日記
週1回程度のペースで、なんとなく思ったことを書き留めておきたい。それを他者に見えうる場所に置いておきたい。ただ、SNS上に書くのは憚られる。分析され、カテゴライズされ、何かに加勢させてしまうのは、嫌というより率直に怖い。それに、あまりにも見られすぎると、自分語りをしづらいし、言葉を正しく使おうとしすぎてしまう。そこで、noindexをかけてある(検索エンジンには引っかからない)このサイトを使う形にした。
「つながりすぎてはいけない」……その言葉がよぎると連想ゲーム的に思い出す文章がある。この文章、自分にとっては憧れでもあり、支えでもある。
劇団側は観客動員数を増やしていきたいので、「ファン」や「推し」を囲い込み、サークル化していく。そのサークルの存在は、芝居や劇団にとっては重要だろうが、文学者としては邪魔でしかない。劇作家は、そのサークルの中に入ってはいけない。お仲間になってはいけない。徒党を組んではいけない。徒党を組む人というのは、限りなく貧相だ。貧相な文学者は、貧相な作品しか書けない、とわたしは思う。
第65回岸田國士戯曲賞に寄せて|柳美里 https://webgenron.com/articles/gb065_02
悪い相対主義
「さす九」の話題が盛り上がっている。どうも自分は地域差別への意識が低い感じがあり、女性差別を問題提起するこの表現が地域差別になっていてはどうなんだ、という話はまあ刺さる。ただ、一部で結局女性差別も「さす九」も同レベルのもので良くない、どっちもダメ、というような話が出ていることには違和感を禁じ得ない。確かに良くはないのだが、「正しい」言い方をしないと差別を糾弾できないかのような言いようはどうなのかと思う。他の属性への差別になるのだからよくないなんて、俯瞰してあれこれ考えられるその余裕みたいなものって、熾烈な差別を受けている人にはないのではないだろうか。自分が過ごしている中で、世間的に「賢い」とされる人ほど、こういう思考スタイルに陥ってしまいがちなように思う。確かにどっちが良くてどっちが悪いとかそんな単純な構図に落とし込んでしまうことへの危機感はわかるのだが、結果として言葉足らずになって「どっちもどっち」のような悪しき相対主義に基づく論になっていないだろうか。カテゴライズされづらいほど重厚な注釈付きの勝負付けみたいなのをもう少しできないのかな、と思ってしまう。
3月11日になると毎年アンサイクロペディアの記事の話が流れてくる。これもそういう文脈でうーん……と感じる。
2011年の3月11日には宮城県沖を震源とする東日本大震災が発生した。それを受けて翌年以降3月11日は震災を考える日として黙祷をささげ決意を新たにする日だという人たちもいる。ただ誰かにとって祈るべき日は誰かにとっての誕生日であり結婚記念日であったりもするのだ。だからこそ今日はあくまで普通の日である。震災関連ではないイベントを開くことや、地震のことを考えないでいることを不謹慎と批判するのはおかしい。3月11日は前を向いて生きていく366日のうちの一日であり、普段と同じように、楽しむことは楽しみ頑張るべきことは頑張る日なのだ。
復興を祈る心は当然必要である。しかし、同時に誰かの幸せを祝う気持ちも忘れてはならない。
確かに、3月11日の捉え方は難しい。3月11日に東北で生まれたアイドルが、同じグループの他のメンバー6人と違ってインスタのIDに誕生日の数字を入れていない理由とかに勝手に思いをはせると、3月11日を一面的に捉えるべきではない、自粛ムードは良くない、というような論調は理解できる。ただ全体的に言葉足らずというか、「だからこそ今日はあくまで普通の日である」という表現などに不十分さを強く感じてしまう。少なくとも日本社会にとって、3月11日が普通の日というのは相対化しすぎというか、かなり無理がある。「不謹慎」批判としての有効性はあれど、着地のさせ方に乱暴さがあるのではと思う。
