SS! Creation
短歌
今のところ、短歌は作れる時と作れない時の差が激しい。
題材を見つけてそのまま作るところまで一瞬で出来るものもあるし、推敲し続けてもしっくりこないものとがある。下の例で言えば、「早朝の歩き方って昼時に通じないけど英語は喋れる」はすぐにできたが、「夜想ってかっこよくない? 洗いざらい聞こうとしたから昼になった」は相当時間がかかっている。
- 夜想ってかっこよくない? 洗いざらい聞こうとしたから昼になった
- でも僕は星座を作るてつきだった 君はコップを磨いてればいい
- 早朝の歩き方って昼時に通じないけど英語は喋れる
- 2時半にプール飛び込み出禁らしい 嘲る僕らはただの豚だね
- 電灯が北西へ向かい電灯がたすきをつなぎはじめる時間
- 惜しまれて舞台を去ったトップスター・ポールを次に掴む乗客
- トップ画面〈混声合唱・夢の意味〉警報音はかき消せないけど
- 豚汁とカレーライスの中間点 補助線引けば生み出せますか
- 一畳半より狭いけど慣れた席 話していけば距離が開くから
- 祭終え歩くあなたの正面に歯医者帰りのあなたがいる
- 悪役は振り切ったほうが好まれる 延滞し続け2年のモバ充
- 夢なんて信じてないけど光ってるコインランドリー、目がまわっちゃう
- 待ち人がいるものたちの群れだから弁当のうえでもシャボンは舞える
- いまきみにYESというのは政治的かもしれないからかんがえとくわ
- きみ用の万年筆で書いてみたタスクリスト、消化が速い
コーナー分け
だんだん日記として書く内容の傾向がつかめてきたので、コーナー分けを行った。Creation・Reflection・Society・Cultureの4本立て。
SS! Reflection
語り方
最近は、パーソナリティに欠陥がある人と関わるのは大変だという(”ふつう”の人に寄り添った)捉え方と、パーソナリティに欠陥があるのは理由があってそれに向き合うべきだという(”特殊な”人に寄り添った)捉え方を行き来して、精神の安寧と、パーソナリティを修正せねばならんという適度な緊張感を保っているような気がする。
”ふつう”の人に寄り添った捉え方
メサコンとか過保護過干渉の親になってしまう原因ってここに繋がってる気がする。「誰かのお世話をしたい、救いたい」は、「もう無力感を味わいたくない、不安になりたくない」の裏返し。そんで過剰なお世話をして無力な人を量産する。他者を無力化することで、自分の過去の無力感を払拭するという恐ろしい行動を取ってしまう。突き詰めると「相手が無力になってでも自分は救われたい」。このエゴを自覚できればその人は変われる。幼少期の置かれた状況を理解して傷を癒せば脅迫的なメサコンからは解放される。と私は思ってる。
https://x.com/morning13562733/status/1924586643950076248
これはすごい分かる。自分のような思いをさせたくないというように射程範囲を広げているような言い方はするけれど、結局自分を救おうとしてるだけじゃんという時がある。
相手の境界線を尊重する意識が薄い人は、いつでも自分の気持ちを最優先に行動する。
「私はこう思った」「私は悪くない」「私は傷ついた」など、自分の感情を軸に世界を解釈し、相手の事情や立場を軽視しがち。また、他人の「NO」を受け取れない。
拒否や距離を「否定」や「攻撃」と受け取り、相手の意図を汲まずに逆上・逆恨みすることもある。そして、距離感が一方的。
親しみを「好意」や「同意」と取り違えて、無自覚に近づきすぎる。相手の態度に微細なサインが出ていても気づかないか、気づいても無視する。会話が対話にならない。
相手への応答ではなく自己展開に走る。他人の発言を“自分語り”の起点としてしか捉えられず、「話を聞く」より「話を奪う」コミュニケーションを繰り返す。
そこで、相手から境界線を引かれると被害者ムーブに転じる。ブロックや拒絶、違和感の指摘などに対して「急に切られた」「自分は何もしていない」と語り、共感を得ようとする。
それを何度も繰り返している。
なぜなら、自己正当化が早く、学ばないから。
「そんなつもりじゃなかった」「誤解された」と言い訳して、相手の不快感や違和感をなかったことにしようとする。さらに、相手と自分の関係性を「上下」や「役割」で捉える傾向もある。
