書くこと
毎週書くぞみたいなことを前の日記に書いたけれど全然書けていない。もともと、オチというか結論をつけないといけないみたいな強迫観念が強くあるようなので、それを取り払えるようにしないと続けられないような気はする。
3月の後半はかなり気が滅入ってしまっていて、やたらにくよくよしたり、三大欲求のバランスがぐちゃぐちゃになり、異常に寝たり、一切起き上がれずご飯を食べれない日もあったりした。そうなったらすぐに病院を予約せよという話なのだが、どうも電話をするアクションを起こせず、だらだらと日が過ぎていってしまった。先延ばし癖も相まってそうなっているのかもしれない。
どうも抑うつ状態にもバリエーションがあるようで、4年ほど前に体調が悪化した際には判断力の低下により意図せず死を選んでしまうような怖さがあったが、今回はふっと無力感が襲ってきて、そこの間隙に死に向かう決意が入り込んでくるような感覚があった。今回の方が「希死念慮」という言葉の語感がしっくり来た。
その後病院を代理で予約してもらい、処方された抗うつ剤を飲み、意欲がだいぶ回復してきた。こういった薬の欠点は、運転免許を取れないところぐらいである。地方移住の可能性を残しておくためにも、運転免許は学生のうちに取っておきたい。でも、地方移住を考える時というのはたいてい(抗うつ剤を飲むような)比較的健康でないために東京での騒がしい生活に困難さを覚える状態の時であって、いざ薬が抜けて免許が取れるようになるとさほど想定しなくなるから、免許は結局取らないままになりそうな気もしている。
デモ
財務省解体デモというのが話題になっている。正直なところ、「政権与党の議員の政治的誠実さを信頼できるか」と、「行政機関の機能を信頼できるか」は別問題であって、これを紐づけて考えるのはまっとうに職務にあたっている官僚の存在を無視しすぎだろうと思ってしまうのだが、デモに対する冷笑的な言説にもあまり乗れないところがある。
なぜ「自分たちが一番社会保障の恩恵にあずかっていることを自覚できていない」とか「そんな時間があったら働け」とか「境界知能」だとか決めつけて、ずけずけと言えてしまうのかが理解できない。財務省バッシングの誤謬を知っておきながら、利得のためにあえて大衆を扇動する一部の政党の責任こそ問われるべきなのではないかと思わざるを得ない。
経営者の論理
JR6社が通信制高校のサポート校に通う生徒への通学定期券の販売を取りやめようとして学校などから反発を受けていた問題で、JR東日本の喜勢陽一社長は8日の定例記者会見で、「生徒、ご家族、学校関係の皆さまへの配慮に欠けるところがあった。多大な心配をおかけしたことをおわびします」と謝罪した。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/397159
喜勢社長は、来年3月末まで販売を続けるよう方針転換したことを説明した上で、来年4月以降も継続できるよう国やJR各社と協議を進める考えを示した。
この件については、当初、サポート校関係の当事者が問題提起した際に、一部の鉄道ファンが「文科省の省令が原因であるのだから、JRに苦情を入れてもどうしようもない」という趣旨の投稿をしていたことが印象的だった。実際のところ、文科省の省令がきっかけとなって起こっていることである以上理にかなってはいるのだが、投稿によってはどこか戦い方を上から指南しているような印象を与えるようなものもあり、違和感を覚えずにはいられなかった。
一部には、「その利益損失分を誰が補填するのか」と指摘している投稿もあった。このように、いち消費者でしかないユーザーが、あえて経営者の論理を経営者より先回りして代弁して、今まさに経済的に追い詰められようとしている当事者に突きつけて、主張を潰そうとする意味とは何なのだろうか。権威ある企業と自分を同一視したところで、得られるのはかりそめの「偉くなった感」「安定している感」だけであって、決して自己成長にはつながらない。
「街歩き」
「街歩き」を行う有名アカウントが、被差別部落や在日外国人に関する不適切な投稿を行う例が散見される。現在一般的な「街歩き」、言い換えれば、自分の慣れ親しんだ生活空間とは異なる空間に足を踏み入れ、そこに非日常性を見出して楽しむことは、自らと異なるもの(他者)を見世物のように扱って消費する態度と切っても切れない。その点において「街歩き」と差別にはどうも親和性があるように感じてしまう。
