- この記事について
- 精神障害の分類
- 精神障害(Mental disorder)
- パニック障害(Panic disorder,6B01)
- 強迫性障害(Obsessive–compulsive disorder、6B20)
- うつ病(Major depressive disorder 又はDepressive episode又は Depressive disorders、ここ)
- 適応障害(Adjustment disorder 、6B43)
- PTSD(Post Traumatic Stress Disorder 、6B40)
- 実感として
- 併発したもの:数字へのこだわり(強迫性障害的)
- 併発したもの: 広場恐怖(パニック障害的)
- 併発したもの: 特定の状況を思い出させる場面・相手への恐怖(PTSD的)
この記事について
コロナ禍になって以降、うつ病やうつ状態に悩まされる人は倍増したといわれている。
調査によると、日本では、うつ病やうつ状態の人の割合は、新型コロナが流行する前は7・9%(2013年調査)だったが、20年には17・3%と2・2倍になっていた。
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20210619-OYT1T50169/
また、コロナ禍以前から、5人に1人が生涯のうち1回は精神的な不調に悩まされるといわれている。
こころの病気で病院に通院や入院をしている人たちは、国内で約420万人にのぼりますが(平成29年)、これは日本人のおよそ30人に1人の割合です。生涯を通じて5人に1人がこころの病気にかかるともいわれています。こころの病気は特別な人がかかるものではなく、誰でもかかる可能性のある病気といえるでしょう。
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/first/first01.html
しかし、ここ1年、適応障害を公表した深田恭子さんや、うつ病を公表した大坂なおみさん、複雑性PTSDを公表した小室眞子さんなど、心の不調を公表する著名人に対して投げかけられる言葉を見ていると、必ずしも理解が進んでいるとは言えない現状が浮かび上がってくる。
そういう様子を見ていると、心の調子を整える場としてのカウンセリングもあまり受けず(日本人は欧米諸国に比べてカウンセリングを受ける頻度が少ないと言われている)、そういう不調をどこか遠くの話のように思って、自分や周りの人の不調を理解する努力を怠ってきている人が多いのではないか……と思わずにはいられない。
うつ病について理解することは、何も (そもそもこういう茶化した表現は嫌いだが) 「理解ある彼くん」になるためだけにあるのではない。自分の不調を見逃して戻れないところまで行ってしまうことを防ぐ、つまり自分を守るためにも大事なのだ。この記事は、 昨年(2021年)1月15日に診断が下り、 今まさに治療中の適応障害・うつ病について、その推移や症状等についてまとめたものである。 少しでも参考になる部分があれば幸いだ。
注:ここに書かれていることはあくまで自分個人の経験・自分個人の意見にすぎず、あくまで個人のまとまった備忘録としてのレベルを超えません。
なお、記事内では「こういう対応が望ましい」といった書き方をする場合がありますが、これまで自分に対してそのような対応が無かったことを非難したり今後そのような対応をしてほしいと要求したりしているわけではなく、ケーススタディーとして、こういう発想に至る人間もいるということを知ってほしい(単に周りの人に向き合う際に参考にしてほしい)だけのことですので、その点ご了承ください。顔見知りの人も読む可能性があるので念のため記しておきます。
精神障害の分類
こういった精神障害の診断名については、訳語が必ずしも適当とは言えない部分もあり、どれとどれが対等な位置にあり、同じぐらいの抽象度をもつ言葉なのか分かりにくくなっている。
比較的分かりやすい適応障害とうつ病の違いは色々なWebサイトで書かれているが、それ以外の違いは後述する通り症状が似通っていたり併発率が高いこともあって極めてあいまいである。今回は、WHOによるICD-11(国際疾病分類、まだ発効前の最新のものなので正式な日本語訳はおそらく公開されていない)を参考に、精神障害を腑分けし、症状の説明をしていきたい。
なお、この分類とは別に、米国精神医学会によるDSM-5も広く使われているため、すべての診断がICDに基づいているわけではない点を断っておく。
精神障害(Mental disorder)
現在、mental disorderの正式な日本語訳は「精神障害」とされているが、一般的には「精神疾患」のほうがよく知られているのではないだろうか。実際、周知を目的にした 厚生労働省のホームページでは、括弧書きで disorderをdiseaseと同義の語として訳した「精神疾患」が使われている。
個人的には、「障害」という言葉で訳すとそれはそれでdisability(能力障害)とdisorderの区別が付けられなくなり、支援において“disabilityではなくdisorderへ向き合い、orderを取り戻す”という意識が希薄になるため、「失調」のほうが的確だと思っている(発達障害の類でも同様)。精神障害の関連では、 disorder という言葉が入っていない「統合失調症」(Schizophrenia)のみそのニュアンスが生きているが、そもそもこの名前も、ドイツ語の「分離」 (schizo) 「精神障害」 (phrenia) という原義に近い「精神分裂病」が偏見を防ぐために変更されてできたという複雑な経緯がある。
パニック障害(Panic disorder,6B01)
ICD11では「不安・恐怖に関わる障害」( Anxiety or fear-related disorders、 ICD11 )に含まれる。 この項目の下位に属する項目はない。不可逆的であるという誤解を招くからという理由もあって「パニック障害」を「パニック症」にする動きも出てきている。 これも、前述の通り「パニック失調」か、PTSD同様略語で良いのではないかと思ってしまうが……。
具体的な症状としては、予期不能なパニック発作(動悸、息切れ、眩暈等が一気に発生する事)が挙げられる。また、その発作が発生することを過度に恐怖の対象とする。発作が起こったときに助けを得づらい場所、逃げづらい場所、迷惑をかける場所(とりわけ公共交通機関、また人が多い場所)を頑なに避けようとする「広場恐怖」が生じる場合もある。
強迫性障害(Obsessive–compulsive disorder、6B20)
ICD11では、「強迫性およびそれに関連する失調」(Obsessive-compulsive or related disorders、ここ)に含まれる。 この項目の下位には、「穏当・良好な洞察を伴う強迫性障害」(6B20.0、Obsessive-compulsive disorder with fair to good insight)などが含まれる。
具体的な症状としては、強迫的な観念、たとえば自分は人に危害を加えてしまったのではないか(加害恐怖)、自分は汚れているのではないか(不潔恐怖)、家の鍵を閉め忘れているのではないかといった考えが強く生じ、その結果 自分でもそれは意味がないと半ば自覚しているはずなのに不安を和らげるために何度も人に尋ねたり入浴したりする等の確認行為、また常に特定の手順で物事を進めようとする儀式行為を繰り返すほか、数字や物の配置への強いこだわりが生じることが挙げられる。
うつ病(Major depressive disorder 又はDepressive episode又は Depressive disorders、ここ)
英語名はClinical depressionというよりかは、Major depressive disorder(奇妙すぎる訳語でいうと「大うつ病性障害」)という名称がやや正確。
ICD10では「気分障害」(Mood disorders、F3x)の中に「うつ病エピソード」(Depressive episode、F32)という一ジャンルとして設けられ、下位には「軽症うつ病エピソード」(Mild depressive episode、F32.0)などの症状別の分別がなされていた。
しかし、ICD11では「気分障害」(Mood disorders、ここ)の含まれるものの一つである「うつ病」(Depressive disorders)として設けられ、下位には 「単一エピソード(≒症状)のうつ病」(Single episode depressive disorder、6A70)などいくつかの項目が用意され、さらにその下位にも「非再発かつ単一エピソードのうつ病」( Single episode depressive disorder, mild、6A70.0)などの項目が用意されている。つまり、強迫性障害と同じ階層にある項目(記号4桁)は、「うつ病」ではなく「単一エピソードのうつ病」であり、「うつ病」とはやや広い概念であるということになる。