対等なやり取りよりも、自分が主導権を持つ形に安心しやすく、「正しさ」や「導く立場」からの発言が多くなる。SNS上の発言だけでも、こうした傾向を持つ人は、どんなに立派なことを言っていても、実際には“相手を尊重する”という感覚が内面に育っていないんだと思う。
https://x.com/nbshm_/status/1924801391215980591
これはかなり心当たりがあってしんどさがある。
”特殊な”人に寄り添った捉え方
自己肯定感が低い人ほど「良い子だった」「ワガママ言わない子だった」「手のかからない子だった」「しっかりした子だった」という過去があります。「良い子」というのは、幼い心が必死に生み出した仮面。親の機嫌を損ねないように、期待に応えられるように「手のかからない子」として振る舞うことで、自分の存在価値を見出そうとしていたのかもしれません。
でも、そうやって本来の自分らしさや欲求を押し殺してきた結果、大人になってからも「自分がどう感じているのか」「自分が本当にやりたいことは何か」が分からなくなってしまうことが多いんです。感情が凍ってしまい、「これをやりたい」「あれは嫌だ」という素直な感情表現が難しくなり、いつも周りの顔色を伺いながら生きることになる。
私のところに相談に来る方でよく聞くのが、「自分が何をしたいのか分からなくなってしまった」という悩みです。幼い頃から「良い子」として評価されることに慣れすぎて、本当の自分の声が聞こえなくなってしまっている。「良い子」として評価される自分しか分からなくなってしまっていまる。
特に深刻なのは、この「良い子」の習慣が、大人になってからの人間関係にも大きく影響を与えることです。恋愛でも仕事でも、自分の気持ちよりも相手の期待に応えることを優先してしまい、知らず知らずのうちに心を疲弊させてしまう。自己犠牲でメンタルやられてしまう。自己犠牲が原因で極端な「こじらせ行動」に出ることも少なくありません。
でも理解しておいて欲しいのは、これは決して「あなたが悪い」わけではありません。そうやって周りに合わせることで必死に生きてきた幼い頃の自分を、優しく抱きしめてあげる必要があるんです。
https://x.com/Rkpb_R/status/1924427958330265806
「よく頑張ったね」「一生懸命だったね」「つらかったね」と、内なる子どもに声をかけてあげることから、癒しの一歩めは始まっていきます。
これの何が最悪かって、これだけ我慢してきたんだからそろそろ自分の意見通してもいいだろと思って言うと「今更何言ってるの?」「あなたらしくない(とっとと我慢するあなたに戻って)」って全く聞き入れてもらえないこと
https://x.com/konparu88/status/1924712012887818678
しかもそれ全部自分が招いた(周りを甘やかした)結果だというね
親にちゃんと大事にされなかった人は、「自分と他人のあいだ」に境界線を引くのが苦手。仲良くなろうとすれば、すぐに相手に合わせすぎて息苦しくなる。かといって距離をとれば、今度はひとりぼっちで押しつぶされそうになる。この「近すぎる」と「遠すぎる」のあいだで、ずっと揺れている。人と関わりたいのに、うまく関われない。それが“関係がしんどい人”の心の中で起きていること。
https://x.com/e98SnMZJchhlqjt/status/1924764225492419015
境界線が分からないまま人と関わると、「他人」と「自分」のあいだが曖昧になる。相手の顔色で自分の価値が決まるように感じたり、ちょっとした言葉で心が全部崩れたりする。でもこれは、あなたが弱いからじゃない。“安心して人と関われた経験”がなかっただけ。関係の中で苦しくなるのは、過去の傷がまだ痛んでいるから。
「相手の顔色で自分の価値が決まるように感じたり、ちょっとした言葉で心が全部崩れたりする」という感覚は本当に今苦しんでいるものなので、かなり刺さってしまった。
