤️を貰い浮かれる
・「ボールプール 大人も入れる」で検索
・紅茶でやけど
とても良い。それでいいのだ、という精神。
自己開示
自分の孤独感が生まれる原因は自己開示の少なさに起因すると自分は気付いている。とはいえスティグマのある社会では、自己開示が「社会的排除」を生むリスクがあるので、自分は人からわかってもらえないという主観的な孤独は癒えないまま残る。
https://x.com/naoto_psycho/status/1925191404952891534
自分はこのラインなら人から受け入れてもらいやすいだろうという範囲でしか人に自分のことを話さない癖がついている。相手からすると、自己開示を全くしない人に見えないだろうけど、自分の中では結局自己開示をしないんよね。
https://x.com/naoto_psycho/status/1925191941010161916
予定調和
ChatGPTを恋人モードに調整していく〈癒し〉も、コスパタイパで計算してしまう〈合理主義〉も、一種の自己疎外になっていく。それは個人として生きていくなかで不可避な齟齬、想定外もしくは失敗といった出来事がたんなるストレスフルな汚物でしかなくなって、思考階梯を一段上げる契機でなくなること
https://x.com/nakashima001/status/1925389694839525522
例のはてブからChat GPTへの警鐘みたいなものが声高に叫ばれるようになった。ところで、例のはてブの人は、もはや「外に出る勇気」もないような、死の瀬戸際にいるのだと思う。
そういう人に必要なのは、まずケアだろう。ケアっていうのはすなわち、圧倒的な「自己肯定」なんじゃないか。
というか、従来のカウンセリングも、カウンセラーは「否定せず、ただ聞いてくれる」っていうことに意味があった。つまり、「ほとんど自分と同一の存在として、自己を肯定してくれる」ってことだと思う。
クライアントは、何度もカウンセラーと話すことで、そのうち心のなかに「カウンセラーならこういうときこう考えるであろう」というモデルが生まれる。
そのときはじめて、カウンセリングから卒業できる。AIに依存するじゃん、という言葉があるのは分かるけど、カウンセリングや占いへの依存だって前からあったよね。人間はずっと同じことやってるよ。心が出血多量で死にかけているとき、自分を全く否定しない、アメリカ仕込みのポジティブで優しい思考をかけてくれる存在が、月4,000円もしないで手に入ることへの「嬉しさ」が切り捨てられている。それは私たち人間がこれまでどんなに頑張っても提供できなかったことじゃん。
生きたい貧乏人が救いを求めることに対して「危ない」みたいな言葉だけでバサッと捨象していいのかなあ、と思う。
https://x.com/morisae92/status/1925689897328775416
生きるために
これ、すごく理にかなった「生きる力」だよ。昭和生まれや戦争経験者は「へこむ係」と「片付けてから悲しむ係」ってのをよく分担していると感じることがあった。
https://x.com/p57iE7DKPnoQZc2/status/1926171838276673947
祖父が亡くなったとき、お骨を待つあいだ軽食でも…とメニュー持って聞いて回ったが親戚一同飲み物しか頼まなかった。あとで→
しんどくなりそうと思って、みんながつまめるようにサンドイッチの大皿を頼んで 最後に「ばあちゃんは?なに飲みたい」と聞いたら「カツ丼大盛り」と言って米1粒も残さずぺろりと食べた祖母。普段は食が細くヨーグルトしか食べない人なのに。
https://x.com/p57iE7DKPnoQZc2/status/1926173116843057286
祖母は長年連れ添った人の「お骨」に対峙するため食べた→
それからしばらく祖母はキビキビ働いてよく食べた。それまでは私の夫を野球選手と間違えてサインをねだったり、家の中の移動も付き添いが必要だったのに しっかと台所に立って 豆腐を賽の目に切って味噌汁に入れながら戦争の話などをしていた。
https://x.com/p57iE7DKPnoQZc2/status/1926174116672856240
四十九日の納骨では 坂の多い墓所を先頭をきって→
登っていった祖母だったが、納骨が済むと 父に「のんちゃんだっこして」と幼児のように甘えた。そのあと飼っていた鳥を逃がしてしまい、寝込んで 1年も経たず亡くなった。
https://x.com/p57iE7DKPnoQZc2/status/1926174926114889903
私はあの時鳥を逃がしたのはわざとじゃないかと思うし、夫がいなくなったらカツ丼を食う、という愛し方もあるのだと学んだ。
憎しみ
デカルトが言ってたことで結構好きなの、「憎しみをずっと抱いてると人は弱くなる」というもの、理由は割と単純で憎しみは身体に悪い。
https://x.com/Sz73B/status/1926571106921480489
