日記(2025-05-04)

短歌

  • 「彼のことなんで好きなの」進化した民族ならば展示されない

 アイドルの特典会の時に作ったやつもいくつか。

  • 待ち人がいるものたちの群れだから弁当のうえでもシャボンは舞える
  • 君のもつやさしさとは名を付けず元からの名を当てたがるやつ
  • 「覚えるね、覚えられたら」正体を明かしてくれるサンタクロース

去年授業で作ったやつも出てきた。今の感覚だとぜんぜんよくないな……。

  • ⾚と⻘グラウンドじゅう響く声/横の君⾒る⿎動の⾼鳴り
  • 濁りきり底の⾒えないこの川は往⽣しそこねたいのちの住処
  • しるされぬ⾔葉の海へ旅⽴って この現象は読み解かれない

特典会

 できるだけ劇的な出来事を求めていたいと思う。素晴らしい作品に出会うとか、美しい何かを生み出すことができたとか、そういう出来事を。人間というものは長く時間をかけて積みあがったものに価値を感じ、執着してしまいがちなのかもしれない。自分にとって血縁以外の人間関係というのはそれである。でもそれよりも、鮮烈な一瞬のほうが走馬灯に組み込まれるはずだと信じている。中1の時に当時の学年主任が言っていた「死ぬときにどう判断するかがすべて」という言葉に影響されてか、自分の判断のベースは走馬灯である。

 しかし、経験が邪魔をしてくる。5年前、結石で激痛が走って死を意識したときによぎったのは、出来事ではなくて人のことだった。実際のところ自分の信念と走馬灯の姿がずれているかもしれないという感覚は確かにある。修正を図ろうともしたが、だからといってそう簡単に信念をずらすこともできないわけで、なんとなく出来事重視に収斂していっている。

 前置きが長くなったが、とにかく劇的な、その一瞬で人生がすべて変わってしまうようなものの典型例は特典会である。4/26に参加した原因は自分にある。の特典会(@豊砂公園)は素晴らしかった。CD購入整理券の番号がかなり悪かったものの、「メンバー全員とのエアハイタッチ券」1枚と「アナザージャケットお渡し会参加券(小泉光咲)」1枚を得た。

メンバー全員とのエアハイタッチ券

 エアハイタッチというのは、要するにメンバーに対して飛沫防止シート越しに手を振りながら足早に通過するものである。だから正直記憶があいまいな部分もあるのだが、ひとりひとりに「ありがとう~」と声をかけていく大倉空人さんが、金髪のビジュアルを含めアイドルとして完璧ですごかった。

 毎度のことながら、同性のファンに特殊な反応をするタイプ(良い対応/悪い対応問わず)のアイドルと、逆に一切変わらないアイドルとがいるのが面白い。また、メンバーが横に並んでいると、なんというかすぐそこにいるはずなのに存在のレイヤーが違う感じがあって、変な感覚になる。

アナザージャケットお渡し会参加券

 アナザージャケットお渡し会というのは、要するに10秒程度の会話ができるものである。剥がしもそこまで厳しくなく、「お時間です!」と何度も言われるだけなので怖さもない。

 こういう時に話すネタをちゃんと仕込んでくるオタクもいるのだが、そういうのがどうも苦手で、並びながら考えることになってしまいがちである。なんで苦手なのかというと、暴力性の問題を考えてしまうからだ。「覚えてくれてますか!?」なんてもってのほかだが、散見される「好きなお酒は何ですか?」などの自己開示を求める質問や、「一発ギャグをやってください!」「胸キュンセリフをください!」など、こっちの反応次第で成功か失敗かが分かれてしまう(アイドルにとって)リスキーな質問もすごく抵抗感がある。「胸キュンセリフをください!」に関しては、そもそもそれを同性ファンから聞いたアイドルがどういう反応をするかというところに不安感がある。

 逡巡の末「あだ名をつけてください」になった。「好きな平仮名/漢字は何ですか?」など柔らかい案もあったが、まあ大丈夫だろうという変な踏ん切りがついてしまった。終わった後に「適当な嘘をついてください」というものを振ってる人がいて、それも良いなと思った。

 瞬発的に返すわけだしとんでもなく普通の名前を言われると思っていたが、実際に聞いてみると聴きなじみのない名前を言っていただけた。対応力がすごすぎる。思ってる数倍は聴きなじみがなかったのでちゃんと聞き取ることができなかったのが悔やまれるものの、その後に本名の名前を聞いて読んでいただくことまでできて光栄だった。名前を呼ばれるっていいことですね。根源的に存在が肯定されている感じがする。千尋に本当の名を言ってもらえたハクってこういう気持ちだったんだろう。

 光咲さんとのコミュニケーションはあまり通常のコミュニケーションでは生じづらい「誤配」のようなものが生じやすい。今回も、あだ名を聞いたのに名前を当てる感じで答えてくれたりした。特別な意味は多分ないんだろう。でも、命名するという一種の支配を受けたかった部分が自分にはあったが、光咲さんはそれにのらなかったというのがよかった。誤配があるおかげで、いろいろ考えるきっかけになっている気がする。

 それで、その時に「覚えるね!覚えられたら……」と言ってもらえたことがかなり大きかった。覚えるというのは未来のためにする行為であって、自分がこれから先も特典会とかコンサートに来るという前提がそこで作られた気がした。特典会の直前にあった原因は自分にある。のコンサートで「また会おうね!」と杢代和人さんが言っていてそれもかなり良かったのだが、この光咲さんの受け答えは「これから」が当たり前すぎてわざわざ直接言語化されるまでもないという状況で、これもまた生の肯定を受けたような気がした。勝手に。

 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

芥川龍之介『大正十二年九月一日の大震に際して』

 小泉光咲さんは不思議な存在感のある人で、画面を通して見るよりも、直接見たほうがむしろ現実感がないというか。透き通るような、光っているような、現実世界に異界から入り込んできた感じがある。

 その後も素晴らしかった。急に雨が降ってきて、特典会が中断された。でもその雨で人がいなくなった豊砂公園の丘を、公園に隣接するショッピングモールの2階のテラスから眺めていると、すごく神聖に感じられた。

 しばらくすると雨が上がり、虹が出たというツイートが散見されるようになった。すぐに1階に降りて公園に向かうと、綺麗な虹が出ていた。雲の切れ間から見える日差しが差し、青々とした丘が見え、露のついた草の匂いがする。心の底から美しい景色だと思った。

映画『風立ちぬ』のワンシーンを思い出した。こんなに世界が美しいなら、生きるに値するのかもしれない。

菜穂子「ほら ご覧になって」
二郎「虹なんか すっかり忘れていました」
菜穂子「生きているって素敵ですね」

映画『風立ちぬ』

 正直なところ、4月の半ばには「この日に」というかなり具体的な希死念慮含め、否定的な精神が自分の中でかなり支配的であった。でも、そういうものが一瞬にして打ち破られたように感じられた。心にのしかかっていた何か重いものが雲散したように思えた。