切れる縁は切れるし、繋がる縁は繋がります。追いすがる必要はありません。特に自己肯定感が低い人は「この人を手放してしまったら、もう二度と私のことを大切にしてくれる人なんて現れないんじゃないか」という不安から、相手に追いすがって、執着してしまいがちです。でもそういう考え方自体が、「私には価値がない」という無価値感から生まれているんです。
自分に価値がないと思い込んでいると、たとえ相手が雑に扱ってきても「こんな私でも受け入れてくれる人は貴重だから」と必死にしがみついてしまう。
でも、それは逆説的にますます自己否定を強めていくことになります。
https://x.com/ryuta726/status/1924795284208717877
これもすごい。「二度と私のことを大切にしてくれる人なんて現れないんじゃないか」という感覚は分かる。
メンタル乱れやすい人は「他人への関心が強すぎる」という共通点があります。期待すれば裏切られ、依存すれば振り回され、執着すれば深く傷つく。都合よく利用されて傷つけられるのは相手への関心が強すぎる人。親の過干渉や否定グセなどで、子供の頃から親の顔色伺いすぎた人に多い。大切なのは、「相手を大切にするけど、相手に無関心」というマインドセットなのです。
https://x.com/Rkpb_R/status/1924818808851902958
ACは、“依存心”がとても強い。依存心とは本来、子どもが親に向ける「察して、無条件に受け入れてほしい」という欲求。最もわがままで、でも最も切実な感情。ACはそれを心の奥にしまって生きている。でも「この人なら…」と感じた相手には、それが一気にあふれ出す。だから、パートナーへの要求がどんどん強くなる。当然、すべてを満たすことはできない。そこで“敵意”が生まれる。好きなのに、ムカつく。求めてるのに、傷つける。わかってほしいのに、怒りが湧く――こうして一番信頼した人を憎んでしまう、地獄のループが始まるんだ。
https://x.com/renren_acx/status/1924435104929337579
なんか救われる気がする投稿
たまたま流れてきただけなのだけれど、なんかいいなと思ってしまった。良いやんそれで、という。
自他境界
自他境界をはっきりさせるのは近代社会の人間の理想像で、そうあるべきという規範は今でも非常に強いんだけども、この状態は人間を不安にさせるものであって、ずっとその状態にいるのもあんまり良くなくて何らかの祝祭や儀式的行為であえて自他境界を崩すタイミングを入れた方が健康的らしい。
https://x.com/Sz73B/status/1922309102014722201
このストレスに潰されるせいなのか、飲酒や薬物による酩酊でもって化学的に自他境界を無理やり壊そうとする衝動が世界中に溢れかえってるくらいには自他境界を明確にする状態で長期間過ごすことが人間に与えるストレスは深刻っぽい。
https://x.com/Sz73B/status/1922309575992090804
これを見て、自他境界を曖昧に考えやすい自分の根源的な性格と、自他境界をあいまいにする祭を追い求めてきたことに関連性を見出すナラティブみたいなものが生まれた気がした。
透明な存在
他者からの愛を感じない人は、なぜか自分が「透明」だと感じるっぽいよな。中世ヨーロッパで流行った「ガラス妄想」ってやつもこの要素があるんじゃないかな。
https://x.com/cicada3301_kig/status/1922561847292514806
結局は境界性パーソナリティ障害の「空虚感」と評されるアレに思えるな
https://x.com/cicada3301_kig/status/1922559651255615502
育児放棄された子どもたちを取り上げた広告でそういうのがあったのを思い出した。
壁に張り付けられた謎のマネキン
▶︎ Case|Australian Childhood Foundationオーストラリア児童基金が実施した衝撃的な屋外施策。育児放棄された子どもは自分の存在をまるで“透明人間”のように感じる傾向があるようで、この施策では子供型のマネキンを張り紙の下に設置することでその心理を視覚化しています。
マネキンが剥がされると、下にはこう書いてあります。
Thank you for seeing me.