SS! Society
留学生
トランプやヴァンスが大学を敵視する理由(あるいは大学敵視が権力獲得に寄与すると考える理由)がよくわからなかったが、サンデルの『実力も運のうち』をたまたま読んだらその辺について割と直球な回答があったのでオヌヌメ
https://x.com/OKB1917/status/1925923431633027267
このリプライでgrokに「その直球な回答とは何ですか?」と聞いているユーザーがいて笑ってしまった。そういうところでは……。
自己責任論の範囲
自己責任論という言葉があるが、
何を「意図的に/努力によって」変えられるとみなすかは単に人によって異なるだけのようにも思える。収入や社会的地位は本人の努力だけではなく社会的構造によるものとみなす人が、
https://x.com/EriHirakawa/status/1928109992160416147
例えば差別的発言やハラスメントについては留保の余地なく一発NGであったりする。
でも、ポジティブな事項(学力/健康/収入など)が生まれ育ちや遺伝的影響による物が大きい(=だからこそ社会全体での分かち合いが大事)とするなら、問題行動や発言も同様に考えられていいはずなのだけど。
https://x.com/EriHirakawa/status/1928110477780926566
これは非常に分かる。私刑が恐ろしいのは、刑罰の重さに恣意性があるというのもそうだが、あまりにも「その一点」しか考慮されないことにもある。それまでの過程とか、そこに追い込まれた大きな構造とか、そういった全体に意識が行かない。そうなっていくと、本当に綺麗な環境で育った人間があまりにも優位すぎるのではないかと思ってしまう。
学歴
仮に「東大卒」の研究の続編ができるとしたら、真っ先に研究対象にしたいのは、東大学部生(とくに低学年)に一定数見かけるこういうタイプ。どうしてここまで「学校歴至上主義」を拗らせるのか。いつか治る日が来るのか。それともずっとこのままで社会に害を及ぼし続け、本人の「予後」もよくないのか。
https://x.com/chihiro_soe/status/1927703882076930247
これも構造の問題でしょうと思ってしまう。受験産業は言うまでもなく、その人を学校名でしか見ないような周りの人間の視線がそういう価値観を過度に内面化した人間を生んでしまうのだろうと思う。
マジで東大と無縁の人に東大開示したら自分のアイデンティティが全て東大のステレオタイプにすりかわってしまうので開示しない方がいい
https://x.com/teyka_4th/status/1928044413122662876
SS! Culture
『君たちはどう生きるか』と『JOHNNYS’ World』
『君たちはどう生きるか』を見たときに、映画『少年たち』を見た時と似たような、これで本当に最後なんだろうという感覚になったような記憶があるのだけれど、それはある程度本当なのだと思う。
君たちはどう生きるかを観たのだけど、とてもジャニワだった。キャリア終盤に集大成的に作られた作品という点でも同じだし、自分にとってSHOWとは何だったのか、自分にとってアニメーションとは何だったのか、という回顧・懺悔の側面が強いところも、セルフオマージュが多用されているところも似ていた
https://x.com/w_z_m_k/status/1682592429927706624
深く話すとネタバレになってしまうのだけど、大叔父様の最期とプロデューサーの最期も、その世界に迷い込んだ主人公がした選択が奇しくも同じなのよね。取り憑かれたようにエンタメを創造してきた人間はみな同じような境地に至るのかも知れない。諦念と懺悔と呪いからの解放
https://x.com/w_z_m_k/status/1682596457650720768
『無名の人生』
旧ジャニーズ事務所の問題を取り上げているとのことだったので観に行った。
良かった点
- そこまで露悪的にならずにジャニーズ事務所のことを描けていた。男のアイドルを推す男が「みんなからはいろいろ言われるけど、別にいいだろ」みたいな趣旨のことを言っていて、急にリアリティが出たなと思ったら監督本人の経験が反映されているよう。セクシャリティ的な部分をもう少し掘り下げても良かったのではと思ったけれど難しいのかな。
- ジャニー喜多川という人間のカリスマ性を見せておいて、その後に底知れぬ不気味さ、無言の圧みたいなものを観客に追体験させる方法はかなり上手いと感じた。
- 途中からSF作品のようになって予測できない展開に戸惑わせつつも、置いてけぼりによる不快感はなく、観客に爽快感を残す形にまとめあげていた。やりすぎなぐらい。
- 「家族」という言葉を繰り返し呪いの言葉として使用していた。終盤、戦争が起こって逃避した人々が疑似家族を形成していくところでのみ肯定的だったのかな?