語り部
東京大空襲に関するニュースの中で、戦後世代が語り部をどう担うかという話が取り上げられた。インターネットでは大燃えしていたが、ただ一括りにまとめられている批判者の中でもだいぶ言っていることが違うように思える。
高校教諭として働いていた上田祥子さん(47)が去年10月に二瓶さんから空襲の経験を聞き取りました。今月7日には、東京・八王子の南多摩中等教育学校で3年の生徒に対し二瓶さんが目にした光景や感じた恐怖を「わたし」ということばで伝えました。国語教諭の経験から「二瓶さん」という3人称を使うより「わたし」という1人称で伝えるほうが自分ごととして理解しやすいと考えているからです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250310/k10014744621000.html
個人的にはそこまで悪くない取り組みだと思っている。真実性を考えると「実際の体験者の話を映像資料にすべき」とか「解説員だけでいい」とか思うのは分かるが、映像資料や客観情報だけだと学習者に差し迫れない部分は往々にあると思う。朗読劇の一つとしての位置づけをはっきりしさせすれば問題ないだろう。
そもそも大前提として、実際の体験者であれ、語り部の語る内容の真実性はそこまで高くない。辛い出来事であればあるほど、記憶が混濁して、正確に語ることは難しくなる。その意味で実際に体験しているか、戦後生まれかはさほど大きな問題ではないように思える。どちらかというと気にするべきなのは、「当事者だから」「当事者が言ったことを引き継いでいるから」という権威性の問題のように思う。差し迫ってくるがゆえに、それのみが最上のものであるかのように感じてしまいがちだが、そうではない。語り部の価値は当該事象に対する強力な入り口を提供することであり、その先に、きちんと客観的事実が用意されている必要がある。
当事者性の強さというのは難しい。「当事者だから」と言ってしまえば、誤謬が含まれていても指摘しづらく、ある種無敵の状態になることがある。自分自身が何らかの当事者性を有する物事に言及するときは、その権威性をどうコントロールするかが問題になってくる。でも、当事者性を有しないような体裁でいつつ当事者性を有する物事に言及するのは精神的な負担が大きすぎる。ちょっと話がずれるが、当事者性というのは自分の中に不用意に自信をもたらすものでもあり、「この分野のことなら自分は理解している」という驕りが生まれてくるのも恐ろしい。
とここまで書いて、阪神・淡路大震災の伝承に関する報道を思い出した。質問文をはじめとしてデータとしての信用度にはなんともいえなさを感じなくもないが、印象的なグラフだった。

防災知識ぐらい能動的に調べればいいのではとか両方混ぜればいいじゃんと思ってならないのだが、こういう二項対立が考えられてしまうほど、語り部というものが独立的な運用をされすぎていたのかもしれないと思う。実際にあった出来事の情報や、実用的な情報の提供と組み合わせるのが今後の活路なのかもしれない。
助けようと思えない人こそ
ここ一年ぐらいの個人的なテーマとして、感情的に助けようと思えない人を助ける必要性の問題がある。おそらく、映画館の車いす対応の問題が話題になってから……?