なお、うつ病というジャンルの中に双極性障害が含まれるとする見解もあるが、ICD11では分離した項目になっており、双極性障害は「双極性障害Ⅰ型」(Bipolar type I disorder、6A60)やその下位の「双極性障害Ⅰ型、現在のエピソード躁病、精神病症状なし」(Bipolar type I disorder, current episode manic, without psychotic symptoms、6A60.0)などを包括するジャンル「双極性およびそれに関連する失調」 (Bipolar or related disorders、ここ) として扱われており、 うつ病と同じ階層に位置する名称となっている。
うつ病の具体的な症状は、抑うつ(気分の落ち込み)気分、意欲の低下など。著しい気分の高揚を伴うものは双極性障害である可能性があるため、うつ病とは区別される必要がある。
適応障害(Adjustment disorder 、6B43)
ICD11では「とりわけストレスに関わる失調」(Disorders specifically associated with stress、ここ)に含まれる。
新しい又は特殊な環境に適応できない時、ストレスの原因となる状況が生じてから1ヶ月以内に症状が現れる。その状況が長期的に続かない限り、半年以内に解決することが多いとされる。具体的な症状としては、抑うつ(気分の落ち込み)気分、意欲の低下など。
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder 、6B40)
ICD11では「とりわけストレスに関わる失調」(Disorders specifically associated with stress、ここ)に含まれる。 なお、ICD11では、複雑性PTSD(Complex post traumatic stress disorder、6B41)とは分離されている。
生命の危機にも匹敵するような恐ろしいトラウマ体験がきっかけとなって生じる。その出来事がフラッシュバックしたり、その出来事を思い出させるような(とりわけその出来事を似通った状況を生む)物事や人を極度に避けようとしたり、今もなお生命の危機が続いているという認識が続いたりという症状が現れる。
実感として
診断名だけでなく診断基準も更新に更新が重ねられている分野であるため断定的なことは言えないが、自分の実感から見て、よく名前を聞くパニック障害、うつ病、強迫性障害、適応障害の違いをまとめてみた。
まず、適応障害というのは基本的に「環境が変われば改善するうつ病」と考えて良い。症状自体は職場や学校を離れることで改善することが多い。
しかし、この適応障害が悪化すると、環境を変えても改善しない状態に突入する。不可逆的なイメージのある「障害」という名がついたものが悪化して一時的なイメージのある「病」という名がついたものになるというのは日本語だと分かりにくいように感じられるかもしれないが、 英語名ではどちらもdisorder(失調)である 。
そして、悪化した結果発症するうつ病は、他の障害とほぼ確実に併発する(パニック障害や強迫性障害の症状が一部出てくる)と考えて良いと思う。 診断するうえでの分類はしっかりなされているとはいえ、実際の症状は限りなくボーダーレスに自分を襲ってくる。以下、併発した症状を挙げてみる。
併発したもの:数字へのこだわり(強迫性障害的)
特定の日から何日経ったということに異様なこだわりを持つようになった。
併発したもの: 広場恐怖(パニック障害的)
人混みに遭遇した時に目を背ける、または目を閉じるようになった。特に状態が悪かった2021年1月および7~9月、2022年1月下旬は、教室でテストや授業を受けることに困難を感じた。
併発したもの: 特定の状況を思い出させる場面・相手への恐怖(PTSD的)
とりわけトラウマ的経験になっている2019年末~2020年初頭ごろに関わった人と会うことに対する若干の抵抗、またその期間に知り合った人やその時期のどこかで関係が良くなかった人と会うことに対する強い抵抗を覚えるようになった。2021年の共通テスト受験時には、この症状の悪化により、知り合いに会わないバスを使って帰宅することになった。
また、その時期に一緒に仕事をしていた人と関わりながらその時期の文化祭準備に似た作業(単純な書類づくり、相互連絡を含む)をすることに拒否感を覚えることもよくある。そもそもデスクワークそのものに対する拒否感もあるため、 今後そういう形で働く場所で勤められるかどうかは正直分からない。
なお、ここでいう「拒否感」というのは、体の一部としての心(脳)が拒否をするものであり、自分で「あれは嫌だったな」とか「自分にあの頃のような負荷がかかってしまうな」とかいちいち考えて拒否しているというものではない。なんだかよく分からないけれど急に異常な恐怖感と不安感に見舞われるのである。
自分自身、これまで通りの物事・人に関わりたいという気持ちが強くあるが故に関わる機会を作ったり引き受けたりすることは多いが、そこに自分の体(脳)が追い付かず、意図しない形で一時停止やキャンセルが必要になる場合がある。ただ、そういう形で相手を振り回してしまうことを避けようとして最初からそういう機会の追求を放棄することこそ最も危険な行為であると分かっているので、関わりたいという気持ちは維持したいと考えるが、それには周りの理解が必要不可欠になってくる。
服用薬・病状・受診状況の推移
一度うつ状態になり、薬を飲み始めるとどれぐらいかかるか。様々な説があるが、自分の経験からいえば、安定するまでにおよそ3か月、そこから再発防止の為の服用が2ヶ月、そこから徐々に減量して3か月。ものすごく順調にいけばおよそ半年強で薬が抜けるはずである。しかし、目途を意識しすぎるのはかえって心理的負荷になるから禁物だ。
下記の通り、自分の場合は減量の開始時まではかなり早いスピードで快復したが、そこから一回のオーバードーズ(急激な精神不安定による多量摂取)を挟み、行ったり来たりを2022年2月末現在もなお繰り返しており、終了の目途が立っていない。
推移年表(~2020年)
- 2019年の下半期~ 徐々に状態が悪化、抑うつ気分、急に涙が出てくる症状が頻繁に現れる
- 2019年12月頃 強いストレスを感じたときに耳をひっかく癖があり、耳が荒れる
- 2020年3月半ば 適応障害と診断される状態であることを把握
- (2020年4月7日 緊急事態宣言発令)
- (2020年5月25日 緊急事態宣言解除)
- 2020年6月6日 著しい体調不良に見舞われる(これが2度の入院に繋がる)
- 2020年6月頃 頻繁に頭痛が生じるようになる
- 2020年6月頃 退学を検討
- 2020年7月3日 相談・診療の際に使用する、経緯をまとめた文書を作る
- 2020年7月18日 このまま通学を継続することを決める
- 2020年8月6日頃 再び著しい体調不良に見舞われる(これで日帰り入院が決定)
- 2020年8月31日 日帰り入院
- 2020年9月 11月上旬予定の入院までは学業を完全に停止する旨家庭内で合意する
- 2020年10月 頭痛が週2~3日に達する
- 2020年10月12日~16日 予定が早まって入院
- 2020年11月 眩暈、吐き気、耳鳴りが現れるようになる
- 2020年12月 3月末まで学業を完全に停止し、休養とする旨家庭内で合意する
- 2020年12月下旬 頭痛が週3~4回に達し、ほぼ毎日涙が出てくる状態が続く。年賀状やレポートが執筆不能になり放置。日付が変わる前に寝ても深夜に目が覚めてそのまましばらく寝付けず、朝が来ることへの不安感が強いまま夜が明けることが増える。マスクをしても息が詰まる感覚になり外出が困難になる。
推移年表(2021年)
あまりに状態が悪く自分で心療内科を予約する気力もなかったため、予約を依頼する文書をリビングに置いておいた。この文中でも触れている通り、相手の顔色が見える状態で自分の状況を話すことの負荷が大きいと感じたため、文書で出すこととした。当時は、自分の症状の重さが否定されるのではないか……と根拠のない不安感が渦巻いていたことを覚えている。
9か月前より、些細な不安が一瞬のうちに膨れ上がり大きな不安感や無気力に襲われることや、急に涙が出てくることが多くなってきました。また、半年前から頭痛が出始め、ここ1,2か月では眩暈や吐き気、耳鳴りも多くなってきました。日付が変わる前に寝ても深夜に目が覚めてそのまましばらく寝付けず、朝が来ることへの不安感が強いまま夜が明けて8時頃になってようやくまた寝れるようになるような症状も出ており、分割して睡眠することによる金縛りも酷くなっています(元々は、文化祭等で生活習慣が乱れても一度日付が変わる前に寝てしまえば朝までそのまま寝れる体質でした)。時折食べること、お風呂に入ること、ゴミをゴミ箱に捨てることが異常なほどに億劫になることもあります。これまででは簡単に出来ていた優先順位づけができず、レポートの提出が遅れたり、学校からのメールの返信が遅れたり、年賀状を書くのが遅れたり、絶対に有り得ないようなことも増えてきました。
できるだけ調べ、努力し、最初に窓口への相談を考え始めた3月から9か月以上をかけて改善のために取れる手段はすべて取りました。しかし、外出しようにも、すぐ疲れてしまううえに、マスクのせいもあって息が詰まるような感覚があり、電車でどこかへ行くことが怖いようなレベルです。近頃の様子を見ていれば分かると思いますが、正直もう持つか持たないか瀬戸際のところにいます。これ以上自力でなんとかすることはもう出来ないですし、ここまで耐えられたのは偶然に過ぎません。このままの精神状態で生活し続けられる気がしません。こういう文章を書く試みも何度もしてきましたが、こういうものを書くこと自体、相当元気なときにしかできない状態です。
