いろいろとオリンピックについて振り返る中で、ふとこのエンブレムが浮かんだ。これについて個人的な思いを書いていこうと思う。
事前に特定のデザイナーに応募を促していたなどの選考上の問題や、他の写真盗用問題などが一気に浮上してしまったために大変な騒ぎになったが、曲がりなりにもデザインというものに少し触れた者として言わせてもらうと、氏の作品自体は剽窃ではないだろう。
しかし後に明らかになった部下がトレースを行った問題などのように、自分の名前が使われている案件についての作業を一部任せ、しっかり監督することもなかったことも容易に推測され、その点については氏の責任が重いことは言うまでもない。
参照
問題となったリエージュ劇場のものと「形が似ている」ことは事実である。しかし、頭文字である「T」と「L」を重ねるというコンセプトがあって生まれているのが明らかであるこの劇場のエンブレムに対して、オリンピックエンブレムは「T」と「円」(=1964年東京五輪の亀倉雄策エンブレムへのリスペクト))というコンセプトから出来ている。
亀倉雄策のエンブレムというのは相当に評価の高い作品であるため、2回目の開催となる東京五輪のエンブレムの制作にあたってこれを参照するというのは極めて自然な話であって、「後付け」で加えられるようなものではない。選考で2位となった案(原研哉氏の案)も、明らかに亀倉雄策のエンブレムを参照している。
話題になった2025年関西万博エンブレムも、大高猛氏による1970年大阪万博エンブレムを参照している(と制作者が公言している)。
展開性
オリンピックエンブレムについてはその展開性の高さが大きな特徴となっている。エンブレムそのものを9つに分解して並び替えるという発想は、劇場のロゴにはない。むしろ、単色で作られた劇場のロゴが想定しているのは、黒を別の色に変換したり、ロゴそのものに色を付けて取り出すタイプの展開である(取り下げられた後新しく採用されたエンブレムはもともと単色であり、その方向性の展開が想定されたものになっている)。
オリンピックエンブレムはT以外の文字への展開が前提にあったが、「T」と「L」という文字同士を結合させた劇場ロゴを同じように別の文字へと展開しようとする場合、「T」を表現した時と「L」を表現した時がかