日記(2025-04-27)

短歌

 短歌を作っていきたいと思う。「これは自分のことだ」と思える物語や言葉と出会う機会というのは特別なものだけれど、誰かが作ったものに頼ってばかりでは少し不安定である。自分で書いていっても良いのではないか、と思う。

いまの皆さんには、そんなふうに毎日やってしまうものはありますか。もしかしてそれは、音楽を演奏すること、歌を聴くこと、イラストを描くこと、ゲームをすること、サッカーをすることかもしれませんね。こうしたあなたの好きなことは、たとえ将来それでお金を稼ぐことができなくとも、あなたの人生を豊かにする土台になるもの。決して諦めてはいけません。そして、それらの好きなことに混じって、「書くこと」だって、あなたの人生を豊かにしてくれる可能性がある。この本では、そのための提案をしたいと思います。

澤田英輔(2024)『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』

連作 バウンダリー

  • 「彼のことなんで好きなの」珍獣の横にだけある解説パネル
  • ダイヤルのまわしすぎは命取り きょうはあなたにピントが合わない
  • 越えなけりゃ大丈夫でしょと線を踏む 砂でよごした消石灰
  • ノンフィクション/いま話せないならまたいつかそのいつかにぼくはいますか

 母音でしっかり韻を踏みたいがまだできない。穂村弘さんとか、そこらへんの歌人の本も読みたい。関係ないけれど、「戦う相手を間違えてないか」が最近好きな7・7ワード。

音楽

 活動を追っているアイドルの新しいアルバムがリリースされた。『多分、僕のソネット』が特に好き。

1ミリの後悔ももう残さないでね きっと最初の勇気 大丈夫!ゆらゆら揺れてる夢みたい

「好き」とか「大切」の意味が分かるよ 君と一緒に歩きたい

忘れられないような 胸にしまってたその痛みは 熟成して角が取れて また甘くなる

1ミリの後悔ももう残さないでね そっと寄り添う空気 大丈夫!溢れた涙の向こう側

自分を許して 目と目交わして キミの言葉探そう

 この曲が主題歌に採用されていたドラマ『あらばしり』がちょっとクィアな雰囲気を醸し出していたこともあって、それっぽさを微妙に香らせる歌詞になっているのが良い。「きっと最初の勇気」!

アイドル

 最近活動を追っているEBiDANの若手で、「BATTLE BOYS」という企画が実施されている。これはファンの投票結果によって選抜が行われるというえぐい企画で、今回で7thシーズンになる。ホストクラブじゃないんだし、未成年もいるのにそんな競争にさらしていいんですかという気持ちもありつつ、時々投票ボタンを押している。

 その中で特に注目しているのが、越山敬達さん。最近は日本アカデミー賞で新人俳優賞も受賞していて、俳優としても活躍している。スターダストプロモーションでは往々にして俳優として成功し始めるとそっちに活動を完全に切り替えてしまうが、彼の場合はアイドル活動も続けるようで、その点も良い。かなり出演作品が良く、直近だと「今日のさんぽんた」を観た。全然暗いわけじゃないんだけど、時々ふっと憂いを帯びる感じがすばらしい。

 STARTOでいうと最近は千井野空翔さんが良い。アイドルとしてかなり脂が乗っているというか。もうここらへんの世代(18歳前後)をデビューさせるぐらいじゃないと他事務所に圧倒されてしまう気がするのだが……。

生存者バイアス

 いわゆるセクマイ当事者サークルに足を踏み入れてみた。あぁこんなにいるんだな、同じ大学内にも実在してるんだなという安心感は確かにあるのだけれど、どこか難しさも感じてしまった。

 いまの社会でマイノリティとして生きていくことに順応できている人たちの強者感みたいなものがあった。マジョリティの界隈とは距離を置いていることとか、恋愛関係に至るまでの方法とか、現実と折り合いをつけて、セクマイとしてのアイデンティティ一本でやっていけている感があった。

 そこにアイデンティティを収斂させることの危うさとか、不均衡なシステムに順応することの危うさとか、そういうことは実際には考えているのかもしれないが、淀みない喋りからはそういう屈折は感じられなかった。政治色を弱めたいという方向性(?)もあるのかもしれないが、もう少しステートメントというか、ここにすら足を踏み入れられない人がいることとか、なぜ隠密に活動をしなければいけないのかという社会の構造に対する姿勢みたいなものが見たかった。うーん。