そのため、心療内科を受診したいです。受診についても調べることはしてきましたが、予約電話ができるような気力もありません。予約をお願いしたいです。また、病院予約の日時や場所等最低限必要なことであれば全然問題ないのですが、何か言葉にしてしまうとその場では大丈夫でもいくらか経った後に精神的に響いてくることが多く、病院に行って受診するまでの段階であまりこの件について話すのは状態を悪化させかねない(信用していないとか話したくないわけではなく、そういう行動を取った時に自分の状態がどうなるか予測ができない)ため、できるだけ詳細な話は避けてもらえると助かります。
「今の状態について、お願いについて」と題をつけた文章
- 1月上旬 心療内科を予約
- (1月8日 緊急事態宣言発令)
- 1月15日 心療内科(1回目)
- 1月15日~ ミルタザピン30mg、モサプリドクエン酸塩5mg、(頓服)エチゾラム0.5mg
副作用が強いので一旦睡眠薬系の軽めの薬から始めることも提案されたが、あまりにも状態が悪く一刻を争う状況だったため強い薬を依頼した。もちろん最初は副作用が異様に強く出るため辛抱が必要ではあったが、著しい回復を見せた。とはいえまだ回復途上であるという自覚があったため、3月頃の外出復帰を想定。
- 1月29日 心療内科(2回目)
- 2月19日 心療内科(3回目)
- 2月19日~ ミルタザピン30mg、(頓服)エチゾラム0.5mg
感染状況の落ち着きも影響してか、 引き続き急激に回復した。今後ある程度回復スピードが落ちてくることを想定しつつも、概ね夏頃には落ち着く目途が立つ。
この時期、「ゴールを設定してそれを意識すること」とうつ病との相性の悪さ(詳細は後述)を理解するようになり、追加でこのような文書を作っていた。
卒業後に設定することになるであろうゴールについて、今時点での考え方を伝えておきます。少しでも理解を共有したうえで、今の状態を乗り超えていきたいと思っています。
現在も薬により頻度は減りつつも不安に襲われることは時折あり、また薬の副作用としては特に傾眠(意識障害)が強くあり、このような状態を続けたいわけではなく、早急に目標を定めたいという気持ちはあります。そんなに不真面目なわけではないというのは十分分かってくれると思います。
しかし、長い間この状態で生活する中分かってきたこととして、大きな目標をはっきり設定してしまうと、毎日の生活の中でそれに反した行動をとったとき異常なほど自分が許せなくなって、むしろ状態が逆戻りしてしまう、ということがあります。目標に反した形で時間を過ごした時にその分だけ進めなくなるというだけではなく、責めることにより逆戻りし、場合によって逆戻りしたことに対してさらに責めてしまって更に逆戻りしてしまうという問題があります。
責めることが無意味である、また責めたくはないとは思いつつも責めてしまう(強迫的な部分がかなりある)のがこの病気です。こういうことを言うのは嫌ですが、「ゴールから逆算して考えろ」論と今の自分の状態の相性はものすごく悪いです。文化祭時何とか続けられたのは、デザインや書類事務というものは9月に入ってからいくつも同じぐらいに大事なゴールがあり、「本番」という一発勝負のゴールを強く意識する企画制作と違って、はっきりとした大きな1個のゴールを意識せずに済んだからです。特に去年は外部のお客さんがおらず、本番の本番らしさがなかった分、気持ちとしては特に楽でした。
もちろん、今後ゴールは設定しないといけないとは思いますが、あまりそれを意識した状態で日々を過ごすのはすごく辛く、いつ服薬前の状態にも戻るかもわからない危ういことであるという点について理解を貰いたいです。また、もう1点、自分が自分の状態を言い表すときに、治療上の必要度が高いお医者さんに伝えるとき以外の場面では、あまり深刻な表現を使わないようにしています。これは、自分が辿らなければいけない道がものすごく長いものであると思わないようにするための自衛です。この点についても、理解してもらいたいです。
「パラダイムシフト」というタイトルの漫画がネット上にあがっています(「パラダイムシフト 漫画」で検索すれば出てきます)。一度目を通してもらえると、情報のキャッチが難しく、垂れ流しのテレビをちらっと見たり、短い音楽や動画を聴いたり見たりするのが精一杯で、時間の多くを文章執筆などのアウトプットに割いているなど、長い間自分が陥っている状態と、自分の今の考え方がある程度共有できると思います。読んでもらえると助かります。
「ゴールの設定について」と題をつけた文書
- 2月28日 闘病中である旨を各方面に伝達
- 3月12日 心療内科(4回目)
- (3月21日 緊急事態宣言解除)
抑うつ気分がほぼ解消し、安定した状態となった。心療内科では、再発防止のための念のための服用として継続して薬が処方された。
- 4月5日 心療内科(5回目)
- 4月5日~ (念の為の継続)ミルタザピン30mg、(頓服)エチゾラム0.5mg
- 4月 予備校通いがスタート
- (4月25日 緊急事態宣言発令)
それ以前の3か月に比べて色々な情報が頭の中に蓄積されることになり、5月半ばごろから悪夢が現れ、起きた瞬間から異様な疲れに見舞われるようになる。また、これまで気にしていなかった傾眠の副作用が学習の妨げになることを自覚する。聴覚過敏や耳鳴り、耳のひっかきなど、耳の不調が相次いで起こる。 当初の予定を変え、ゆとりをもって学習に取り組むことに。 数年こじらせていた皮膚炎の原因がストレスであると判明したのもこの時期。
ウトウトと傾眠
ウトウトの時は、目覚めた時にも周りの音が大きく聴こえることはなくフェードインしていく感覚だが、傾眠状態(一種の意識障害)の時は意識を戻した時に周りの音が一瞬だけ異常なほど大きく聴こえる。
ここで、こういう違いをもたらすメカニズムの相違について、自分の身体感覚を基にたとえ話をしてみたい。ここでは、自分の意識を、蛇口に繋いだホースを通って出てくる水に喩えてみる。
ウトウトも傾眠も、ホースから出てくる水の量が減っている点では変わりない。そのためウトウトと傾眠の間に、外から見たときの姿の違いはあまりない。しかし、ホースからの排水量の低下という結果をもたらすまでの過程が違うのだ。ウトウト(居眠り)は蛇口から出る水の量が少しずつ減った結果ホースから出る水の量も減る現象である。一方で傾眠はホースが何者かに踏まれてホースから出る水の量が減る現象である。
そのため、それぞれの状態が明けて目覚めた(意識を取り戻した)時に大きな違いが出る。ウトウトは蛇口から出る水の量が少しずつ増えていった結果ホースから水の量も少しずつ増えていく感覚がある。しかし、傾眠は急にホースを踏んでいた誰かが足をどけるようなもので一瞬急激に水量が増え、すぐに通常の水量に戻る感覚がある。
傾眠時には、急に踏まれる際の「プチッ」という頭の血管が切れるような(強制シャットダウンされたPCの音が急に止む感じとも表現できる)自覚可能な感覚があり、その感覚に慣れるまでの期間には大きな恐怖を伴う。また、睡眠麻痺とされる金縛りと似たような状態(悪夢の悪い部分だけ繰り返し再生されるのに抜け出せない、冷や汗が異常に出る)に陥ることもある。ここで挙げた「切れる」感覚と金縛り類似状態は、ほとんど毎日経験されるため、だんだん慣れてくる。しかし、時々急にその感覚や状態への恐怖感が蘇ることがあり、その恐怖感自体が大きなストレスになる。
- 5月29日 心療内科(6回目)
- 5月29日~ ミルタザピン15mg、(頓服)ルネスタ1mg
6月上旬時点では、特に減量による影響は感じなかったが、(後から振り返ると、ちょうど薬の効果が薄れてきて離脱症状が出るとされる時期になったあたりから)徐々に悪化するようになった。そのためノシーボ効果的に、過度に悪化を想定しているが故に実際に悪化したとは断定できないが、まったくそういう影響もないとは言い切れないのがややこしい。気分で簡単に悪化するが、気分で良くなることはないのがうつ病の厄介な点である。
- 6月14日 ※オーバードーズ
これ以降、薬を自己管理することを控えるようになる。
- 6月15日~ ミルタザピン30mg、(頓服)ルネスタ1mg
- (6月20日 緊急事態宣言解除)
- 6月26日 当初の受診予定を前倒しし、心療内科(7回目)
- 6月26日~ ミルタザピン15mg、トリンテリックス10mg
- 7月3日 カウンセリング受診
- 7月10日 心療内科(8回目)
- 7月10日~ トリンテリックス10mg、ルネスタ1mg
トリンテリックスおよび頓服としてミルタザピンが処方された。 抗うつ剤のミルタザピンからの切り替えを図り、当初はトリンテリックス単体を使用していたが、それでは眠りにつけないため、以前頓服として処方されてまだ使用していない余りのルネスタ1mgを併用するようになる(1週間程度)。しかし、ルネスタの副作用は重く、浮動性眩暈・悪夢・味覚異常が頻発して服用中止。
- (7月12日 緊急事態宣言発令)
このころ、著しい精神状態悪化に見舞われる。2020年8月に学業に専念する中で著しく体調が悪化し何も手につかない状態に陥ったことがフラッシュバックのように蘇るようになる。同時期には、皮膚炎の再悪化に伴い皮膚科に再来院。1年半ぶりの舞台鑑賞で一定程度回復するが、鑑賞にあたっていつも以上に気を張っていたのが緩んで疲れが出たこともあり、以前のように現場後の継続した元気が続かず、何も頭に入らない状態が続く。