- 「血なんて液体で、それはポカリと同じじゃん」みたいなセリフが強く印象に残っている。ここでも血縁の相対化が徹底されていてよかった。
- 時期的に偶然なのかもしれないが、テレビ番組制作における性加害疑惑みたいなものを取り上げていた点は良かった。芸能事務所での加害からの連鎖というニュアンスがあった。
- 一昔前のステレオタイプ的な男性アイドルのファン像(おそらくジュニアのファンの設定)を提示していたが、それに対してアイドル側が比較的好意的な反応をする描写があったのが良かった。裏では邪魔に思ってるみたいな安易な描写に傾いておらず、ちょうどその直前に描写された性加害の痛みとは裏腹に支えになるものというポジションにファンを置いているという善意ある書き方をしていたため。
- 「本当の名前を呼ばれない」というテーマが、現在ジャニー喜多川の名前が公的に呼ばれず、被害を告発した人々が実名を出した意味とも重なるものだった。
- 壊れたテレビというモチーフが冒頭に出て来るのが良かった。社会からの断絶感というか。劇中に出て来るアイドルもホストも心霊スポットも、どこか一般社会から隔絶されている存在で、周縁にあるものだと思うので。

- 自分はうまく読み取れなかったのだけれど、下のようなことを言っている人がいてなるほどなぁと思った。この要素は確かにあるし、だとしたら「平和の人」として表象されたジャニー喜多川に対するクリティカルな批判ができているような気がする。
ジャニー喜多川性加害問題と戦争は根っこのところでつながっている。それだけ言うと意味がわからないと思うし、映画『無名の人生』は意味のわからない超展開が何度も繰り返されるけど、なんとなく意味がわかるから面白い。
https://note.com/nabewata_lit/n/n6633a19d639d
気になった点
- 直接的ではないとはいえ性加害の描写があることへのエクスキューズを入れるべきだったのではないか。
- 劇中の描き方を見るにおそらく監督はSMAPのファンで、その点ジャニー喜多川に対して心理的距離がかなりあるため、世間の側に立った描写が可能なのかもしれないと思わされる部分があった。しかし、インタビュー等で監督が男性アイドルのファンであることを公言しているために、そのあたりのディテールをやや批判しづらくなっているように感じる。
- 展開の早さでぼかしてはいたものの、セリフで説明してしまう部分がところどころ気になった。とりわけジャニー喜多川をイメージしたであろうキャラクターに、醜悪なアイドル事務所が考えていそうなこと(「タレントは鳥かごの中にいる」という趣旨)を読ませるような部分は少々不用意だったように思う。タレントが鳥かごの中にいるイメージ図も、SMAPの『真夏の脱獄者』的で、ジャニー喜多川とメリー喜多川への批判が混ざっているように感じた。
- ジャニー喜多川をイメージしたキャラクターを殴るシーンについては、単純な成敗というか、観客の溜飲を下げるような演出になってしまっていて、あまり好意的に受け取れなかった。
I Need To Be In Love
良い歌だ。
運命の人に出会うものと
信じてきたのだけど
別ればかりのこの世の中で
もう会っていたのかもね「何の約束もしないわよ」と
繰り返した私に
あの人は別れを告げた
わがままの報いね愛が欲しかったの
今ようやく分かった
叶うはずのないことまでも
叶うと思ってた善き人であろうとしてるけど
今夜は気が晴れない
午前4時にたった一人で
希望にすがってる愛が欲しかったの
今ようやく分かった
叶うはずのないことまでも
叶うと思ってた愛が欲しかったの
https://note.com/bonakuragxo/n/nb42523ec624f
今ようやく分かった
叶うはずのないことまでも
叶うと思ってた
日常
今までは、「すきなひと=特別」だったので全てにおいて日常とすきなひとを切り離して考えていたのだけれど、ここ最近はすきなひとが日常に溶け込んでいる感覚がしてとてもとても、うれしい。ちゃんと「わたし」が彼らをすきなのだと実感できる感覚、うれしい。
https://x.com/_m3i9/status/1927021926125371576
なるほどと思った。日常性という視点で考えてみると自分のアイドルへの向き合い方が分析できるような気がした。露悪的な表現かもしれないが、自分はお互いにとって都合の良い役を短時間だけやりきる商業的な関係性としてのアイドル―ファンの関係がすごく楽である。コンサートや特典会といった非日常の場では完璧なアイドル、完璧なファンをやる。後は別になんでもいい。日常では相手のことを悪く言ったり、消費したりしてもいい。それでよいじゃないかと思ってしまう。
でも、通常の人間関係、とりわけ恋人のような関係ではそうもいかないだろう。とんでもなく疲れているときも顔を合わせなければいけない時がある。そうなった時に自分は限界をきたす気がする、というか実際に限界をきたしてしまう。好きな人が日常に溶け込んでいる感覚は確かに素晴らしいのだけれど、自分にはどうしてもそれができないなと思ってしまう。日常というのは、「正しい役を演じていない」自分の居場所だから。
自衛隊
見ているアイドルが陸上自衛隊の役で番組に出るらしい。現状の自衛隊について特別悪い感情があるわけではないのだが、こういった形でアイドルと結びつけられていくのは結構怖い。今回の特集は自然災害の救援の話のようだが、それでも事実上の軍人を無邪気にかっこいいと言わせていいものではない気がする。こういうのってどういう経緯で出演が決まるんだろうか。こういうのを蹴る事務所もあるのだろうか……。

ジャニー喜多川関連
喜多川氏の死去直後、2日間で放送されたNHKと民放キー局の夜のニュース・報道番組を対象とし、「内容分析」の手法で量的に放送内容を整理した。そのうえで、質的な「フレーム分析」の手法で、番組が喜多川氏を描いた複数の切り口(フレーム)を導いた。
https://www.nhk.or.jp/bunken/d/research/domestic/BUNA0000010750050004/
調査が出て来るようになった。俗に「キャンセルカルチャー」と呼ばれるような動きに対して、そこまで批判的な見方はしてこなかった(むしろ必要なこととみなしてきた部分がある)のだが、正直ここ1カ月ぐらいになって、その波に明確にスタンスを示すのはやめようと思うようになってきた。その波はもう、人を殺し得るところまで来ているような気がする。
ただ、そもそも「キャンセルカルチャー」という言葉自体が批判者側からの見方に基づく言葉であり鍵括弧を外して使いづらい(ニュートラルに”それ”を指す言葉が作られてほしい)ことからもわかる通り、こういう姿勢はともすれば「行き過ぎたポリコレは……」といった浅はかなネット世論と肩を並べるようなものになってしまう。中庸にものを考える意識を持っていたはずが、気づけば使い古された”woke”批判、リベラル批判を唱え続けるだけになってしまった人間なんて山ほどいる。そういう方向性には陥りたくない。本当に難しいところだと思う。
ニチアサとBL
ニチアサに出ていた俳優がBLドラマに出演すると、毎度のことながら論争が起きる。「BL」というジャンルは正直何も言っていないというか、ただ男性同士の恋愛を描いた作品ということでしかないのだが、(内実を知らない人によって)いろいろなニュアンスが追加でのせられがちである。Webサイト「ちるちる」をはじめとした一部のBL愛好者(?)側もこの古いイメージを再生産しているような節がある。「クィア作品」みたいな、余計な要素のついてこないジャンル名を開拓すればこの手の不幸はある程度和らぐのでは。
“子供向けの番組に出てる最中なのにBLドラマに出るなんて”だとか”子供が目にする可能性あるのにありえない”などの言説、ほんまに腹立たしいな。
https://x.com/zapple_zapple_/status/1927731535752331313
それヘテロのラブドラマだったら言ってますか?という感じである。自問して己のBL&ホモフォビアと向き合ってみたらいかがでしょうか……