https://note.com/inspi_com/n/n2c8bf5bd11d3#RS2Dx
(見つけてくれて、ありがとう)
少年A事件の「透明な存在」という言葉とかまさにこれに類する感覚を捉えたもののように思う。人から承認を受けることで初めて得られる輪郭がない、ということ。
SS! Society
反転
今回、企画に参加してくれるシスヘテロ当事者は、男性29%、女性71%と女性の割合が多い結果となった。年齢・職業・性別に偏りがないよう考慮したうえで、6人の当事者に取材を実施している。
質問は以下の5つ。いずれも、セクシュアルマイノリティーが日常で聞かれることの多い問いかけを用意した。
シスヘテロだと思ったきっかけは?
https://www.timeout.jp/tokyo/ja/lgbt/talk-about-sex-5-1
カミングアウトはしましたか?
シスヘテロとして生きづらさを感じたことはありますか?
シスヘテロとして感じられる幸せはありますか?
今後どのような社会を願っていますか?
少数者にだけ投げかけられやすい質問を多数者に反転して聞いてみるのおもしろいと思った。
外来種
外来種と移民をなぞらえた投稿が議論を呼んでいる。もちろんその投稿の趣旨には同調できないのだが、自分には生物学的なことを交えてそれっぽく言われてしまうと信じてしまいかける部分があるようにも思う。理屈としてどう違うのかを心から納得しないと、引っかかってしまう気がする。
なので、下の投稿はあんまりよく分からない。ヘイトスピーチは良くないのだが、「人間に当てはめてはいけないのは、まさにこうしたヘイトスピーチに繋がってしまうから」というのはちょっと弱い気がする。「当てはめられない」理由をもっと明確にするべき。
外来種問題を人間に当てはめてはいけないのは、まさにこうしたヘイトスピーチに繋がってしまうから。またこのイラストは外来種問題の捉え方としても誤っています。在来生物が望んで移入されたわけではありません。
https://x.com/saichuta/status/1924388741839479053
下の意見はそこそこ納得できた。
外来種と移民の混同は去年の今頃もtwitter上で話題になっていました。既に多くの方がさまざまな角度から誤謬を指摘しています。
https://x.com/kuroNYU/status/1924481534448550154
私は「外来種と移民の違い」からではなく、「そこで『自分たち』とされているのは誰なのか」の違いから説明を試みました。
http://blog.uonofu.com/240624/
「国外からやってきた存在によって自分たちが迷惑を被っている」とする心理や表象、これが両問題において似通っていることは認めねばなりません。
その上で違いを説明しようとするとき、つい陥りがちなのが【国外からやってきた存在】としての外来種と移民との違いを説明しようとするやり方です。これはいい手ではありません。この文脈において外来種と移民との違いを説明しようとすると、「人間だって生物の一種だろう」とか「人間だけ特別視することは許されるのか」とかそういう話になり、議論は結局のところ「ヒト」と「ヒト以外の生物」とを隔てる本質的な違いは何なのか?という人間中心主義の是非や生命倫理の話題へとねじれていってしまいます。そうなるとともすれば「ヒトも生物の一種。外来種を排除していいのならば移民も同様にしてかまわない」などという突飛な結論さえも出てきうる。
……(中略)……
外来種問題における【自分たち】とは人間社会であり、ヒト全体です。外来種がなぜこうも問題視されるかと言えば、それによって引き起こされる生態系の改変が、本来ヒトがそこから享受可能であったはずの利益を損ねると考えられるからです。これはヒトという種にとって普遍的な問題です。外来の肉食魚によって在来の魚が絶滅する場合、損失を被るのはたとえばその在来種を獲って生計を立てている漁師だけではない。短期的・直接的には一部の人間が利益を失うだけに見えても、それは廻り廻って社会そのものが得るはずだった潜在的な利益の喪失になります。ヒトを一枚岩と見るこの文脈においては、「【自分たち=ヒト全体】の利益を守るために、【国外からやってきた存在=外来種】の権利を制限する」ことへの社会的な合意は概ね共有可能と考えていいでしょう。議論が求められるのはどちらかというと局所的に見た場合の「利益」の部分です。外来種とはいえそれを重要な生業の一部にしている人はたくさんいるわけなので(バス釣りの関係者の方など)、そういった人々の利益が直ちにゼロにならないよう注意しながら、生態系サービスの維持と最大化へと社会が舵を切っていく、今はまさにその途上だと思います。