- 7月17日頃~ ミルタザピン15mg、トリンテリックス10mg
ルネスタの代わりにミルタザピンを服用するようになる。8月上旬ごろ、悪夢を見る頻度が急激に増加。間接的な加害への恐怖から、授業に出ることに抵抗感を覚えるようになる。スマホに通知がきていると目を塞ぎたくなる症状や、学習に向かう等特定の場面で頭痛がする現象が再び起こるようになる。
- 8月21日 心療内科(9回目)
- 8月21日~ ミルタザピン30mg、トリンテリックス5mg
トリンテリックスの服用を中止するにあたり、離脱症状が出ないように半分の量を2週間服用する措置を取った。
8月下旬ごろ、悪夢が連続して発生し、日常的な思考に影響を及ぼすようになる(一種の悪夢障害)。
- 9月5日~ ミルタザピン30mg
- 9月18日 心療内科(10回目)
- (9月30日 緊急事態宣言解除)
- 10月30日 心療内科(11回目)
人と会う特定のイベントがある際に数日にわたって胃腸炎レベルの不調が発生したことから、 数年こじらせていた胃腸の不調の原因は食生活というよりむしろストレス(過敏性腸症候群的)であることが発覚したのもこの時期。
一方で、11月中旬ごろから徐々に状態が安定するようになった。10月下旬・11月半ばと相次いで舞台をみたことや、感染状況が改善してきたことによるプラスの影響が大きいと感じられた。
- 11月27日 心療内科(12回目)
- 11月27日~ ミルタザピン30mg、ビオフェルミン1/2mg、ジメチコン40mg
12月は引き続き舞台と映画を鑑賞する機会があった。神田沙也加さんが亡くなった後(12月20日ぐらい)は数日悪夢の多い期間があったが、年末にかけて、2021年の中で最も安定した期間が続き、夏季とは対照的に冬季講習中は予復習を含め学習時間を相当確保できる状態になった。
基本的に、うつ病における「不安定な時期」の全容というのは、安定して初めて分かるようになる。異様に泣いている頻度が高いとか、そういう生命にかかわる明らかに危ない時期は自覚がある程度あるが、それだけが「不安定な時期」というわけではない。とりわけ3月・9月・10月ごろは自分の認識としてかなり安定していると思っていたが、11月・12月にかなりの安定を得たタイミングで、まだその3か月の安定というのは回復途上のもの(そんなに気分が安定せず、集中力も続いていない状態)で実はもっと上の状態があったことが実感された。
なお、例外的に、2020年の夏に行っていたタイプの学習(自分での過去問演習)と類似した学習については、取り組む際の抵抗感と、それをやらなければならないと考えたときの恐怖感があまりに度を越しており、なかなか手を付けられない状態が続いた。2020年夏のトラウマ的経験を極度に回避しようとするPTSD的症状が強く現れた。
- 12月28日 心療内科(13回目)
- 12月28日~ ミルタザピン30mg、ビオフェルミン1/2mg、ジメチコン40mg
1月上旬から共通テスト形式の問題における成績が急激に上昇し始めた。年末から1月頭にかけて、心理的な状況が安定してきたために、体の健康に目を向けられる状態となり、ストレス由来の皮膚炎の治療(パンドル軟膏 / ビーソフテンクリームの塗布)、慢性副鼻腔炎の治療(カスボシステイン500mg / クラリスロマイシン200mg / ビラノア20mgの常用)を重視することとなった。
しかし、共通テストが終了して1週間程度たったあたりから、徐々に文字で書かれた内容が頭に入らない状態に戻るようになった。
1月下旬、数日続けて悪夢に見舞われ、起きた瞬間からの頭の疲労感による思考力の低下と、あまりにむごい悪夢の記憶が鮮明すぎることによって、高度に「気合」を入れて集中力を高めないと日常生活の様々な行動(まっすぐ歩く、文字を読むetc)が困難になるという悪夢障害的な症状が現れるようになった。
同時期、急にふっと自分の生命がどうでもよくなる(気力が全部抜ける)瞬間が来るようになり、危うさを感じるようになる。ある程度回復して体力が戻ってきたタイミングほど自死のリスクが頭いことを実感する。
2月頭、再び集合恐怖が出始める。原因もなく急に安定したり急に恐怖に襲われたりを繰り返し、朝に外出困難なほどの不安を感じても夕方には異様なほど多幸感・万能感に包まれ気分が明るくなることも増えるようになった(軽度の双極性障害的症状が現れるようになった)。同時に、急に涙が出てくる症状も再発した。
2月15日頃、気分が安定し、徐々に文章が読める状態まで回復。一方でストレスにより皮膚を無意識のうちに引っ掻く癖はそのまま続き、出血箇所が複数に及んだ。とりわけ耳、こめかみ付近を引っ掻くようになった。
服用薬
睡眠安定剤・睡眠導入剤系のものよりも、抗うつ剤の方が重い症状に効き目があるとされている。しかし、常に抗うつ剤の方が「苦」を感じるかといわれると、必ずしもそうではない。
もちろん抗うつ剤は運転・飲酒が出来ないなど、禁忌も多く、客観的には危うい。 しかし、抗うつ剤はむしろ強すぎるが故に「強制シャットダウン」のような側面を持ち、往々にして強い睡眠効果が得られるうえ、長期的に服用するうちに副作用(自分の場合は傾眠)の恐怖感も忘れてしまい、むしろ主観的には「楽」である。後述するように、むしろ睡眠安定剤・睡眠導入剤系のほうが中途半端な効果しか出ないのに奇妙な悪夢を見たり味覚障害を引き起こしたりと「苦」を感じる場面が多い。
こういった相性については、心療内科の初診時に自分の状態から適切な薬を医師が判断してくれる(大きく分けると上げるタイプと抑えるタイプがあり、さらにパニック障害や強迫性障害の併発の有無や具体的な症状によって的確な薬が分かれる)うえ、副作用については説明・確認があるため、抗うつ剤だからといって過度に恐れる必要はないし、逆に 睡眠安定剤・睡眠導入剤系を軽いものとみなすのは危ない。
- ミルタザピン:NaSSAとよばれる種類に属す抗うつ剤。傾眠・口渇の副作用あり。運転・飲酒禁止。これを飲んで2時間ぐらいすると真っ直ぐ歩けなくなる。寝つきにも、日中の安定にも繋がり相性良好だった。
- モサプリドクエン酸塩:ミルタザピンの消化器系への副作用を緩和するための薬。一定期間ミルタザピンの副作用が出ないことが確認できたため服用を止めた。
- エチゾラム:抗不安薬。主に不安感が強い時に服用するために処方されたが、結果的にミルタザピンの効きが悪い不眠時に服用することが多かった。強い副作用が出ず、比較的相性がよかった。しかし、少し眠れないとつい頼ってしまう感覚が芽生え、依存性を強く感じたため服用を控えた。
- ルネスタ:非ベンゾジアゼピン系睡眠薬。相性が悪く、副作用が重く現れた。味覚障害(服用した翌日の朝食に異様な苦みが混じった味がする)、インフルエンザ感染時高熱でうなされた時のような奇妙な夢を見る症状があった。若干眩暈もあった記憶がある。
- トリンテリックス:セロトニン再取り込み阻害・セロトニン受容体調節薬。日本では2年半前に承認された比較的新しい薬。相性が悪く、悪夢を見ることが多くなった。
- ビオフェルミン:言わずと知れた整腸薬。あまり効き目は実感できていない。
- ジメチコン:胃腸内ガス駆除剤。あまり効き目は実感できていない。
【症状】判断力・理解力関係
うつ病というと気分の落ち込みがイメージされがちだが、判断力・理解力の低下の方が影響は全然大きい。
以下、具体的に 判断力・理解力低下の例を挙げる。
- 「AをすればBになる」「BになればCになる」という個別の因果関係の理解が機能しなくなっている。
- 「AとはBである」という言い換えが機能しなくなる。たとえば死とは今いる世界を見られなくなることであると理解できなくなる。
- 本来知っているはずの意味が分からなくなる。特に、「類語・対義語」「抽象・具体」等言葉同士の意味上の繋がりが分からなくなる。それでいて、言葉自体は文字列の画像として頭にポンポン浮かび上がる。
- 言葉を選ぶ際、周辺の言葉に機械的に反応して脊髄反射的に選ぶ。AI状態になる。その場の文脈に合わせた適切な言葉選びが困難になる。言葉の選定においても、論理で選ぶ感覚が消え、直感で選ぶようになる。上辺だけ綺麗な言葉を繰り出しつつ、(後述する読む能力の低下も相俟って)全体として滑らかに読めるようにすることを重視しすぎて、フワフワした文を生み出してしまう。
- 「自分は言葉の意味、文全体としての意味を重んじなくなった」という自覚がないため、軽いワードサラダに近い意味不明な文を作っていても、その時はきわめて論理的な文を作っていると思い込んでいる。
- 今自分が行なっている物事が生に繋がっているのか、死に繋がっているのか分からない状態になる。そのため、常に生と死の2択のくじを行動ごとに引き続け、偶然生を選び続けていることに安堵する感覚に陥る。
- 二重思考状態になる。「このまま自分はやり遂げられる」という思考と、「もう今の時点でリタイアしよう」という思考が、どちらも100%本気で同時に存在していて、かつその2つが本来矛盾していることを理解できていない。そのため、うつ病の経過については、「あの時こう思っていたのでこうしました」のような道筋の通った説明が出来ない(やむを得ずそういう説明をしていることはあるかもしれないが、それは後から補正を加えている部分が多い)。同時期の思考と行動がまったく一致していない場合が多々ある。