BLドラマに出演するだけで、俳優本人にこんな意味不明なホモフォビア引用つけてる人を見てしまいショック! 仮面ライダー演じながらBLドラマ出演したら何がいけないのか意味不明。子どもをダシに使うな。「BL苦手」言ってる時点で同性愛差別してんだよ
https://x.com/s_4_tune/status/1927741088183271718
そもそも特撮のキャストの中にも見ている子供の中にも性的マイノリティ当事者が居るかもしれないという可能性が最初から排除されていてそこがそもそも本来おかしいことで、あなたのセクシュアリティに基づく差別意識は誰をかばおうとしていますか?
https://x.com/yh801/status/1927763678515908974
よほど積極的限定的に情報を取りに行かないと目にせず数も少ないBLドラマの性的表現の宣伝サムネより、子どもが日常的にTVより触れることが多いYouTubeやそれを含むSNSに膨大かつ当たり前に流れてくる異性愛規範と異性愛の下ネタと差別煽動とミソジニーの刷り込みの方が圧倒的に深刻。
https://x.com/sabon_b_l/status/1927894161555939768
確かにと思った。ある程度BL側にも「非」があるというか、なんというか大衆受けを捨ててる作品も結構あるので、あんまり強くは怒れないなと思っていたのだが、確かに異性愛規範の強さの方が優先的な問題で、その怒りはひっこめるべきではないなと思った。
最近思ってるのは、(政治的)正しくなさを打破するために政治的に正しい方法を選択するのは可能なのか、という問題である。たとえばキャンセルカルチャーという運動形態は、個人的には政治的に正しい方法だとは全く思わない。また新しい権力勾配を生んでしまうように思う。だから、それをあたかもすごく正しいことのように語られてしまうと違和感がある。どちらかというと、その正しくなさがないとどうしようもないのだ、という角度から必要性を語ってほしい。でも、正しくなさは正しくなさによってしか制せないというところにあぐらをかいた瞬間に、学生運動の失敗が繰り返されるのかもしれないという危惧はある。先の大戦における加害責任に「きちんと」向き合うことは、暴力革命というまったく正しくない方法以外でもできたのではないかという可能性へのまなざしが少しでもあれば、もう少しは大衆に受け入れられる活動であったように思わなくはない。
写ルンです
【📸】「写ルンです」で撮った写真、スマホで受け取れるんです! アプリ提供開始
https://news.livedoor.com/article/detail/28845885/一部店舗を除く全国のセブンイレブンとファミリーマートに写ルンですを持ち込んでフィルムの現像を注文すると、画像データをアプリで受け取ることができる。料金は税込み2420円。
https://x.com/livedoornews/status/1927719005952872591
これは面白い取り組みだと思った。現像を出しに行ってまた受け取りに行くのが面倒、だからといってフィルムアプリで済ませるほどニセモノでいいとは思ってない、という微細ながらしっかりしたボリュームゾーンに刺している感じが。ただ、フィルム愛好者からの批判があってなるほどなと。
推し活
推し活という言葉自体、かなり外からのラベリングというか自分で実感をもって使える言葉ではまったくもってないのだが、面白い考え方があったので。
「推しは推せるうちに推せ」という言説 では故人は推せないのかという話になるわけだけども、これが示しているのは、いわゆる“推し活”というのは、対象やそのファン仲間との共時性のある繋がり、“供給”を通じたライブ感覚とかいったものに重点が置かれているのだということ
https://x.com/kirie_folklore/status/1927011902716063929
ニーハオ、おいしい東京日和。
良い作品だった。
ごはんを通して東京の普段の日常が既に多様なものであることを静かなトーンで描いていてすごく良い
『ニーハオ、おいしい東京日和。/ZON』-1.入管と包子-