方、移民の問題における【自分たち】は、「受け入れ国の国民」ということになります。この場合、その利益を守るために【国外からやってきた存在=移民】の権利をどこまで/どのように制限するのか、話は外来種よりはるかに難しいものになります。これはヒト同士の、社会の内部の問題です。そこでは、われわれは複雑で重層的な【自分たち】の概念を併せ持ちながら生きています。たとえばあるときは家族を、あるときは同窓の卒業生を、またあるときは応援するサッカーチームのファンを【自分たち】として。
しかしそんな中で、移民の問題における【自分たち=受け入れ国の国民】という概念は非常に不安定なものです。その理由はふたつ。まず国民として【自分たち】を定義する国家の枠組みそれ自体が、本質的にヒトを隔てるものとしての根拠に乏しいこと。詳しい説明は試みませんが、要するに国境を超えてやってきたのも同じ「ヒト」じゃないか、ということです。
友人関係
恋人を作ったら異性の友人との関係を薄くするべきという思想は滅ぼしたい
https://x.com/hyulotsu/status/1924130190181196011
パンセクの人は恋人できたら友人全員と関係を希薄にしないといけないの?ゲイの僕は恋人できたら男友達と離れなきゃいけないの?女友達に恋人ができたら気が合う友人なことは変わらないのに仲良くできなくなるの?絶対に嫌だ
政治参加
2024年の都知事選に立候補していた安野たかひろ氏(開成→東大)の政治団体が政策集を公開した。やっぱり都知事選っぽいというか、最近できた庁っぽいというか、子育てとかデジタルにかなり偏っている。ワンイシューで攻める方向性を採らずに国政政党を目指す意味があまり具体的に見えてこない。
英語
自己開示
『英語教育』6月号のp.32に、「頻繁に自己開示を迫られる英語の授業」とある。
これについては、本当に考えないといけない。
https://x.com/megane_akimae/status/1922929971779031125
他言語の授業が苦手なのってこれが結構あるかもしれない……
英語化
大学教員の立場で、ちょっと長めの真面目な投稿です。
今年度から東大の工学系では、全授業が原則英語化されます。
これは必ずしもいきなり全て英語で授業が行われるということではないのですが、授業の履修者に英語での授業を希望する学生がいる場合には、大学側は英語で授業を提供する原則になったということで、大学が広く国際的に文句を広げ、かつ流動的に学生や教員を集めていく施策の基幹的な動きになります。たとえ日本人学生がマジョリティーの場合でも、原則英語の授業が今後増えてくることになります。もちろん一部の日本語でないと成立しない授業(例えば建築士免許に必須の法規に関する授業など)に関しては日本語のまま残りますが、それらはあくまで例外で、基本的には今後東大の工学系で学びたい人は英語で授業についてくる語学力がないと、十分に機会を生かし切れないような状況が、徐々にデフォルトになっていきます。
これに関しては、僕が決定に関わっているわけではないので何も言う立場にはありませんが、もちろん日本語話者の学生に不利になる可能性や、そもそも国の財源で運営される大学が他国語で授業をやるのはいかがなものかといった疑義に対しても十分に議論をされた結果の強い判断なのだと思いますし、僕自身、国際的なアカデミアや実務・開発の環境に身を置く中で、今後日本語に閉じた授業や研究環境にこもっていては、大学としても、卒業生の価値としても、引いては日本の産業競争力や国力としても、確実にジリ貧になるのは目に見えている(というかもう既になっている)中で、必要不可欠な、もしくは少し遅しすぎるくらいの動きなんだと思います。
日本の大学や産業開発力の国際的なプレゼンスの低下は、中で見ていても外から見ても著しいですし、語学だけでなく組織的な問題や発信力予算の使い方や配分に関するところにも、むしろより根本的な問題を抱えています。海外に出て専門性の必要な生活をしてみるとわかりますが、語学と言うのは単純に自動翻訳ができれば済むものでは決してなく、人と人とのマルチモーダルなコミュニケーションの総体なので、いろいろな場面で即応できる総合的な能力及び感覚を持っていないと、国際社会で相手にすらされなくなってしまいます。
こうしたところを大学側だけでなく、教育を受ける側研究をする側教える側、さらにはそうした人材を活用する社会全体で意識を共有して変えていかないと、少なくとも最先端を開拓する目的を持った領域ではどんどん時代に取り残されるだけだと思いますし、しっかりその辺の意識や意義を及して取り組んでいく必要があるのだと強く感じています。