支えになるもの

 しんどいな、となった時になぜか支えになる言葉みたいなものがある。そういうのを列挙したい。

床で寝て床で起きた。雨とかいう無料の水。風とかいう無料の扇風機。みんな横にいるように見えてかなり高さが違うとこにいる。みんなってあなた以外で。コンビニがあっても自分がない。家に帰るとき「帰りまつ」ってLINEしてる。花。石。蟹。肩。今日のことは思い出さないだろうな。みたいな日が多い。

https://x.com/mansooon/status/1907469227260592251

 生活の美しさを描写することって、生きていくことを肯定することなのかもしれない。

知人と承認欲求の話になったんだけど、「基本的におれは自分以外の人間を自分より下だと思ってるから承認欲求というやつがよくわからない しょうもないやつらに認められてもそれに何の価値も見いだせない」みたいなことを言っててすごかった

https://x.com/fkgwfkgw/status/1908471580721926221

最悪だけど救いになる。

過集中

 あまり自分で意識したことはなかったのだが、どうやら自分は過集中の状態になることが結構あるらしい。Illustratorを23時からいじり始め、ふっと気が付いて時間を見ると4時とか5時になっていることがある。カップラーメンを作り始めて、完成を待っている間にちょっと作業しようと思ってパソコンに向かって、30分経ってから気付くこともある。「声をかけられても気づかない」というレベルの過集中ではないのだが、ゾーンに入っている感じはある。

 映画『風立ちぬ』では、堀越二郎が人の声掛けに反応するのが遅れるとか、設計図を書き始めると飛行機が飛んでいる風景の中に入っていく感じとかが描かれているのだが、これはまさに過集中の描写だと思う。

映画『風立ちぬ』より

できないこと

 映像作品を字幕で見る癖がついてしまっている。雑踏で人の話を正確に聞くのが(おそらく)他の人よりも苦手で、余分なストレスがかかっているのではないかと思って字幕を付け始めたら、本当に楽になった。ただそれで、聴覚障がいをもつ方が置かれている状況みたいなものがだんだん見え始めた。映画を観に行ったりすると当然日本語字幕はないのでかなり苦労するし、字幕非対応の映像(CM、配信ドラマなど)はかなり多い。

 これもしかして他の人はもう少し楽にできてるのでは?という「何か」がないか考えたり、それを他者に共有したりするのは、かなり意義があることなのではないだろうか。オモコロの記事広告(リンク)で『君と宇宙を歩くために』を取り上げて「できないこと」を共有するものを読んで、めちゃくちゃ良い記事だなと思った。

「どんなに凄い人でも一人ではあまり多くのことはできないのだから、欠損を許し、補い合っていこう」という自分の大切にしている理想が漫画として現れたような、我が意を得たりと勇気づけられるような作品でとても嬉しく読んでいます! とはいえ軋轢や摩擦は避けられないし、えげつない矛盾に打ちのめされることもしばしばだと思いますが、怖いと思えば何でも怖がれるし、「分からない」と「受け入れない」は違うよなと思いながら、今日も世界のどこかで関係することを諦めずに格闘している人に届いてほしい物語です。

https://omocoro.jp/kiji/509771

万博

 大阪・関西万博が開幕した。パビリオンのWebサイトを見ていると、どれもみっちみちの思想が詰まっていて、それだけで無限に時間が使える。こんな豪華な祭典がまだできるのかと、わが国への国力への信頼感がちょっと戻ったような気がする(まんまと)。

 サウンドスケープがSound Cloudで公開されているのもすごい。学園祭ですらそこまでしない。すごいことをすごい人たちが時間をかけてやっているのに、とにかくパブリックに開かれている。大衆を舐めないというか、信頼しきってる感じにすごく惹きつけられてしまう。

万博会場のサウンドスケープ デザインは、「いのちのアンサンブル」というコンセプトのもと、
人間や自然・テクノロジーという異なる存在たちの“音”を響かせ合い、それぞれのエリアの魅力を高めるとともに、
会場をひとつの「生態系(地球)」に見立てて、音を基調とした全体の調和を生み出します。

会場は命・祭・街・森・水・空・地というテーマを持つ複数のエリアに分かれて構成され、7名のコンポーザーが参加。
サウンドスケープのクリエイティブチームとともに、多様でありながらも調和した音の生態系を奏でていきます。

https://expoworlds.jp/ja/sound

 こういう仕事がしたいな、と思う。ここでいう「仕事」というのは、決して企業とか個別のタスクで言い表せるものではない。どちらかというと「つとめ」とか「Arbeit」に近い。「将来どうなりたい?」といわれて職業を答えるのではなくありたい人間としての姿を答えるべきだ、みたいな考え方の話。

僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないと思ってきた。それはいまも変わらない。

https://www.nikkei.com/article/DGXNZO59386140W3A900C1000000/

 ナショナルイベントとして並べられることも多い万博と五輪の思想的な違いとは何だろうかと思う。万博は、それ自体が気軽な入り口になって、「じゃああなたは?」と振られてそこから次に繋がっていく感じがする。実際に並べられているものも完成品というかプロトタイプ的である。でも五輪はどうだろうか。集まって競う場、やはり4年間の成果が結実する場、という意味合いが強いような気がする。そこで完結するというか。個人的には、学園祭にしろ、イベントたるものは万博寄りというか入り口たらなければいけないと思う。個人的にディズニーシーのアトラクションで一番好きな『ソアリン』も、夢の結晶としての時空を超えた旅行の最終盤で自分の生きる現代の東京の夜景を見せられ、「じゃああなたは、何を夢見て、何を実現する?」と振られている感じがして、万博っぽくて好きだ。

『ソアリン』について語られているラジオ番組

 話は変わるが、1964年のニューヨーク万博の映像を観たりしている。あまりにもすごい。Magic Skywayというフォードのパビリオンがあって、ウォルトディズニーが関わっているのだが、こんなものに乗れるのかという驚きがある。ニューヨーク万博も、今回の万博も、各国のパビリオンよりも、開催国の企業・団体やアーティストのパビリオンのほうが個人的には興味がある。各国のパビリオンというのはどうしてもこれまでの文化の集積の披露だけで終わってしまいがちで、未来志向ではないからなのだろうか。

アニメ

 『チ。ー地球の運動についてー』を観たい。かなり早い段階で興味はありつつ、知り合いが観ていることを知ってどこか遠ざけてきた。知り合いからおすすめされたようなエンタメというのはどこか日常と地続きで、個人的な逃げ場たり得ず、ハマることができないみたいなところがある。

 ただ、最終回で「この世の美しさの為なら犠牲はやむを得ない」という言葉が出てきたらしく、これは観なければという気持ちになっている。風立ちぬもオッペンハイマーも好きなので……

そいえば、

最終回のラファウの「この世の美しさの為なら犠牲はやむを得ない」って考え方、例えば宮崎駿の『風立ちぬ』の零戦作った堀越二郎や、原爆作った『オッペンハイマー』と一緒だって思った。

純粋な知の探求は善悪を越えて、すぐに暴力と結びつく危険性があるなって。

#チ球の運動について

https://x.com/mugiwohanomanai/status/1901871270255608304

イラスト

 Twitterを眺めていると時々すごい絵とキャプションだ……というものが流れて来るのでそういうのを貼りたい。孤独とか、分かり合えなさみたいなところが描かれてるのが好きかもしれない。

漫画

『君となら恋をしてみても』という作品が好きだ。いわゆるBL漫画なのだが、対話、自己開示、救済!という感じの良さがある。そういう文脈でいうと『みなと商事コインランドリー』も良い。世代の違いの中で、セクシャリティを大々的に明かすことに対する抵抗感の違いを描いているのがすばらしい。ドラマのシーズン2で出てきた「あんたは他に、誰に何を許されたいんだよ」は本当に名台詞だと思う。

 そもそも、カミングアウトというのは不思議な話である。マジョリティはそんなことをわざわざしないわけで、なんでわざわざマイノリティだけが自分の内面をはっきり言わなくてはいけないのかという不均衡がある(からその仕組みにのりたくないと思ってしまう)。個人的に似てるなと思うのは中高での会話で、そこでは「東大以外に行く」と宣言しなければ、なぜか東大に進学したいと思っていることになる、みたいなことが結構あった。どんな属性であっても、人数比があまりにも偏っているとデフォルト値が設定されてしまう。

 話が逸れたが、そういう救済系の漫画が結構好きである。救済系というとトラディショナルな少女漫画みたいな感じを想像するかもしれないが、なんというか、もう少し人間的な交流を経ているので違う(と自分では思っている)。読もうかなと思っている作品を列挙したい。