https://to-ti.in/story/nihao_1#トーチweb
https://x.com/cement_thing/status/1925462325026595124
#ニーハオおいしい東京日和
ファン教育
STARTO ENTERTAINMENTのACEesのライブで、スマホを操作してたり座ってたりする観客にメンバーが苦言を呈したところ大炎上というわけのわからない問題が。
萎えるじゃなくてスマホいじってる人がいなくなるように頑張ります!とか最速100万回再生の件だったらライバル心むき出しにして負けてられないっていうんじゃなくて何万回みても素敵なはずなので100万回早くいきたいな!とかでいいのになんでそういう言い方しちゃうんだろ。
https://x.com/pi_hosskm/status/1925391284522688820
MUSIC AWARDS JAPAN
短期集中連載の第3回は、授賞式の総合演出、そして出演アーティストのブッキングも担当するテレビ朝日の利根川広毅氏にインタビュー。第1回目となるMAJはNHKで放送されるにもかかわらず、テレビ朝日の社員が担当するというのは稀有(けう)なことだ。
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/01063/00012/?n_cid=nbpnxr_twbn
オープニングショー(MIKIKO演出)が素晴らしかった。
星野源と広告
バーグハンバーグバーグが手掛けた広告について。
星野源の広告が地域の掲示板に貼られてるの、普通にローカルに大資本-広告代理店が侵入してくる最悪の入り口になりそうで嫌すぎる
https://x.com/mjqag/status/1925144348238487975
これを星野源アンチだと読む人さすがに大丈夫か、俺は〝広告戦略〟の〝批判〟をしているんですけど⋯⋯
https://x.com/mjqag/status/1925423618399641677
星野源の町の広告について「ハーバーマスの生活世界の植民地化」という話があり調べてた。私達の生活世界が企業や行政の手で置き換わっていくとき、対抗するのは公共圏の話し合いだとハーバーマスは言ったという(印象、ざっくり)。あ、それで杉並区長はみんなで政治を話し合おうと言ってたのかと納得
https://x.com/ohkitashigeto/status/1925724323857179020
うーん、景観を汚さない広告でもあると思ったがこういう捉え方もあるのか。
https://x.com/motamota205/status/1925507374229647507
地域住民にはまさか広告だとは思ってもみないものが貼られてたって状況だもんな。
前に話題になってたヤマトの不在票に似せた広告と近いものがあるのかもしれない。
自分も景観を汚さない文脈で当初好意的に捉えていた。ただ、言われてみれば確かに危険な部分もあるなと思っていた(景観を汚さないという方向性ならば、あえて新宿の大スクリーンに景色と埋没するような広告を打ってみたりすればよかったのでは?という話な気がする)ところ、さらに話が入り組んできた。
星野源にもBHBにも、比較的好感度が高いからなのかもしれないけど、この広告が批判されているのが全くピンときていない。
https://x.com/Mammet_QaraQul/status/1925723928003014907
巨大資本がローカルコミュニティを侵食する、という理屈はわからなくもないけど、なんというかその解釈は凄く現代美術的なメタフォリカルな発想過ぎやしないかと感じてしまう。
思いました。星野源とバーグハンバーグバーグの広告でキレてる人、ほんっっっとうに小賢しいですね。
戸越銀座に星野源とバーグハンバーグバーグの「町内会のイベント告知ポスター風」に「侵犯される市民のナラティブ」とか言ってキレられる生活があることが、いかに豊かで、特権的で、暇だと理解していない。まず戸越銀座にナラティブありますかね?