- 記銘力が低下する。新しいことを記憶できない。本や新聞を読んでも、ひとつ前の行の内容を覚えられず、何度も同じ行を読み返してしまう(2021年1月の共通テスト受験時に一番悪い形で出た症状)。1分前に電話で決めた予約時間を忘れることもあった。
- 物事の優先順位付けができない。タスクが10あった場合、優先順位をつけて1つずつこなすことが出来なくなり、10をいずれも最優先事項として一気にやろうとして限界を超えて何もできなくなってしまう(進捗が0になってしまう)。生活を維持するうえでの最低限の行動を「最低限の行動」として優先することができなくなる。食事を摂らない、洋服やごみが散乱したまま(酷い時は虫が出てもそのまま)、身なりを整えない、入浴しない。ものを読む時にも、言葉の意味という情報を優先して取得することが出来ず、特にゴシック体に比べてとめ・はね・はらいの太さの違いなど視覚情報としての情報量が多い明朝体で組まれている場合には飛び込んでくる全ての情報を一気に受け取ってしまい処理能力を超え、全く読めなくなる。
希死念慮に関して
一般的に「希死念慮」と呼ばれている症状は、本当に心の底から死のうとしているわけではなくて、判断力の著しい衰弱ゆえのものであり、「自殺願望」と言い換えられるほどはっきりしたものではない。だからといって、「本当に死のうとしてはいないからまず死なない」などということも絶対にない。分かりやすく言えば死にたいというより、生きようという意志が極度に弱まった状態に陥っているのである。
少し話が逸れるが、これに限らずこういう障害の特定の状態を指す言葉を見かけたときに、健康な状態にある人の思考体系のまま解釈してはならない。不安定な状態にある人の思考体系は健康な人のそれと明らかに違うことに留意し、最大限の理解に基づく想像のうえ解釈しなければいけない。精神障害とはすなわち自由な意志を侵す類いの障害であり、「死にたい」という明確な意志はそこに存在し得ない。裁判所が責任能力の有無を判断するために精神鑑定を行う根拠はある程度一般に理解されているのに、自死の話となるとその「意志の不在」の発想がたちまち忘れられてしまうのは嘆かわしい。
我々は、生きるために必要な行為を経験・知識から判断して日々行っている。経験や知識がない事態に遭遇した時には、無意識のうちに、心の奥底にある生きようという意志に基づいて生きるための行動をとる。しかし、上述した判断力の低下によって経験や知識の活用が困難になり、なおかつ生きようという意志が低下したらどうなるだろうか。通常時はあまり意識できないが日々の生活は常に死と隣合わせであり、生きるために必要な行動をとらなくなった時、人間はすぐ死んでしまう。ここでは、これを「消極的自殺」と呼んでみる。精神障害下での自殺はすべて消極的自殺である。
自分の場合、一番状態が悪い際には、このままこの状態を放置しておいたら自分はそう遠くないタイミングで死にたくないのに死んでしまうという恐怖が芽生え、それが治療の開始を決断する大きな要因となった。 うつ病との戦いは、「何が何でも死なないぞ」と相当に強い意志のもとで常に慎重に行動しないと死んでしまうという恐怖感との戦いでもあった。
この前提を共有したうえで、精神障害下にある2種の自殺、つまり車を避けなくて死ぬ・病気を放置するとかそういう無為ゆえの「消極的無為自殺」と、 飛び降りたり首つりをしたりする類の「消極的人為自殺」は分けて考えていきたい。ここで重要なのは、首つり等であっても、精神障害下の自殺は「消極的」に分類すべきであるという点である。繰り返しになるが、「積極的自殺」というのは、自由な意志が健康である人にのみ存在しうる概念である。
「消極的人為自殺」において、生きる意志が弱い状態なのに、わざわざそういう「人為」の行動をとるそのパワーだけはしっかり湧いてくるのは不自然な話である。これには主に2つの理由が考えられる。
まず、因果関係が機能していないからと考えられる。AだからB、BだからCという個々の段階のことは分からないが、なぜか経験則的に「AがCにつながる」旨は把握した状態は維持されるため、Bを飛ばしてAとCとが直接繋がっているように錯覚し始める。ここでいう「分からない」というのは特殊なもので、経験則的に「AがBにつながる」「BがCにつながる」旨を理解することだけはなぜかできない状態になる。つまり、理解度というものを数字で表した時に理解できている=100、理解できない=0という捉え方をしたときに、100が0になったという意味での「理解できなくなった」ではなく、普段100理解できていることが-100に転じるという意味での「理解できなくなった」ということだ(この部分は感覚的な要素が強く、言葉で的確に表現することが極めて難しい)。こうした価値転倒によって、今目の前の苦痛から遠ざかることが出来る(C)からといって、通常時なら死に繋がると容易に分かる行為(A)を取ろうとして、その間にある死(B)が見えていない危険な状態になる。これにより、不用意に死に繋がる選択肢が身近になってしまう。
また同時に、因果関係がそれなりに機能している人の場合でも、とりわけ死に対するイメージが軽いものになっていることも、理由として考えられる。これは、認知症において実家に帰ろうとする、遊びたがるなど半ば幼児退行してしまったような現象が起きるのと近しいものがあるように思われる。つまり、精神障害になることで、死と睡眠は異なり死は不可逆的な現象であることを自覚する前の発達段階に部分的に戻ったような認識しか持てなくなっているということだ。こうした条件下でいう「死にたい」という言葉は、単に「死後の世界を実在する一つの場として捉えて、『ここではないどこか』へ逃れたい」の意味であって、不可逆的な死それ自体を望んでいるわけではない。
これら2つの原因が重なることで、 死に繋がる選択肢をすごく身近なものとして感じているのに、肝心の死そのものには実像に反して極めてぼんやりとした雰囲気しか感じられず、その結果、地道に気分が回復することを望みながらこのまま歩んでいくよりずっと「ここではないどこかへの瞬間的移動」としての死を「楽」なオルタナティブな方法のように感じてしまう現象が起きる。
ここにあるのは、一般的に想像されるような、「嫌すぎてもうやめたい、じゃあもういっそ死んでしまいたい」っていう急激な方向転換(自分の今の状態である生と、そうでない死が非対称なものとして捉えている状態に起こるもの)ではなくて、「これとこれ、まあこっちかな」っていう二つしかない (生と死の境界線に立っているが故に、生と死が対称に見えてしまう)選択肢の中から「なんとなく」で進む方向を決めるノリであり、ここに「消極的自殺」が起こり得る。
【症状】身体関係
判断力の低下は基本的に本当に危ない時ほど自覚がないこともあって、当時一番深刻と感じていたのは身体症状である。
- 用事がある日になると頭痛が悪化する。低気圧の影響をもろに受けやすい体質になる。
- 同様に、眩暈・耳鳴りがする。
- 光過敏により、玄関を出た瞬間の日光や、室内の蛍光灯で眩暈・頭痛がする。部屋の蛍光灯は消灯するか布で覆って主に自然光で生活し、地下鉄車内では極力目を閉じた。
- 中途覚醒、つまり深夜3時ぐらいに目が覚めてしまいそのまま7時、8時まで眠れなくなってしまう現象が起きる。こうなることで「二度寝」とはいえないほど離れた時間帯に分割して睡眠することになり、これが金縛りを引き起こし、更に十分な睡眠をとれない状態に突入するリスクが生じる。
- 息が詰まる。とりわけマスクをつけて外に出る時に息苦しさを感じる。
- 体が衰弱し、ロキソニン等の強い薬を飲むと手が震えるなど副作用が出やすい体質になる。
【症状】アレルギー的反応関係
「落ち込み」「意欲の低下」という言葉で表現されがちだが、「なんとなく嫌・面倒」という類のものとは明らかに種類が異なるものである自覚はハッキリあり、感情の次元にいちいち上ってこないような生理的拒否感、アレルギーに近いような異様な反応を示す。
- 各種メッセージアプリの新着通知の音や表示に異様な恐怖感・不安感を覚える。
- メッセージを読んでも返信できなくなるなど、誰かに対して言葉を投げ返すことができなくなる。LINEでのやり取り、年賀状のやり取りが困難になる。
- 生活維持に必要な最低限の行為が一切不可能になる(判断力低下とのWパンチ)。
- 今日の予定など些細なことを考えるとき、頭の中を言葉が虫のように蠢く、または電光掲示板の表示のように縦横無尽に動く感覚に陥って気持ち悪くなる、吐き気がする(インフルエンザにおける高熱時の悪夢に近い感覚)。そのため思考をやめようとするが「思考をやめよう」という言葉自体が蠢く感じがして気持ち悪くなり、睡眠薬等利用して無理やり寝るしかなくなる。
- 好きなものを見る意欲がわかない。CDを開封しない、TVを見ない。ネット通販で注文したものも段ボール箱を積んだまま放置。
- 人付き合いが億劫になる、人の発言に対して異様な過敏さを示す。長期的に見ると人と話さないのは良くないが、この症状によりさらに人と話さなくなるリスクがある。概して、人と会う時の方が短期的な不安定を呼ぶため、人と会う頻度を耐えうるレベルにとどめられるぐらいに抑えながらも、頻度を完全なゼロにしてしまうことは避けて長期的な安定も目指すという難しい舵取りが必要になる。