生活の様々な場面で他者のサポートを必要とする人に対する感謝の強要の問題がある。たとえば成人した障がい者の場合、生活のあらゆる場面で同じ人がサポートし続けるわけではなく、公共交通機関や商業施設など場面によってサポートしてもらう人が異なることが考えられるだろう。では、その一人ひとりに対して障がい者は感謝すべきなのだろうか。それは障がい者に対して常時感情労働の負担を負わせているだけなのではないだろうか。サポートをするのは人間だから、「サポートされて当然」という態度の障がい者と、「わざわざありがとうございます」という態度の障がい者だったら、後者の方を優先するのは当然なのかもしれない。でも、それは正しいのだろうか。Reasonable accommodationを合理的「配慮」と訳すことに批判があるが、これはまさにサポートがあたかも「思いやり」「プラスアルファの気遣い」「感謝されるべき道徳的行為」であるかのような誤解を招くという問題があるだろう。本来は合理的な「調整」なのだから、感謝などなくても、当然やるべきなのではないだろうか。
本当に助けなければいけない人は、助けようと思いたくなるような姿をしていないのではないか、という、よく言われる話は本当だという気持ちがある。サポートに対する感謝を見せる余裕すらない、反抗的な態度すら見せる、そんな相手も含めて助けることが、理想的な社会のあり方なのではないかと思う。確か河合隼雄もそういうことを書いていた気がするんだけれど思い出せない。最近初めて仮面ライダー一作品を通して見て、ここの問題が描かれているのがすばらしいと思った。ヒーローたるもの、敵対的な言動をする人であっても助けなければいけない。
これはまさに福祉に通じる考え方だと思うのだが、ちょうど自分が観ていたライダーの主演俳優が福祉関連のWebムービーに出ていて、素晴らしい仕事だと思った。きちんと当事者に演じてもらっているところも含め、行き届いているなと。
仮面ライダー
仮面ライダーを見ていないということがなぜかずっと引っかかっていた。「男の子」をちゃんとできていないというような感情が自分の中には強くあって、その始まりがここだと思っているのかもしれない。『ゼロワン』しかり『リバイス』しかり『ギーツ』しかり、観たくても観れない作品が続いていたところ、久々に時間ができたので、『ガッチャード』を観た。50話、多い。1年間にわたって一作品をやるのなんて、大河・仮面ライダー・戦隊ぐらいしかないわけだが、いまどきこういう形態を維持しているのは本当に意義のあることだと思う。
こんなに難しいんですね……というのが正直なところである。『ガッチャード』の作風は明るい方らしいが、それでもかなり暗く感じた。そこらへんの深夜ドラマよりずっと複雑なことをやっている。特に好きだったのは38話、胎内をイメージしたであろう空間の中で自分の生きる道を問い直し、殻を破って生まれ直す回。かなりエヴァ。これに限らず、エヴァって本当に特撮の論理で作ってたんだなというのがしみじみ理解できた。

次いで観たVシネマも良かった。舞台挨拶は出演者皆万感の思いといった感じで、言葉に重みがあった。直前に見たゲド戦記と扱っているテーマがほぼ同じで、まさに「生きることを怖がっている」人の話だった。結婚式場で、好きだった相手の結婚に「おめでとう」と言ってそのまま終わるという結末が、少し前に自分が作ったプロジェクションマッピングと同じだったことに驚いた。このタイミングでドンピシャの作品に巡り合えたことに感謝したい。必要な時に必要な作品に出会える運みたいなものがあるのだとしたら、相当恵まれているほうだと思う。
視線
曲を聴いて感じるイメージが綺麗に出力されている良いMVだったが、ところどころ気になるカットがあった。


MV自体の本筋には関係なく、こういう視線を「わざわざ」描いており、クィアリーディングができなくもない。別に不自然というほどではないので大半のファンもその読み方をしていないし、フックにする気はなさそうなのでクィアべイティングとはいえないはず……。類似の例は同じ事務所の他のグループにも。

原因は自分にある。はつい最近の曲でもそのあたり意識している旨を出していたのでまあなくはないのだろうな、と思っている。クィアを描いた作品に出演したメンバーが一定数いるグループがこういう感じを出してくるのはかなり良い傾向ではないだろうか。
「小説ならば」の歌詞は敢えて性別を言及していないんです。だから、誰でも、どんな捉え方でも、刺さるポイントは多いと思います。
https://e.usen.com/interview/interview-original/genjibu-tetrahedron.html
読んだ記事
実際にはかなり前に初めて読んだが、印象的だったので。何かを作る際には、幼さゆえの自意識過剰にひどく似通ったような、作品の影響力への過度な意識みたいなものが生じる感覚は分からなくてはない。
ただ、その本筋が見えづらくなるぐらい文章表現がすごい……。とはいえ、ブログたるもの、どんな場面においても「初カキコ…ども」的なるものから逃れようとして、実際に存在する自分の未熟さを覆い隠そうとする文章ばかり書いてしまうのはどうなんだという思いもある。これは、こういうので良いだろという開き直りというより、未熟さを文字列の形で直視できなくなることへの恐れなのかなと思っている。