実際僕も、建築学専攻でこの3年間やっている修士向け設計スタジオは毎回必ず何人かは海外からの留学生がいるので、原則英語での授業になっていますし(ただしこれは修士課程だから海外留学生が多いということで、学部ではこうした状況にはまだしばらくなりそうにはありません)、今年からはおそらく修士向け講義の「建築都市の情報空間」も英語での講義になるんじゃないかと半分覚悟はしている(もちろん資料の準備はできていない)状態です。
僕だってもちろん日本語の方がニュアンスが伝えやすいし楽だし、英語だとわからなそうな顔をしている学生を横目に見て授業するのも辛いんですが、やっぱりここは変えていく必要はある。例えばタイや台湾、マレーシアなどの主要大学で講義やコミュニケーションをしていても、普通の大学生が英語でコミュニケーションできる能力はおしなべて東大よりあちらの方が断然高い。この状況はとにかく変えないと、いつまでも内にこもって相互評価で満足していてはとにかく本当にヤバいのだと感じます。
ということで、これから東大を目指す皆さん、ぜひ英語でコミニケーションできる能力、半ば海外留学がいつでもできるような感覚を、しっかりと磨いておいてください。これは皆さんの将来にとっても、常に広めの視野と選択肢の中で生きていく上でも、とても重要なことなのだと思います。
https://x.com/toyoda_noiz/status/1923546967558455374
すみません、いろいろとリプ読んでいて誤解を招く書き方だったことに気づきました。これは大学院の話で学部に関してはこれからの話かと思います。とは言えもはや工学系では終始までがワンセットが当たり前の状態で、かつ工学部は東大の学生数の半分を占める巨大学部、影響は大きいと思います。
https://x.com/toyoda_noiz/status/1923747883045793962
国立大学の授業の英語化、要は留学生が留学しやすい場所にするための努力なので、日本の納税者的に共感することは結構難しいと思うんですよね。「国家の枢要に応ずる学」を掲げたかつての帝国大学がそれまで英語で行なっていた講義を徐々に日本語で行うようになった過程に思いを致してしまいます。
https://x.com/konoy541/status/1923747364218765422
とりわけ文系においては日本語で学術研究ができる強みを残しておいてほしい……。
SS! Culture
堀辰雄『風立ちぬ』
いい記事だった。
堀辰雄の文学にはどうしても、「病気の状態のままでいることが幸福なのかもしれない」というある種の退廃のような部分が、多少なりともあります。「難病文学」の多くが、死に抵抗して二人で愛し合うその時間が美しすぎて、この状態が続けばいいのにと無意識に願ってしまうような瞬間を含んでしまうように。
それでも、堀辰雄の文学は死ではなく確かに生の美しさに満ちていると思います。
それは『風立ちぬ』において、高原の自然や、リルケ、ヴァレリーといった詩の引用、患者たちや節子の父親への冷静な描写といった、二人だけの愛の外部にある、今生きている時間と自分が感じる世界そのものを尊重し、刻みつけようとする意志があるからに思えます。
それは堀自身が病気を抱えながらも、死を自覚し、ということは限りあるこの生を自覚し、この世界に満ちている様々な光や風を感じて言葉に残そうとしたということでもあるように思えます。それはまた、優れた芸術全てに共通する強い意志でもあるのでしょう。
https://note.com/artloverneko_08/n/nb468d2025a2c
谷川俊太郎『絶望』
絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから絶望とは
裸の生の現実に傷つくこと
世界が錯綜(さくそう)する欲望の網の目に
囚(とら)われていると納得すること絶望からしか
本当の現実は見えない
本当の希望は生まれない
君はいま出発点に立っている
信長貴富作曲で合唱曲にもなってた。素晴らしい。
合唱で思い出すのは、『君のそばで会おう』を使ったショーを早稲田祭2024で上演した翌日の朝のこと。『夢の意味』(作曲:上田真樹)がYouTubeでサジェストされて、啓示めいたものを感じたことがある。自分が監督をした作品が上演される日とか、その翌日の空気感というものは独特だ。それがどういう感覚だったのか詳細をもう思い出せないが、とにかく独特だったように思う。
龍宮城『BOYFRIEND』
わかる!