ものの見方への影響
こういった障害の中では、日頃の営みから「生」という大きなものに至るまで、これまで無意識にやっていたことが目の前に明示され、自明視していたものが根本からひっくり返されるため、ものの見方に大きな影響を与える。以下に例を挙げる。文ではっきりと書くとわざとらしく見えるかもしれないが、確かにこのように思うようになった。
- 上で挙げた「頭の中を言葉が虫のように蠢く」経験は、普段はっきり自覚することが難しい、「思考を規定しているのは言葉である」旨を身をもって学べる機会となった。
- 極度の視覚過敏を経て、蛍光灯や、カバーを掛けずにタイトルが全て見える状態で置いてある本の存在が、視覚情報を増やし自分のリソースを無駄に消費していたことが明らかになった。
- 生と死のクジを選び続けている感覚に陥った時期を経て、生命は奇跡的に保たれているものであると思うようになり、虫を見かけた際に、自分の手で相手は簡単に殺せてしまうが相手は自分を簡単に殺せない非対称な関係であることを過度に意識し、生命の安定的維持の点で弱い立場にいる虫を半ば自分と同一視してしまうようになった。
こうした経験は、これまで気づいていなかったことに気づかされる意味では十分有益だが、気分が安定して、不安定だった時期のものの見方を対象化できるようになってからも、意図せず「うつ病的なものの見方」のモードに簡単に切り替わるようになってしまうという重大な問題もある。 以下に例を挙げる。
- 光過敏の症状は落ち着いているのに、うつ病になる前は気にしなかった地下鉄の蛍光灯を自分の体にとって毒があるものとして捉えて避けるようになる。
- 自分が安定して暮らしている中でも、多少実害が発生していようと虫を殺すことに抵抗を覚えるようになる。
また、様々な人がこういった障害の影響下におけるものの見方を自分の言葉で表象したものを見ていく中で、それは障害と闘っている人の間である一定の共通項を持っているという感覚を抱くようになった。というのも、 個人差が大きい身体症状の種類や気分の落ち込み具合に比べ、判断力への影響はそれほど大きな差を持ち得ないうえ、判断力の中でも特に機能不全に陥るのが、何らかのものを捉える際に必要になる言語運用の部分だからだ。
自分の場合、不安定な状態になって以降感銘を受けた言葉の持ち主が、実は精神的な闘いを生き抜いてきた人物だったという経験をすることが何回かあった。 最もわかりやすい例が玉置浩二であり、堂本剛だ。彼らの歌詞は末尾に載せておいた。
長期化に伴う難しい問題
「6割が2年以内に再発」といわれることもあるうつ病との闘いが長くなってくると、病気が常に横にある状態で何かをする、誰かとコミュニケーションをとる、そういうことが必要になってくる。ここでは、その中で生じる3つの問題を取り上げたいと思う。
フラッシュバック
去年触れていたものを知るとフラッシュバック的になる。「思い出す」とは違う。自分で引っ張り出しているというよりか、急に感覚が戻ってくる。
あまりにも酷いと、フラッシュバックを引き起こす原因となってしまう、その時期に関わっていた人たちやその当時の趣味と一気に距離を置いて(縁を切って)新天地に行くのも選択肢として有力になってくる。しかし、その中途段階での孤立が状態の悪化を導く恐れがあるため完全に切ることが難しいという現実もある。
ニュアンス
精神障害と闘っている人が自分の状態を説明するときには、きわめて特殊な論理が使われる。この論理は、状態が悪化する以前の自分自身も上手く理解できなかった論理であり、正直一連の流れを経験しているかどうかで理解に大きな溝が生じてしまう部分である。自分自身、以前読む機会があった(類似の症状になった)高校の先輩の報告文のようなものについて、当時はなんとなくしか理解できなかったが、今になって読み返すとはっきり分かるようになった、という経験がある。
具体的に「特殊な論理」の例を挙げてみたい。
一般的によく知られている(ネットで流布されている)「ならでは」の論理というのは、「回復途上にあるうつ病の人間が、映画等は観に行けるけど、仕事は出来ない時がある」という論理ではないだろうか。これは、一定程度的を射た表現であり、うつ病の治療の難しさをそれなりにうまく表している。
しかし、この論理は「うつ病の人にとって趣味というのは療養の手段であり、好きなことをすることが気分の回復に繋がる」という印象を強く与え、単に気分が落ちる度合いが尋常じゃないほど大きいものがうつ病で、その度合いに応じて普段落ち込んでときに行うことを集中的に行うのが大事なんだ、という誤ったうつ病像を提供しているようにも思える。
つまり、この「映画はOKで仕事はダメ」という言い回しは、論理を事細かに説明するのが難しい(ツイートの140字など)短い文章の中で、非患者のもっている論理を適用しても理解できるように、うつ病患者の個人的状態に関わる機微を表した文脈が修正されて発信されているのではないか……と思うのだ。
そこでこの記事では、そのような「『あるある』としてあまりに広く共有され、時に非患者によって再発信されることに伴う、個人の主観的経験の中での本来の文脈の捻じ曲げ」に陥らないように、できるだけ自分の言葉で機微を丁寧に反映し、同様の症状を経験している者とそうでないものの間にある理解の溝を埋めていける記述に努めたいと思う。
なかなか特殊であり伝わりづらい微妙なニュアンスの問題の例を、もう2つ挙げてみたい。
まず挙げられるのは、「会える」「話せる」ということに関する問題である。
自分の意志に関わらず、自分の現在の実際の状態からきわめて離れた姿しか見せようがないというのはうつ病の厄介な部分である。ある程度前もって「この日に会おう/話そう」としない限り基本的に人に会えない/話せないし、そう決めた時点でその日に向けて相当ピッチを合わせにいくわけで、実情とはかなりの解離がある。ただ、これをわざわざ言うと「元気そうに見えても元気じゃないので」みたいなニュアンスになってしまい、(病気の性質上そうなっているという実情に反して)自分の気持ちとして意図的にそういうことを見せていない、つまりは距離を取っているような解釈が相手の中に生じる可能性がある。
また、連絡が可能かどうかという点でも、この微妙なニュアンスの問題が生じる。
この場合、「連絡は欲しい」ことと「状態が全然安定していないこと」、または「連絡が欲しい」ことと「連絡が大幅な悪化につながる可能性がある」「連絡を一切受けられない状態の時がある」こととを両方伝える必要がある。 この両方を伝えることに恐怖感が生じることもある(それが両方本当であり、それでもなんとか連絡してほしいという発想に至る一連の流れを経験しているか・しないかでは大きく異なり、かえって孤立を生む恐れがある為)。 現在安定していないしそれが悪化の原因にもなり得るが連絡してほしいと告げた状態か、それとも安定しているから連絡してほしいと告げた状態では、相手から見たときの連絡のしやすさは明らかに異なってくる。前者の状態では、相手に一定の覚悟を求めることになってしまうのだ。
だからこそ、こういった「元気じゃないことのほうが多いんだけれどそれでも一切気にせず」という機微中の機微を繊細に伝えられる自信がない場合はそれを表現せずに「元気なので気にせず」という言い回しに切り替えがちになる。そのため、患者が「元気なので」と言葉で表現していたとしても、一歩立ち止まって考えることなく、すぐに患者の実情が単純に元気なものと認識してしまうとそれは誤解に繋がる。
逆に言えば、患者の状態や感情を過度に意識するより、非患者である自分の「会いたい」「連絡したい」という意志を重んじ、それでいて急なキャンセルや連絡遮断の生じる可能性もいくぶん把握し、それをさらっと許容できる(だろうと患者に思わせられる)人であれば、患者とうまく付き合っていける道が開けると考えられる。
そもそも「語りづらい」
上のニュアンスの問題は「どう語るか」に関わる問題だが、そもそも患者としての自分のことを語りづらいという問題もある。これには、2つの理由が考え得る。
まず挙げられるのは「うつ病の話」に関する捉え方の違いである。
自分の感覚では、好きな本やドラマの話をするのとさほど変わらない感覚で今の自分の状態について述べているが、当然周りの人からすればそういう感覚には受け取れないのが大きな問題である。たいてい「深刻な話」「暗い話」「重い話」として受け取られてしまうが、自分からすれば、自分の生活のあらゆる場面で自分が「普通」と離れていることを実感させられるため、病気の話を完全に避けて話すというのは根本的に困難という意識がある。
厳密な意味での論旨は一致しないが、この「自分の意志に反して、(環境や人とのインタラクションの中で)常に『患者』であることを突きつけられるため、自分自身を『患者』という単一のアイデンティティに収斂させていくほかどうしようもない(のにいざアイデンティティに基づいて語る時は語りを拒否される時もままある)」感覚を共有するために少し参考になる文章を引用する。
スチュアート・ホール(1932-)は、「誰がアイデンティティを必要とするのか? Who needs identity?」と題する挑発的な論文を書いている。IDカードこと身分証明書は、文字通り、「おまえは何者か」という支配権力の問いに答えるために発行されている。ホールはエルネスト・ラクラウを引用して、「社会的アイデンティティの構成は権力の作用である」と指摘する。
上野千鶴子『脱アイデンティティ』
