万博のクリエイティブ
大阪・関西万博デザインシステム(「こみゃく」)のデザインを組んだ引地耕太さんの投稿から。これは本当にそうだと思う。クリエイティブが尊重されている祭典がちゃんとできているというそれだけでもこの万博の意義はあるのだと思う。
確かに今回の万博では、シンボリックな大屋根リングの建築や、会場全体のブランドをかたちづくるデザインシステムを、理想に近い“ピュアなかたち”で実現できたのかもしれませんね。実は、今回の万博で実現した開かれたデザインや共創の仕組みは、東京オリンピックで経験した閉塞感や、実現できなかったアイデアへのリベンジでもありました。あの時感じた悔しさや学びが、今回の万博のデザインに繋がっています。
今だからこそ言えますが、東京オリンピックの出来事は、クリエイティブ業界の一人として非常にショッキングで、言葉にできない悲しさを覚えました。ロゴの撤回、建築案の取り下げ、そして激しいバッシング。あの時、業界全体に閉塞感のような空気が漂っていたことを、今でもはっきり覚えています。
実は当時、僕自身も前職でパラスポーツのプロジェクトなどを担当していた流れから、組織委員会へ出向し内部からオリンピックのブランド開発や広報に関わっており、国際的なイベントの裏側でブランドがどのように立ち上がっていくのか、仕組みやプロセスを学ぶ貴重な機会となりました。過去のオリンピックのデザインシステムや仕組みなど外には絶対に出ないような設計資料など沢山見る事が出来、国際イベントのブランド開発がどのように出来上がっていくのか勉強する事ができました。その経験や知見は、確実に今回の万博のデザインに生かされています。
そして、もうひとつ大きかったのは、五輪の時に自分でこうあれば面白いのではないか?と考えて実現できなかった数々のアイデアや哲学が、今回の万博でようやく息を吹き返し、実装されたということです。それは見た目ではなく、構造や思想の部分に宿っています。そういった想いや試行錯誤をすべて詰め込んだのが、今回のデザインシステムであり、「こみゃく」というプロジェクトでした。
また、精神的にも、オリンピックで感じた閉塞感を引きずったままでは、若いクリエイターたちが「公共のプロジェクトは怖いもの」「関わりたくないもの」と思ってしまうのではないかという危機感がありました。それは、個人にとっても、国家的にも大きな損失だと思っています。
そうした想いの中で、3年前、万博のデザインシステムに取り組み始めた時に、自分自身が最も大切にしたデザインポリシーの一つが「参加と共創を促す開かれたデザイン」でした。それは、オリンピックの時に感じた閉塞感の空気を打ち破り、多くの人に開かれた新しいクリエイティブのあり方を提示するための選択でもありました。
その想いは、やがてオープンソース的な二次創作文化「こみゃく」へとつながり、さらに多様なアーティストやクリエイターと共に会場装飾やサウンドスケープをつくりあげていく「オープンデザインプロジェクト」へと発展していきました。
外から見れば、オリンピックと万博は全く別のプロジェクトに見えるかもしれません。しかし、僕の中では、オリンピックでの複雑な経験と想いが確実に万博へとつながっており、一続きのストーリーとして存在しているのです。
だからこそ、今回の万博でカタチにできたことは、単なるクリエイティブの成果以上の意味を持ちます。それは、「次世代にポジティブな可能性を繋げられるか?」という問いに対するひとつの応答であり、同時に自分自身の人生の中でも、深く刻まれる出来事となりました。
https://x.com/kouta_hikichi/status/1922456469750087921
ニューロダイバーシティ
これ面白い分析だと思った。日本においてセクシュアリティを描いた作品はそこそこある気がするので、そこまでわかりやすい対比構造ではないような気はするが。
海外のフィクション作品が「移民」や「セクシュアリティ」から多様性を描くのに対して、最近話題の日本のマンガは「ニューロダイバーシティ」の話に接近しているような気がしました。それだけ身近な話題なんでしょうね。