じゃあいっそのこと観光地化された場所の方がそういう暴力性から逃れられるのかと言われるとそうではない。沖縄にできる新しいテーマパーク「JUNGLIA」は、しきりに「やんばる」を強調しているものの琉球文化へのリスペクトがなく、ファンタジーの中にある南国の島のイメージでもって塗り替えようとしていると批判されることもある。この場合、観光客の態度というより観光地を作る者の態度が問題視されている。
こうして突き詰めていくと、観光という行為そのものがダメなのではないかという厭世的な気分にもなるが、そういうわけではないとも思う。他者性を楽しむのではなく、むしろ自己との連続性を見出す観光によって、この問題はかなり軽減できるように思う。「違うようだけど、ここは同じ」という部分を見出すことによって、自分の慣れ親しんだ生活空間と自分が踏み入れた場所との間に通路が拓かれ、過度に神格化したり蔑んだりするような誤りが生まれにくくなるように思われる。もちろんその際、自他境界をしっかりして、プライベートな領域には踏み込まないことは大前提である。
低俗なサムネ
TVerのサムネイルが年々低俗になってきているように感じる。テレビ番組の人気を測る指標としてTVerの再生数が重視されるようになってきたことでいかに釣れるかを考えているように思われるが、NCシーンの切り取りなど過度に煽情的なものもあり、正直支持できない。文字の入れ方も、商業的な最適解としてのYouTube的なものにどんどん近づいてきている。

商業化が許せるライン/許せないラインというものがあって、個人的にはテレビ関係でもラテ欄で煽るような文言を書くのは許容できる(慣れもあるのだろうが)。その点NHK+は騒がしくない簡素なサムネイルで安心感がある。

反省会タグ
朝ドラには、通称「反省会タグ」が存在する。これは、朝ドラの展開についての不平不満を視聴者が勝手に「反省」するハッシュタグで、回によってはトレンド入りすることもある。実際にタグを見ていると、マイナスな意見が許される空間の中で起こるエコーチェーンバーの中で作品への不評が過度にエスカレートしていき、出演者やスタッフに対する誹謗中傷へと発展していく様子が見受けられる。
執拗に皇室の特定の家へのバッシングを投稿し続けるアカウントや、こうした執着じみた誹謗中傷を繰り返すアカウントを見ていると、果たしてこれはアカウントの運営者本人にとっても望ましいことなのだろうかと思ってしまう。一時のメンタルの安定、ストレスの発散のためにゆがんだ空間に足を踏み入れ、そのまま出られなくなっているように感じてしまうのである。
Twitter時代から変わらず、Xにおいては賛意一色・非難一色になる標的がいくつかあり、危険性を感じずにはいられない。ここ最近でいえば、任天堂の新作は手放しで褒めるもの、実写版白雪姫はボロボロに貶すものになっている。こうした標的については、賛成することまたは非難することは当たり前で、「どんな言い方で『面白く』賛成して見せるか」「どんな言い方で『面白く』非難して見せるか」という大喜利大会が開かれている状態にある。
合う・合わない
この人とうまくやっていけるか、この界隈でうまくやっていけるかを判断するうえで、最近意識するようになったのはユーモアの合う・合わないである。
たとえば自分は、性自認の問題をもじって「車自認」のように言うようなユーモアが苦手である。多くの人の血と涙で築かれた概念をそう軽々しく扱おうと自分には思えない。また同様に、メンタルヘルス関連の用語や、「脳死」「老害」「地雷」あたりの言葉を軽々しく使うようなユーモアも年々あまり受け付けなくなってきた。少し考えすぎな気はしているのだが、そこの倫理観を手放すことは人間性を捨てることのように思ってしまう。一方で、地域差に関するユーモアに関しては感覚が鈍いというか、そこは踏み込んじゃだめだと思う人もいるだろうなと思うようなユーモアに笑っている部分があるように思う。
「点」で見ない
自分の感覚として、犯罪を犯した人を罰するというのは、あくまでも特定の犯罪行為(「点」)についてその人の責任を認定することでしかなく、その点に至るまでの道のりすべて(「線」)の責任をその人に被せるというものではないように思う。ただ、広末涼子に関する報道やそれに関する人々の反応を見ていて、どうも「点」と「線」を同一視する思考が持たれがちなのかもしれないと思った。