バトラーがアルチュセールに依拠して理論化するように、「そこのおまえ」にピンポイントされた時に、アイデンティティは成立する。そしてこのような「存在証明」をつねに強迫的に必要とされるのは、支配権力の側ではなく支配権力から少数者としてカテゴリー化される側である。ホールが「誰かアイデンティティを必要とするのか?」という反語的な問いを投げかけるのも、彼自身、西インド出身の植民地人であり、本国で教育を受けそこで批判的な文化研究をうちたてたディアスポラ知識人としての少数者意識から発している。
ところで「少数者 minority」とは奇妙なカテゴリーである。(社会的)少数者とは、人口学的少数者とはちがって、社会資源の不均等配分を含む権力関係の用語であるから、定義上、自らを少数者と呼ぶことで、社会的に不利な立場に置く人は考えにくい。だれかが対象を「マイノリティ化」しなければ、マイノリティは存在しない。つまり少数者とは、少数者化という言説実践の効果としてしか存在しない。したがって少数者のカテゴリーを拒むには、「誰がわたしをマイノリティにしたのか? Who minoritizes us?」と聞きかえしてもよい。マイノリティとは、アルセチュールの言うように「そこのおまえ」という他者(少数者)に「同一化」したものを指す。「同一化」とは、「他者になる」ということ、そして「呼びかけ」による「同一化」の過程で実践されているのは、ほかならぬ「他者化」という権力行為の遂行なのだ、ということは、以上の論述からあきらかであろう。
話が脱線するが、この「単一のアイデンティティに収斂させていくほかどうしようもない」という本人の認識に対して「どうしようもない」わけじゃないだろ、と返すのはまったくもって適切ではない。本人は様々な打開策を考え、挑戦したがやはり無理であると分かっていることの方が多い。本人が「ムリ!」という主観の域から脱しようと奮闘したがうまくいかず、その結果この挑戦は客観的・理性的に判断したところの「困難」に限りなく近いものだと心の中で思っているけれども、あくまで出発地点は主観であるから「どうしようもない」という主観っぽい表現にとどめようとしている……というその繊細な思考過程を無視してはならない。
また、「語りづらい」もう1つの理由として、分かり合えなさに起因する相手との距離感の複雑さへの懸念もあると考えられる。
分かり合えなさにまつわる不安感というのは、先ほど述べた「文脈を捻じ曲げて非患者の論理に寄せた語り方をしてしまう」現象にも表れていると考えられるが、そもそも「語るか・語らないか」という部分にも影響してくる。
先程挙げた「特殊な論理」の影響もあって、どうしても経験者とそうでない人との間に生まれてしまう溝があるのにもかかわらず、対話の中で、その溝を無かったことにして「分かった感」を示されたとき、自分に成り代わって自分の置かれた状態を判定されたような、尊厳が踏みにじられたような気分になりかねないため、最初から話す機会を放棄するという形で「語らない」のである。「放棄する」と書くと少し患者の側が逃げたような意味合いが出てきてしまうが、これは単に最低限自分を保つための権利行使である。
患者とのコミュニケーションの中で「みんな似た症状・感情はもっているから」「君だけじゃない」という言葉を投げかけるのはごくまれに必要な行為となるが、基本的には望ましくない行為だと考えたほうが良い。なぜならこれも、安易な「分かった感」の醸成に繋がる言葉だからだ。患者の痛みは、あくまで患者個人固有の痛みである。
このように「分かり合えなさ」の存在を否認しないよう努めながらも、そのうえでそこに居直らずにどうやって共に歩んでいくか?というのは、病気を抱えた人とそうでない人との間で浮上してくる問いであると同時に、人間関係全般についても適用できる重要なテーマである(昨年放送された『おかえりモネ』は震災を経た若者同士の会話で、そういうテーマが示された)。「わからない、でもわかりたい」スタンス、つまり「究極的には自分には分からない」といったうえでそれでも丹念に話を聞こうとする、理解しようとする姿勢が必要なのだ。
患者本人が語らないのは、決して聞き手を信用していないからではない。ここで挙げた「精神障害の話に関する捉え方の違い」「分かり合えなさに起因する相手との距離感の複雑さへの懸念」こそがその理由であるということが考えられるし、むしろとても信用しているが故に話せないということがある。
いわば「最後の砦」であるところの信用する相手と捉え方が違いすぎた場合、または相手の距離感の取り方が粗雑すぎた場合。その場合の絶望感は計り知れないものがある。むしろ、医師など一対一の関係の中での信用の積み重ねがない相手の方が話しやすい可能性は大いにある。症状の推移のパートで書いた通り、自分はこの危機感・不安感のために一番状態が悪い時その症状を文書で伝える形を選んだ。
うつ病を描いた作品
絵を描く能力がないこともあって自分の表現だけではやはり限界があることは否めないので、自分の経験に照らし合わせた納得感があるものを複数選んでみた。といっても、作品内のごく一部だけが自分の感覚と噛み合っている感じなので、補足説明を入れてある。
「死ぬくらいなら辞めれば」ができない理由
これはブラック企業に勤めていた人の体験談ではあるが、ホームから一歩足を踏み出そうとするときの因果関係の崩壊っぷりや、無理に進むことを選ぶか(結果的に死ぬ行為だがその自覚がないままに)オルタナティブな行為を選ぶかの2つしか道が見えなくなる感じがリアルである。
「僕が僕であるためのパラダイムシフト」
ここで取り上げられているアドラー心理学の考え方は、“sachlich”(「現実や現在に基づく」という意味)という用語に端的に現れているが、この言葉はまさにうつ病の治療のキーワードであると自分は考えている。
「今まで出来ていたことが急にできなくなる」状態と向き合っていくためには過去の自分をもとに「ちゃんと成長しているか」で今の自分を評価することは避けたほうが良い。また、精神障害の性質は「右肩上がりで回復していくわけではなく、日単位で状態が変動し続け、かつ月・年単位で見るとむしろ悪化している場合も多い」という点にあり、この点と向き合っていくためには未来の目標を掲げて「そこにちゃんと向かっているかどうか」で今の自分を評価することもやめるべきである。
こうして、そもそも思考力の低下によりあまり先のことを考えられないうえに、自分の意向としてあえてこの「今に基づいて考える」方法を採ることによってかなり救われ、安定に繋がる部分があるために、患者はだんだん長期的な視点を持った判断をしなくなっていくが、この変化の中で、元々目標意識を持って取り組もうと努める習慣がついていた場合にはその習慣の大きな転換を余儀なくされる。
自分の場合、そもそも思考力の低下により12月の半ばになるまでは2週間先ぐらいまで見通した学習ができず、また進路に関する判断がいまいち出来ない状態が続いている。無理にそういうことを考えようとすると、容易に意味付けできるような特定の日・特定の場所で決めてそれを自分に納得させるようなやり方しか出来なくなってしまいがちである。
受験期とうつ~発達障害との連続性
ゴールを設定する(数か月先を見据える)ことの困難さ
作品の紹介の補足として述べた通り、うつ病では長い先を見通したことができなくなる。
精神障害の場合、何かをストレスに感じた時点でそれが症状の悪化に繋がり得るが、そもそもストレスというのは「自分の思うようにいかない場面」で生じるものであるため、根本的に「こうしたい」と思うこと自体大きなリスクを伴う行為になってくる。その性質が「ここに合格したい」「ここでこの成績を取りたい」みたいなことをうっすらにでも意識せざるを得ない受験期と相性が悪いのだ。
そのため、最初から「こうしたい」というゴールを設定せず、ただその時(その日のその時間帯)だけ使う基準でその時の自分を評価することを意識した。自分の場合、この点での理解を得るため、家庭内に精神障害のこの特徴を共有した。
文字が読めない
身体症状の説明の部分で上述したように、精神障害が悪化すると文字が読めなくなる。日本の大学入試ではユニバーサルデザインのフォントが導入されておらず、たいてい古典的な明朝・セリフ組版となっているため、本来の学力に対して著しく点数が下がる現象が起きる。
また、不慣れな組版の場合にも失点を重ねやすくなるという特徴がある(悪化時は個別の組版に無意識のうちに対応する力が薄弱になる)。自分の場合、状態が悪化した2月上旬に比較的「合格しやすい」とされる学校を受験し、状態が安定に向かった2月中旬から比較的「合格しにくい」とされる学校を受験したが、上旬の方が合格率が低いという結果になった。
たまたま趣味で組版をやっていた時期があった自分の場合では「読めなさ」の原因が明朝・セリフにあることが分かっていたが、そういうパターンは稀であり、「原因が分からないけどなんか読めない」もしくは「自分の学力が低いから意味が取れていない」と捉えてしまっている受験生も多いように感じられる。学力とテストの結果の関係は完全に連動していて恣意性がほとんど全くないという「教育」を受けているわけだから、それも当然である。
現状の大学入試制度では、わざわざ診断書を出さないと配慮を受けられないため、本来配慮を受けるべきなのに診療にかかることが選択肢として浮上してこないために配慮を受けないままになっている受験生が一定数いることが考えられるうえ、その診断書というのも「視覚障害」のようなはっきりとした診断名が無いと認められない場合が多く、精神障害の症状としての読字障害はほとんど考慮されていない。