https://x.com/a_pickyeater/status/1922144525524373558
『ありす、宇宙までも』
『君と宇宙を歩くために』
『どくだみの花咲くころ』
ニューロダイバーシティとは、発達障害を脳や神経の多様性として捉え、個性として尊重することを提唱するものらしい。個性としての尊重という姿勢が、必要なサポート(介入)を阻むのではないかという批判もある。
ニューロダイバーシティ(Neurodiversity)とは、非定型的な発達を脳や神経の違いによる当然のものと考え、個性と捉える概念です。脳・神経を意味するNeuroと多様性を意味するDiversityが合わさった言葉で直訳すると神経多様性という意味になります。オーストラリアの社会学者であるJudy Singerが1990年代に提唱しました。
https://www.asahi.com/sdgs/article/15521432#h416sm3ucs6hr1pft9o4mcjv361xtatws
ASMRとルッキズム
最近ASMRを聴いて眠ることがある。チャンネルを探してると、露骨なルッキズムに出くわすことがある。顔出しをしている動画だけ明らかに再生回数が多い。

ASMRというのは本来音声だけで勝負する領域で、自分も再生ボタンを一回押した後は一切映像を見ずに音声だけ聞くのだが、なぜか顔出しをしている人を選んでしまいがちである。顔を出しているかどうかだけ重視するなら、「顔を出している方がコンテンツとして信頼できるから」みたいな(滅茶苦茶な?)論理を展開することもできるだが、やっぱり顔が良い方を選んでしまう部分があるからどうしようもない。
個人の責任
異常者の責任
KCON JAPANであったお見送り会でのスタッフの対応が炎上している。
“お見送り会”は、ステージ上に並んだ『ZEROBASEONE』のメンバーひとりひとりの前をファンが通り過ぎていくというものでした。メンバーは通り過ぎるファンに対して手を振ったりハートポーズをつくるなどの“ファンサ”をしてくれました。メンバーが目を合わせてくれるなど、ファンにとってはライブでは絶対に味わえない体験ができる貴重な機会です。
そこに配置された誘導スタッフは、円滑にファンの列が流れるよう、いわゆる“剥がし行為”をおこなうのですが、そのやり方が雑すぎたことからX上で拡散され、大炎上しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0df515307326ea12094f115a3112e00be0a7093b

もちろん今回のスタッフの対応は良くなかったのだが、正直特典会等でのスタッフの対応の悪さというのはアイドル界隈ではよくある話で、今回問題になっている特定の1人にすべての憎悪が集まっているような状況は正直異常である。
「これぐらいの金額をかけているのにこれはおかしい」というのは確かにそうなのだが、それはそこにいるスタッフ1人だけの責任ではない。早く流してくださいというのは運営側がスタッフ派遣会社にある程度伝えているわけだから、そもそものビジネスの構造の問題でもある。その鬱憤を普段はなんとなく見えづらい場所に貯めておいて、いざ末端のスタッフ1人に標的が定まったら一気に放出するようなものは、果たして正しいことなのだろうか。
今回は立場がそれほど強くないスタッフである(そのイベントの場ではファンより強い権限を持つのかもしれないが、構造全体からすれば末端も末端である)から特に叩く良くなさが分かりやすいが、最近はどんな場合であれ「異常な行動をした1人」というか、「1人の異常性」に過剰に責任を押しつけることに疑問がある。
ジャニーズ事務所の一連の問題では、丁寧だった第三者委員会の報告文とは裏腹に、報道では「性嗜好異常」という言葉が踊った。それは本質的な報道なのだろうか、と思う。
「性嗜好(しこう)異常」という言葉を盛り込んだことで、結局、ジャニー氏の「性嗜好」が加害を生んだ、つまり「特殊な人物だから多くの男の子が被害に遭った」という結論で終わってしまわないか