住んでる人には悪いけど、特集することがなくなったバラエティ番組にほっこり感を収奪され続けた、もう「オールウェイズ3丁目の夕日」みたいになっている土地じゃないですか。もはや立地のいい保護公園みたいなもんじゃん。というか、思うんだけど、星野源(サブカル)とバーグハンバーグバーグ(インターネット)が普通の人(メジャー)にまで浸透したことに対して「私は昔から知っていたのに市民権を得やがって」っていう気持ちがまったくないとは言えないんじゃないですか?
その普通になってしまい、毒気の抜けた彼らの行動を追って、普通になっているわりに倫理観が希薄だと指摘したいだけなのでは。
普通になるなら、アップデートしろよ、とあたかもリベラルな面構えでいたいから言ってるけど、それマジでめちゃくちゃ小賢しいだけだろ。歪んでるでしょう。
根本にあるのはただの嫉妬みたいなものなんじゃないですかね?最近マジでムカつくのは、アレですね、東京のクソガキが「ノーカルチャーが」とか「郊外」とか「散歩」とか、「消費行動」とか言ってるの、マジでウザい。32歳にもなって、人間を殺したくなるとは思わなかった。
「散歩」は許してあげたいけど、無理だね。作られた緑地帯をうろうろするんじゃねえ!!!!殺すぞ!!!!!!アインズトルペしかない土地(わたしの地元)で生きてみてほしいね。わたしに殺される前に死ぬと思いますよ。退屈すぎて。
キレ方が90年代なんだよなわたしは。
https://note.com/sayopoyo/n/ndaf3b769dcdb
とにかくムカつくね、星野源とバーグハンバーグバーグにキレてる人。
おぼろげに文化を享受しているくせに、他人には強気すぎる。
都会で生きて、同じような平均以上の学歴の人たちと交流しているからそういうおかしいことになってるんじゃないですか?
本当に、こういうコンプレックスを抱えてやってきた種類の田舎者に特有の、その穴埋めのためだけにローカリティやリアルを、自分の消費のために作られた勝手なイメージで上塗りしてはお構いなしに踏みつけていくさまの 無礼さ 消費への躊躇のなさ 本当にイヤらしくて大っ嫌いだ。
https://x.com/ore_aiko_2LDK/status/1925894613857870324
確かにそれはあるかもしれない。ローカルというものに対するパターナリズムというか。
この問題はこの問題として、星野源についてはいろいろな喧嘩が起きすぎている。バーグハンバーグバーグもそうなのだが、もうすでにメジャーとしての力を持っているのにカウンター側にいる意識だけが残ってる状態の危うさみたいなのは感じる。ただ、メジャーに伴ってくる暴力性を持ちたくて持ってるわけではないのに、カウンターの顔をするなと言うのもまた暴力なのではという気もする。
星野源の広告に対して、苦言を呈したり、物申したくなったりしたみなさん。よかったら、どうか、このインタビューで彼が発した「ずっと地獄にいるような感覚」についての話を読んでみてください。
https://x.com/shiba710/status/1925930269611028670
https://www.gqjapan.jp/article/20250522-gen-hoshino-hype
こういうのを持ち出して批判を封じ込めようとするのは醜悪で、それはそれ/これはこれでしかないと思うが、その地獄感みたいなことは分からなくはない。
世の中がどんどん酷くなっていくのはそうなんですが、その世の中に居る全員から『死ね』って言われている感じです。こっちは何もしてないけれど、どんどん攻撃されていくような感じがある。前はなんとか頑張って希望を見出したり、何か抜け道が、前向きになる道があるんじゃないかと思っていた。生まれた最初の頃からどこか余所者感があったんです。自分の居る場所にずっと疎外感があったんですね。音楽を作ることでその距離が縮められるんじゃないか、自分が居てもいい場所を作れるんじゃないか、そういうコミュニケーションが取れるんじゃないかと思ってずっとやってたんですけれど、いくらいろいろな方法を試しても変わらないですね。自分が居ていい場所はないとわかりました
https://www.gqjapan.jp/article/20250522-gen-hoshino-hype