確かにその犯罪行為は悪いのだけれど、そこに至る道を舗装したのは家庭・世間ではないのか?という事例など枚挙にいとまがない。少年犯罪なんてその最たるものだが、どうも世間は被害者心情に入り込みやすいようである。加害者も自分と同じ人間であって、自分自身も場合によっては加害者になっていたかもしれないと想定しつつも被害者心情に寄り添っているのか、そもそも加害者だった/加害者になる可能性を想定できていないのかは分からないが、もし後者だったらとんだ不見識であると思ってしまう。
バウンダリー
最近知った『いやはや熱海くん』という漫画がとても良い作品だった。会話劇としての軽妙さと、同性愛表象の解像度の高さ。
熱海くんは学年イチの美形で、惚れっぽくて、男の人が好き。
https://www.kadokawa.co.jp/product/322209001567/
「僕の顔が良いばっかりに……」
毎日のように女子に告白される高校生の熱海くん。
でも、彼が好きになるのは男の人で――。
ナチュラルな台詞が持ち味の新鋭・田沼朝が描く、モテる男子のままならぬ恋と日常。
特によかったのがこの場面。ちゃんと考えるし言語化もできるけど、ネガティブに着地しない感じ。



「出て来る人たち皆バウンダリーがしっかりしているのが良い」と評するコメントがあり、まさにそんな感じがした。どうも自分の行動を振り返ってみると、バウンダリーの意識が甘い部分があり、この場面のような思考に入ると精神的な耐えられなさが出てきてしまうので、なるほどなと感じさせられた。他者を回避しすぎず、だからといって近すぎず(依存しすぎず)という塩梅の見極めに難儀するのは、生来の特性によるとも、幼少期のアタッチメントの不足によるとも考えられて、正直原因はよく分からないのだけれど、そのあたりも含めてなんとかせにゃならんなと思っている今の自分にとって、これはかなり鍵になる作品だと感じた。
カウンセリング
「なんとかせにゃならん」と書いたが、じゃあ具体的にどうするかというと、とにかく専門知に頼るしかないなと思っている。ここ1,2年いろいろあって、他者に話すことによって他者にとって負荷になりうるようなテーマが自分の中に多すぎる場合、対話の中でのケアを知人に求めていくのは、いくら話す相手を分散させたとて相手の心を破滅させてしまうと感じる一方なので、カウンセリングを積極的に活用していきたいなと思っている。
真偽は定かではないが下のような話があって、自己成長こそが重要で、「あえて本来の自分自身よりも大きい自分の像を他者に見せることで、それに追いつこうとして自己成長が促進される」という手法にはまってしまい、そこから本気で降りる気もない身からすると、じゃあカウンセリング使うしかないよねという感じではある。
アメリカでなぜこんなにカウンセリングが流行るか考えてみたけど、アメリカ人って明るくオープンに見えて、知り合いに弱みを見せるなどもってのほか、本当の意味での自己開示なんか一切しない人が多い。
https://x.com/MetisOracle/status/1907327994789769556
日本人の雑談は自分の悩み、弱み愚痴をシェアすることで成り立ってるけど、アメリカ人の雑談は
自分がいかに物知りで良いこと言ってるかが大切で、弱みを出せる場がカウンセリングしか無いんだろうね。
でも、カウンセリングでの自己開示が難しいことも理解している。それに、カウンセリングってひたすら傾聴しかされないので、厳しいことを言って欲しさもある。自分が求めているのは、認知行動療法のような「治療」に近いものである。そもそも、発達障がいやパーソナリティ障がいなどと認められるようなレベルなのかどうかなど調べてほしい部分もあるが、そういうのってどうすればいいのかもよく分からない。名前だけ欲しがっているようでどうなんだろうとは思いつつも、しっかり診断が下りれば自分にとっての枷というか、深刻なハレーションを起こさないように行動を強く制御する意識づけには繋がると思うので、確かめるだけ確かめたい。インターネット上でコンサータを飲んでることに言及してる人結構多いように感じるけれど、どうやってたどり着いてるんだろうか……。
全体的に「そういうの」って、まともな治療にアクセスするまでに探さなきゃいけない情報、やらないといけない手続きが多すぎて、本来治療を受けるべきなのにその自覚すらない人、自覚はあってもきちんとたどり着けない人が相当多いんじゃないかという気がしてしまう。