https://mainichi.jp/articles/20230922/k00/00m/040/149000c
社長と所属タレントという圧倒的な権力勾配があったのだから、決して先述のスタッフの例と同様ではない。しかし、異常があり、その異常を周りの人がうっすら認識していたのだとしたら、その異常さの根源を突き止め(従軍時のトラウマとの関連を指摘する言説もある)、改善する手助けをできなかった責任はないのだろうか。継続的な性加害が生まれ得る場を温存した会社の/芸能界の構造に加担した責任はないのだろうか。成人なのだから自分の異常性は自分で解決しろというのは正論なのかもしれないが、それが解決されないことにより多くの人を巻き込んだ問題が生じうることが明白であるときに何もしないというのは、どうなのだろうか。それは社会の不作為ではないのか。
メディアにしろ、異常性を認識しておきながら放置してその天才性による利益だけ享受し、いざ都合が悪くなったら、自己批判を一瞬も経ることなく、自らを正しい側に置いて単純化し、「異常者」個人の存在を抹消する「だけ」で片づけて解決した気になれるナイーブな思考に苛立ちを覚えてしまう。その身勝手さは、個人をただ都合よく消費しているという点において性加害と本質的に似通っているのではないかと思ってしまう。
また、フジテレビの問題では、加害をしたとされるタレント本人がジャニーズ事務所出身であり、異常な環境下で育ってきたことも大きく関係している可能性がある。こうした背景を抜きにして、ただ特定個人の異常性をことさら強調したところで、決して再発防止にはならないだろう。……こういうことを書いていて、久々にフーコーを読みたくなった。
自己肯定感
下の記事は自己肯定感という言葉についての問題を指摘したインタビュー記事だが、個人の責任と社会の責任との塩梅の問題という点で通じる部分があるように思う。
個人の責任に帰すれば社会は責任を取らなくていいからです。ひどいですよね。でも、「ひどいから組織を変えよう」とか「政治を変えよう」にはならない。
自己肯定感という言葉が大嫌い 信田さよ子さん、「他責」のススメ
https://mainichi.jp/articles/20250509/k00/00m/040/210000c
社会運動
ラブライブ!シリーズの新プロジェクト『イキヅライブ! LOVELIVE! BLUEBIRD』が(悪い意味で)話題になっている。環境保護活動をしている山田真緑さんというキャラクターがいるらしい。
作品上のこの環境保護活動というのが肯定的な描き方をされるのか、それとも「変なことにはまっちゃってる困ったさん」みたいな描き方をされるか次第で、作品の評価としてはかなり違ってくるので、まだなんともいえない。
それに加えて、「生きづらさ」という言葉の扱い方に関する難しさもある。これを「社会の無理解ゆえに不利な状況にある正しい少女たちを応援する」話に持っていけるか、「大多数から外れた”変な子”を愛でる」話にしてしまうか、かなり瀬戸際のラインだと思う。本人が生きづらさを感じていようといなかろうと、「生きづらさ」という言葉をラベルとして使ってしまうことの問題もかなりある。
ただ、それ以前の問題として、環境保護活動というワードが出た時点で保守的なファン層からの反応がえげつないことになっている。それを機に、サブカルコンテンツと社会性の問題が取り沙汰されている。
オタク向けのサブカルコンテンツが今まであまりにも社会性を蔑ろにし過ぎた反動が来ている肌感覚がある。ラブライブ系のコンテンツから環境問題にリーチするのもその一環だし、今期でも『ラザロ』や『前橋ウィッチーズ』は風刺性を帯びていると思う。冷笑主義とセカイ系から決別できると良いなと思う。
https://x.com/anonymous_moon3/status/1922110182122787041
なんか日本のオタクってこういう理想主義的なモチベーションに欠けてる気がするんだよな(うまく表現できないが)
https://x.com/b0kita_2/status/1922121922344628298