あと、社会的成功と個人の幸せ・不幸せをほぼイコールのものとしてみる動きって何なんだろうか、と思う。そうしてしまったほうが気持ちが楽なのかもしれないけど、そんな簡単なもんじゃないだろうにと思ってしまう。
星野源には星野源の孤独や苦悩があるのは理解するけどあのレベルで公私ともに成功している人間に何のエクスキューズもなく「居場所がない」などと言われるとそれでは私のような一般人なんてさらに居場所がないだろうという気持ちにもなる
https://x.com/qcuekew/status/1926105844153774547
宇多田ヒカル氏がやられてたストローマン論法やん
https://x.com/wingsmoon/status/1926516846292844862
源さんは源さんの話をしているのであって、それを他人に理解しろとも言っていないし、一個人と比べられて俺よりマシだろと言われる筋合いは無いのでは
ジークアクス
観たいが観れていない。面白い批評をいくつか。
こんな「前提」が大量にある。本当だったらもうちょっとバックグラウンドを描写する必要があるものをバッサリ捨てて事実だけがドンと出てくる。敢えて描写をしないのは外部の知識や文脈を借りることで短い話数で全部を描き切るための圧縮という理由もあるだろうけど、それ以上に情報を食っている感覚、原典と照合させるクイズへの誘導を感じてしまう。
https://note.com/hito_horobe/n/n4eb8508bfdae
記号探しゲームはSNSと相性がいい。しかし今回見たように、映像と音楽がなめらかな流体的イメージによって繋ぎ合わされる「ポスト・ボカロ」時代の最先端の結晶として『ジークアクス』という作品を捉えることもできるのだ。ぜひSNSの情報に溺れすぎずに、映像と音楽のめくるめくシンクロに身を任せる楽しみ方も浸透すればいいなと思う。というより、そのどちらの楽しみ方もできるところこそが本作の魅力であり、「ロボットアニメ」の現代的な形を更新する本作のチャレンジでもあると思うのだ。
https://note.com/sr_ktd/n/n826655af9e3b
尾道
中華雑誌『BEE』での本島純政特集。瀬戸内国際芸術祭に行きたくなる写真。とても良い。
コインランドリーとクィア
一部で使ってたアイコンをコインランドリー背景のものに変えた。深夜帯に近所のコインランドリー数軒を周って撮影したもの。
コインランドリーというのはクィアなイメージと結びつけられやすい。近年では『みなと商事コインランドリー』も『愛の口喧嘩』もそう。古くは『マイ・ビューティフル・ランドレット』に遡れるよう。
単一のアイデンティティに自分を収斂させていくようなことはしたくないが、この「浮いている感」「通じていない感」のようなものを表す言葉は欲しい、という意味で、クィアという言葉はかなり好きだ。説明しすぎてはいないけれど何かあることは伝わるぐらいでちょうどよい。
高嶺の花子さん
あまりにも良かった。びっくり。
孤独な鳥の条件
星野源のインタビューで話題に挙がっていて、良いなと。
以下は、1990年にメキシコの詩人オクタヴィオ・パスがノーベル文学賞を受賞した際に、新聞夕刊に掲載された記事の中に引用されていた、中世スペインの詩人サン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架の聖ヨハネ)の詩である。琴線に触れるものがあり、この詩はずっと記憶に残っている。
https://www.plantdevbio.lif.kyoto-u.ac.jp/memb_araki_StJ.html
孤独な鳥の条件は五つ
一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ
二つ 孤独な鳥は仲間を求めない 同類をさえ求めない
三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける
四つ 孤独な鳥は決まった色を持たない
五つ 孤独な鳥は静かに歌う
ポッドキャスト
最近いくつかポッドキャストを聴くようになった。オモコロすぎるけれど……。