なんかさ、KENTがデカく大人になればなるほどBOYFRIENDの鳴りが良くなるっていうかクィアソングとしての機能とか説得力が増す気がした
https://x.com/Nu02Pq/status/1924854283092295944
星野源『Gen』
挑戦的な作品として評価が高い。個人的には『Sayonara』、次点で『暗闇』が好き。宇多田ヒカルの『夕凪』を初めて聞いた時の感覚を思い出す。生死のあわいで漂うような……。結局、生者たるもの死者のできるだけ近くで、死者のことを歌ってほしいと思っているのかもしれない。
MVもめちゃくちゃカッコいい。
出演してた『あちこちオードリー』も、地上波民放バラエティとして耐えるギリギリのずっしり感を出してきてよかった。
『あちこちオードリー』2025年5月14日放送
多くの人のふるまいって、「結局本当のところは何考えてるか分からない」人間の本質的な怖さを無理やり押し込めて成り立っているんだなと思う。去年の紅白の挨拶の絶妙な間といい、星野源は「人間どうやっても他人から見えない領域ってありますよね」っていうことをちゃんと表に出してくれてる感じがする。わざと境界を張ろうとする態度って自分を偉大に見せようとするときにやりがちで、そういう文脈でなら自分もやったことがあるのだけれど、星野源のそれに傲慢さみたいなものはない。
上のブログもいいブログだった。
星野源は、“意味がない高み”という表現の領域に突入せんと、静かに燃え上がっていて、無気力さはある種のポーズと考えたほうがいいだろう。ここで想起されるのが、赤塚不二夫という存在だろう。かねてから星野源が敬愛の意を表明していたナンセンスギャグ漫画の大家であり、今作の「Melody」という楽曲の中でも“ニャロメと観る終末(エンド)”というように、赤塚漫画のアイコンキャラクターを歌詞に引用してみせている。赤塚不二夫の偉業について記述していたらキリがないので、ここでは「私もあなたの作品の一つです」というフレーズでお馴染みのタモリ*1による赤塚不二夫への弔辞を引用しよう。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい“意味の世界”から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、“これでいいのだ”と。
「もういい」「どうでもいい」というフレーズが、“これでいいのだ”という肯定に反転する。そして、意味がない高み、というのが、赤塚不二夫が破滅的なギャグで達成していた“意味の世界からの解放”と結びつく。なにより重要なのは、その意味からの解放は、「世界を明るく(≒幸せに)」するということだ。
https://hiko1985.hatenablog.com/entry/2025/05/20/161944
その死の匂いは大病から回復した星野源自身であるだろうし、死別した人々、また生まれ落ちなかった命についても言及され、誰もが等しく死ぬのだという諦観にも辿り着く。
https://hiko1985.hatenablog.com/entry/2025/05/20/161944
君となら恋をしてみても
しばらく休載してた『君となら恋をしてみても』、連載再開!うれしすぎる。
ファンタジースプリングス
ロックワーク、すごいよねぇ……。
景観を創り上げる技術
ディズニーパークの美しい自然環境を表現するために欠かせないのが“ロックワーク”と呼ばれる技法。この日は特別にその制作の裏側について解説があり、制作フローの説明(画像1枚目)、完成までの経過を追った建設中のロックワーク写真(画像2枚目)が公開されました。魔法の泉
ロックワークの中には、エリア名称の通りさまざまな“泉(Springs)”やキャラクターをかたどった岩があり、そこには「魔法の泉に住む精霊が、水の流れに乗って旅をした先で出会った数々の物語をその泉に刻み込んだ」というストーリーがあります。