作品を見てもそれが現実を捉え直すきっかけにはならないと言うか…
反戦がテーマのアニメを見ながら平和主義を冷笑したり、百合アニメが好きなのに同性婚には熾烈な反応示したり…みたいな
自分はあまりこういったコンテンツに触れてこなかったため、ファンダムを含めかなり偏見交じりで見てしまう部分があるのだが、論争が起きたときにこういう骨太の言説がしっかり出て来るのを見ると(単純にラブライブというコンテンツの影響力が大きすぎてアニメのファンダムの外にいる人たちも反応している部分も大いにあるとは思うが)、ファンダムも一様ではないということに気づかされる。おそらくそれはジャニーズ事務所の一連の問題が起きたときに、嫌韓などと結びついて保守的な考えを述べるファンだけでなく、旧体制からの脱却を是としてきたファンもいたのと同じように……
それはそれと「思想が強い」というのはつくづく変な言葉であると思う。高校時代には聞かれなかった言葉だが、大学に入ってから急激に聞くようになった。「自認」という言葉を冷笑するネタを言ってみたり、同性愛者に対する差別語を使ってみたり、少数者に対する差別的な発言を平気でしておきながら、同じ口で社会変革を目指す発言には「思想が強い」と言って笑いの種にする。彼ら/彼女らにとって、どうやら差別的な発言は政治的ではないらしい。
プライド
これはかなり良くない偏見だが、「それほど名を成せていないのにものを作る者としてのプライドだけ膨れ上がった状態の着地点」みたいな感じが、ラノベ作家にはそこそこ見られるような気がする。
このツイート主もプロフィールの先頭に「文学賞作家」とあり、少々うーんという感じがある。
以前取り上げたこの記事もラノベ作家によるもの。これもまた良くない偏見だが、なんというかラノベを書くという行為は創作行為の中では専門性が不要で気軽なほうでありつつ、その作品世界には社会性が欠如していてフィクションに引きこもるようなものが多く、こういうイタさが出てきてしまうように思う。ものを作りたいという気持ちはあるけれど、こうなってしまうことは避けたい。
AIの使い方
音楽作らせるの良いなぁ……。
海のクィア性
『みなと商事コインランドリー』(ドラマ)をまた見返している。慎太郎(演:西垣匠)の良さは言うまでもないが、明日香(演:奥智哉)があまりにも良い。明日香は女子とも深く関わるし、慎太郎の恋模様をからかうしで、きわめてノンケっぽい振る舞いをしてみせるのだが、実はそうではないという役どころ。この見えづらさみたいなものがすばらしいと思う。
『みなしょー』は海の近くが舞台である。『君となら恋をしてみても』といい、海の近くを舞台にした作品はとても良い。40代でFIREして海辺でコインランドリーか喫茶店をやりたいなと思うぐらいには良い。水というのはどうもクィアっぽさが強い。『みなしょー』は洗濯機やプールといった水のモチーフが多数登場するし、『未成年〜未熟な俺たちは不器用に進行中〜』もそうだ。
あんまり詳しく書こうとは思えないが、水に接する場面というのは、「われわれ」にとってちょっと色気がある場面であることがある。ペットボトルを回し飲みするということ、プールに入るということ、大浴場に入るということ。いずれもうっすら他者とつながっている感じがある。触れている感覚に近いが、直接的には触れていない、それゆえの恥じらいがあるというか。
良さを感じた作品
くらげと痛覚
江の島とクラゲ……痛み……
クラゲには感情がない。だからきっと、恋もない。
ドラマ『君となら恋をしてみても』1話
……(中略)……
オレが本気の恋とか、ウケるな。
きみの春花
先週話題になっていた「受け俳優」「攻め俳優」問題は謝罪・改称によって幕引きに。なんかコンテンツ産業の炎上案件をひたすら取り上げる日記みたいになっていますが……。
https://x.com/chillchillbl/status/1921853216188211351
受け/攻め二元論の問題について良いツイートがあったので引用。
セックスポジションの描き方が好きなBL置いておきます。特に2巻!