書籍の組版に慣れさせるという役割をもつ学校で明朝の教科書を使わせるのと、学力を測るテストで明朝の問題用紙を配布するのとは訳が違い、(高いハードルを設けた)配慮を用意してるからと、「デフォルト」(共通テストでいう通常冊子)の組版をできるだけ多くの人が受けられるユニバーサルデザインにしないのは明らかに公平な試験を実現する姿勢を欠いていると言わざるを得ない。
時間の使い方
薬の説明で書いた通り、一度薬を飲むと1時間後には眠くなり、そして1度寝るとなかなか目が覚めず起きるのにも時間がかかる(自律神経の不調による「起きれない」感覚がより悪化するイメージ)。どうしても時間が奪われていくことは事実であり、異常に長い睡眠時間が要請されることになる。
しかし、それを「ムダ」と考え、ストレスに感じると状態の悪化に繋がり得るし、睡眠の質を下げる可能性がある。少しでも切り詰めようとしていくと、うつ病患者の受験生活は破綻する。ここで自分の中で大きく価値を転換することが必要になる。
また、はたから見れば傾眠は単なるウトウトであり、昼寝を異常にとっているようにしか見えない場合もある。いちいち説明する手間をかけないと、自分の時間がやむを得ず削られていくしんどさの感覚を共有することは難しい。
優先順位付けの困難さ
判断力・理解力における症状について説明するところで述べたが、優先順位をつけて何かをこなすということができなくなる。
そのため、健常な時とは異なり、「今日は確実にこの教材を予習して、できればこの問題集をやろう」といったことを決めるのに異様な量のエネルギーを割く必要が出てくるのだ。全部が一気にのしかかってくる気分になって結局何もできないで終わる日も多く存在した。
4つの困難と発達障害
以上の4点は、発達障害をもつ人たちにも共通するといわれている特徴である。
綿密にあらゆるパターンを想定する代わりに予定調和からあまりにも外れている状態への適応力が薄いなど、多少発達障害の特徴と類似している部分は以前からあったが、ここまではっきりと「こういう感覚なんだ」と自覚するのは初めての経験になった。
ここ最近、「境界知能」といわれる人々のことが取り上げられ、注目されているが、こういった状況にある人が確かにいるという現実に対し、今の入試制度ひいては日本の教育制度の示す態度はあまりにもズレているように思う。
「普通にできることもあって、周囲からはやる気がない、怠けていると見られることが多かったんです。私は私なりに一生懸命やっているのに、なんで怒られなきゃいけないのかなとか、悲しくなりました」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210730/k10013164861000.html
「これまで勉強や仕事がうまくいかないと、『私の努力不足なんじゃないか』と感じていたし、親や周囲からもそう言われてきました。でも、境界知能だとわかり、腑に落ちたというか、サボっていたわけじゃないんだと救われた気がしました」
認知症との連続性
上で「気持ちに自分の体(脳)が追い付かずに、意図しない形で一時停止やキャンセルが必要になる場合がある」と書いたが、これはまさに「老い」で直面する問題でもある。
しかも精神障害の厄介さというのは、その「追いつかなさ」がいつどの程度生じるかに対する予見可能性があまりにも低いことと、「その追いつかなさ」やそこから生まれる本人の葛藤が外側から見えづらく「脳の不調の結果」と「本人の判断の結果」が限りなく一体化して見えてしまう(本人の意思として一時停止やキャンセルを選んでいるように見えてしまう)ところにある。
精神障害による拒否感というのは 「なんとなく嫌・面倒」という類のものとは明らかに種類が異なるもの、と上で繰り返し書いたが、そういう種類の異なるものにずっと触れ続けているうちに突然、自分自身でさえどこまでが自分の意志でどこからが脳の不調によるものなのか分からなくなり、あれこれ意味のない思索に耽ってしまうこともある。
精神障害はそういった複雑性があるが故に、「老い」全般というより、認知症など脳の不調に関わる「老い」に近しいといえる。まともな思考が出来なくなるということは、ある動きが出来なくなる(歩けない、立ち上がれないetc)よりもはるかに受け入れるのが難しい。動きというのは枝葉であり、人間の活動の根幹を成すのは思考であるため、思考が乱されるというのは、(思考し言葉を紡ぐことで身を立てて来たという自負が強いものにとっては特に)自分自身がひっくり返ってしまうような恐怖感を伴う。
おわりに
2021年は、バイトを含む就業や入学といった形で新しい環境に接近して人間関係を構築することはなく、また高校の同期が多い予備校校舎に所属するといったように従来と近い環境に身を置くこともしなかったため、むしろ日々自分の内側へと進んでいるような感覚があった。そうした中で、不思議と「自分の関わっている“自分の外部”の領域」と「自分の関わっていない“自分の外部”の領域」との境界線が消え、自分の外側がすべて均一なものとへとリセットされ、一気に視野が開いたような気持ちを抱くことが増えつつある。
こうした経験を通じて、自分の「弱さ」を(未来に歩んでいくうえでの土台にしていく為に)真正面から認めるという時に苦痛を伴うかもしれない行為をとってきた人が世の中にはたくさんいるのかもしれない、また同時に、そういう「弱さ」を持った人に対する自らの加害者性という部分に思いを致すことができるようになったと感じている。
「弱さ」をもった人にとって、外部の人間から安易に表象されるという一種の暴力から免れるためには、当事者自身が「弱さ」を発信していくことが必要になるが、大変な状況にあればあるほどそんなことを言っていられないわけであるから、最も共有しなければいけない「弱さ」への見方は「弱さ」の性質上そもそも言説になり得ないし、まだ言葉を持てるほどの状態で収まっている自分は厳密な意味での「弱さ」を語り得ない。
しかし、その一方で、「弱さ」の片鱗を確かに見、その点でそういった経験をこれまで“運良く”しなかった人との相違が生じていることも事実であり、むしろ言葉を持てるところで収まったという“偶然”を、少しでも自分の経験を土台にして「弱さ」に対する幅広い見方を提供できる言説を作っていくことに捧げたいと思い、このような記事を書くに至った。
こういう「弱さ」を抱えることは特別なことでもなんでもなく、年を取る以外のこと、たとえば障害を抱える、災害や疫病などで大きな喪失を経験する……といったことでも「弱さ」をもつことも誰にでも起き得るものである。いくら準備しているつもりがあったとしても、あまりに突然やって来るために、簡単に受け入れることが出来ず、悶々とした気持ちを抱えることになる場合もあるだろう。
そんな時、他人との分かり合えなさに苦しみながら孤独に「弱さ」と向き合って価値転換を行い、自らを新しく組み換える行為は、決して「負け」や「逃げ」を意味しない。着眼すべきなのは、今「弱さ」をもっているかどうかではなく、未来に歩んで行こうとする意志があるかどうかという点である。もともとある「強さ」に甘えるよりも、「弱さ」と向き合って「強さ」を自らの手で得るほうがよっぽど立派であり、そうして得た「強さ」こそ本物の強さである、とここで断言したい。
もし、「弱さ」にぶつかった人が価値転換を「必要に迫られてやっただけ」とどこか自虐的に捉えていたとしたら、周りにいる人は、未来に歩んでいくことを諦めるという選択肢を自ら排し―これは、たとえそれを無意識にやったとしても称えられるに値することだろう―、価値転換を成し得たその「強さ」を、分かり合えなさという壁を打ち破って伝わってくるその「強さ」を、どうか認めてあげてほしいと思う。自分が「弱さ」にぶつかって価値転換を成し遂げたときは、自分で自分のことを最大限褒めてあげてほしい。価値転換を自らの手で成し遂げたんだと本人が思えるようになることが、精神障害によって損なわれた〈人としての尊厳〉を回復することに直接繋がっていくことは、想像に難くない。
(附録)歌詞
- 玉置浩二
道をはずれちゃって とほうに暮れるあの娘
詞:玉置浩二・須藤晃『田園』
何もうばわないで 誰も傷つけないで 幸せひとつも守れないで
そんなに急がないで そんなにあせらないで 明日も何かを頑張っていりゃ
生きていくんだ それでいいんだ
波に巻き込まれ 風に飛ばされて それでも その目を つぶらないで
こわれかけた心は 紛れ込んでしまった闇の中で
詞:玉置浩二 『むくのはね』
聴こえたものを紡いだ はばたく痛みと胸につのる想いを
- 堂本剛
痛みから描く明日をきっと… って 唱えて
詞:堂本剛『きみがいま』
生まれ変われることを ぼくら叶えてきたろう?
(中略)
ぼくはいま いちどきりを生きているよ
二度とないぼくを ぼくは信じているよ
(中略)
儚く鳴り響く音楽は いつの日かのきみを信じてくれるよ
昨日を越えたこの音楽は いつの日かの今日を信じてくれるよ
だからこそ僕らが 愛を刻もう傷ついたりもするんだけど
詞:堂本剛『街』
痛みまでも見失いたくない
(中略)
近頃の空 やけに狭く映るな
君も同じだろう 不安抱きしめてんだろう
君が苦しめられない保証が この街にもあれば
勇気なしで背中押したけど 未だ気がかりだよ