精霊たちはどんな物語を見つけたのか、そして我々はどんな物語に出会えるのかを想像しながらエリアを訪れてみてください。
To all who come to this happy place
カリフォルニアのディズニーランドで「ペイント・ザ・ナイト」が復活し、冒頭のアナウンスが変更になったよう。その変更の仕方がすごい。
ペイント・ザ・ナイト、「Ladies and gentleman boys and girls」、何に変わるかと思ったらウォルトのディズニーランド開園時のスピーチ、「To all who come to this happy place」になってた!!
https://x.com/BND_GUSton3208/status/1923589658614935689
これ良すぎるんでドリームライツも変えましょ
上手すぎる。最初からそっちの方が良かったじゃんというぐらい鮮やか。2021年から変わったパーク内のアナウンスも”Hello Everyone”ではなくてそれにすればいいのでは。
オリエンタルランドは運営する「東京ディズニーリゾート(TDR)」のアトラクションやパレードなどのアナウンスを一部変更した。「Ladies and gentlemen(レディース・アンド・ジェントルメン), Boys and Girls(ボーイズ・アンド・ガールズ)」の英語アナウンスを「Hello Everyone(ハロー・エブリワン)」など、ジェンダーの多様性に配慮した表現に変えた。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ262WX0W1A320C2000000/
歌声
すごい。授かったものという感じが……
ペペロゲーム
やっぱり番組側から用意された企画としてのペペロゲーム良くないと思うよ〜😭
https://x.com/tntktn03/status/1923365114960306197
大昔のアイドル番組であった、女の子に同性のメンバーの胸を触らせてどんな感触だったか感想言わせるような流れと同じ醜悪さを感じる。
クィアベイティングでもあるし、アイドル達が拒否できないような空気も好きじゃない…
同性同士のキスが”気持ち悪い”ような表情を浮かべるアイドル達を見て少なからず悲しい思いをするファンもいるだろうし…やめないか…
https://x.com/tntktn03/status/1923365117527290296
ペペロゲームとはポッキーゲームの韓国版のようなもの。TXTが番組でやったことで話題になっていた。そういうのはクィアベイティングだと指摘する意見は結構見たことがあるけれど、「”気持ち悪い”ような表情を浮かべるアイドル達を見て少なからず悲しい思いをするファンもいる」という視点から捉えている意見はあまり見たことがなくて、感動してしまった。
髙橋優斗
最近久々にSTARTO ENTERTAINMENTの過去のライブ映像を観ている。
HiHi Jetsの「ノンストップジャニーズメドレー」が特に良い。やはり髙橋優斗のアイドル性というのは目を見張るものがある。常に両義性にひらかれているという感じ。すごく準備してきているようにも感じるし、即興性があるようにも感じる。底抜けの明るさがありながら、憂いがある。素人でもあり、プロでもある。「こういう人は旧ジャニーズでないと出てこない」と名指しされる所属タレントはかなりの数いるが、本当にそうなのは髙橋優斗ぐらいなのではないかと思う。
髙橋優斗を語る時だけは、一連の問題以降、公の場では一切発さないようにしている「ジャニーズ」の名称を使わないとどうしようもない。髙橋優斗がいなくなったことで、「ジャニーズ」の歴史は本当に終わったように思う。結果として、それをもって自分の気持ちもSTARTOから完全に離れたようにも感じる。