https://x.com/i_wont_survive/status/1922167940511572268
受け攻め(あえてこの表現)は最初から決まっているものじゃなくて、2人が関係性の中で対話で決めてたり試したりするものだと描いてくれている。
きみの春花 2(有馬嵐 著)
https://amzn.asia/d/aOtG5mJ
個人的にも、男性どうしの恋愛関係を描いた作品は、「どっちがどっちの役割もできる」こと、「分業制から交替制へ」という方向性が魅力だと思っている。
天使

かなり前の原因は自分にある。のグッズ。3次元ボーイズグループのグッズとは思えない文脈の濃さ……。
小泉光咲さん、尋常じゃなく強い意思を詰め込まれている写真が公式から出て来るのですごい。こういうのは普通ファッション誌とかで出るやつ……。
ドヴォルザーク
新しく配信されたショート動画アプリのドラマ、冒頭にドヴォルザークの『新世界より』が使われててすごい。そういえばドラマ『未成年~未熟な俺たちは不器用に進行中』の劇中に登場する蛭川の映画ではドビュッシーの『月の光』が流れてましたっけ……。
原因は自分にある。のMV予告でショパンのノクターンが使われた時もビビった。あまりにも良い。JO1の『BE CLASSIC』とかもそうだけどクラシックというのは継承への意思とか、ハイカルチャーでもポップカルチャーでも音楽は音楽ですみたいなものを感じて好き。
それに影響されて去年は『愛の挨拶』で動画を作っていただいたりもした。クラシックを聴くと、クラシックを聴いていた高校の同期を思い出す……。
ショートドラマの是非
それ専用のアプリでしか配信されないショートドラマについての自分の考えをこの機に整理しておきたいと思う。
良いと思うところ
- 深夜枠のテレビドラマよりも収益性があるので思う存分作家性が出しやすい。
- かなり若い制作体制が組めるため、保守的な価値観をかなり排せる(気がする)。
- 字幕をちゃんとつけているところ(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000016.000039336.html )。翻訳した多言語対応させることを考えてテキストデータ化をちゃんとやっているんだろうなぁ。
- 通常の地上波ドラマと比べて、海外ユーザーに直接届けやすい(国内ユーザーと海外ユーザーが同じ土俵に立っている)こと。おそらく通常の地上波は何らかの違法な手段を経由して到達することが多いような気がする。地上波の広告収入が徐々に見込めなくなっていく時代、海外に需要があるはずなのにちゃんと収益を採れないのは結構痛手になっているのかもしれない。
見終わった、バカ良かった。画作りからセリフから何からすべてが本気だった。大衆受けはしない脚本だしそれを狙ったものではないと思うが、キャッチーさは十分外さない。製作日テレなんですね。予算低めで、売れるのかどうかにビビらずクリエイターが作家性出せるのがショートドラマという市場なのか。
https://x.com/sep18hiro/status/1922293330940940673
あんまりなと思うところ
- スタッフクレジットが雑な扱いを受けがち。
- ユーザー的にはなんでもかんでもすぐアプリを入れさせようとしないでほしい。
- 同じくユーザー的には、スマホとタブレットでしか見られないのが困る。いくら作りこまれていても大きな画面で見れないのはしんどい。
- テレビ局主導の配信ドラマ以上にアーカイブ性に難がある。円盤が出ることもないし、ショーと動画アプリの運営企業が倒産したらおそらくそれで終わり。
- 一部のファンから巻き上げる式で収益性を確保しているところ。構造がイマーシブフォート東京っぽい。
- 1日1話ずつ開放されていってもいちいち見る人は少なそう。1週間に一気に7話解放で通知来る仕組みとどっちが良いか比べてみてほしい。コンテンツの波及性が弱い気がする。
変わらない価値
全然ツイートの文脈と関係なくて申し訳ないのだが、人間の価値だけはそのまま1人=1人で換算できるって当たり前のようで結構特殊なことなのかもしれない。短歌にできそう。
最近の心理
かなり不定期な躁鬱っぽい波があり、この世の終わりみたいな顔をして帰宅する日もあれば、スキップしながら帰宅する日もある。人間は躁の時ほど死にやすいらしいが、それは本当に実感する。飛べるような気がするのである。
休日
最近の自分の休日の過ごし方を振り返ると、起きているからには実のあることをしなければいけないという意識があるために寝てしまうような部分があるような気がする。完璧主義が煮詰まりすぎて、かえって怠惰になっているというか。テレビを観るだけでもいい、短歌を作るだけでもいい、別に勉強したり仕事したりしなくていいということを自分に刷り込んでいく必要がある。
希死念慮
自分と噛み合わない環境下にいる時ほど(積極的な)希死念慮というのは出やすいようで、中学・高校の時には出なかったタイプの希死念慮に見舞われたりしている。これを繰り返しているようでは明らかに予後が悪いので、どうしたもんかと思っている。
それもこれも、どうも記憶が邪魔をしていることの証左である。過去のことに執着して、今をよりよく生きることに目を向けられていない感じがある。