  • 鳴かぬ蛍は青に焦がれる(仁嶋中道)
  • どちら様が愛を告ぐ(仁嶋中道)
  • 風の色まで憶えてる(飾)

最近出会った神商業BLのうちのひとつなんだけど、書き下ろしで、男性のみの入場NGのプリクラの描写があって、唸った。 日常に存在しているもやもやする部分とBLが交わったとき、そういう作品に出会ったとき、わたしは嬉しくなる。

「風の色まで憶えてる」(飾 著)
https://t.co/SJpqu4ZwbK

https://x.com/i_wont_survive/status/1911753077712982487

依存

 自分はどうも何かに依存しやすい部分があるように思う。あまりにも「誰か」「何か」一辺倒になってしまい、何らかの形で問題が起きてしまうことがある。自分の内側だけで起きるならまだしも、実際の他者を巻き込むことがないわけではない。

 これはなんとかせにゃならんということで外部の専門知を入れて改善を図っていこうとしているところだが、原因を突き詰めていった時に、友情を持つ対象と恋愛感情を持つ対象が重なりやすいということが今そしてこれからすごく鍵になってくるような気がしている(当然だがこういう自分の意思では決められない原因が少しあるからといって、いろいろな問題を正当化できるものではない)。

 それで、ちょっとうわぁ……となってしまったものがある。あんまり情報商材に誘導する系のバズツイートを拾いたくはないのだが、不用意に刺さってしまったので。「恋愛/メンヘラ/依存」みたいなクリシェに終始してないからちょっと良いかもと思った。

「愛のようでいて、救済ごっこだった」という関係はよくある。それが悪いわけではないけれど「未処理の痛みを持った大人同士が互いにセラピストを演じながら、でも結局どちらもクライエントで、収拾つかなくなって破綻した」というケースは本当に多い。

https://x.com/misuzuchan333/status/1915049763483058466

でもさ、お互いの仮面が外れて「素の魂同士が触れ合えた」瞬間はたびたびあったんだと思う。それは嘘じゃなかったし、たとえ全体が虚構にまみれていても、その一瞬があったならば出会ったことに意味はあったし、だからこそみんな全身全霊で引きずるんだと思う。

https://x.com/misuzuchan333/status/1915050631867596817

 ある知り合いが、幼少期の愛着の不足のために恋人関係にそういう「救済」の要素を入れてくる相手がちょっとしんどくなってきたかもしれないみたいなことを話していて、まあそうなんだろうけどなんだかなぁと思っていたりしたわけだが、両者救済の要素を求める者どうしでもきつい、というのはそうなのかもしれない。

 また別の時に、心療内科に通っている人が恋人なのはしんどいみたいな話がなされる場に居合わせた時があり、「不安定」とかならまだしも病院通い自体にそういう言い方をするのはまあとんでもないスティグマだなと悲しさと怒りとが沸いたこともあった。確かにそういう側面はあるのだけれど、あるのだけれど、露骨にそういうことを他の人に言ってしまうのは、自分の倫理基準的には一発でダメなレベルである。

還元するということ

 中学受験だとか、国立の中・高というものを経てきたために、どこか「自分が得てきたものを社会/大衆に還元せにゃならん」みたいなことを考えている節がある。高校の同期が司法試験を受けたり、国家公務員試験を受けたりしている中で学園祭のことばかりやっていることにもどこか後ろめたいものがあり、特に昨年は「いかに学園祭の活動の中で社会的な課題に取り組むか」みたいなことを模索するような一年だった気がする。

 でもそれに対する反応とかを見ていくと、思っている以上に、求められていないことに気づく。「恵まれた場」で得てきた「恵まれたもの」を提供されることなど、大半の人間は必要としていない。むしろ、自分の態度のパターナリスティックな側面は結構迷惑ですらあるのかもしれない。そうなってくると、問題になってくるのは自分がやりたいかやりたくないか、でしかない。正直なところ、全然違う環境で育ってきた人に、自分が得てきたものをシェアしようと努めることは結構しんどい。対応しているファイル形式が違うから、変換する技術を新しくまた身につけないといけないという感じがある。

 そういう思考過程を経て「もう十分果たせたのではないか」と考えるようになった。決してこれまでが無駄だったとかではなく、もうお返しできたから無理に自分をそっちに向かわそうとしなくていいということである。たとえば3月11日には毎年東日本大震災の追悼の投稿を重ねてきたが、それも続けなくても良いじゃんという気持ちになっている。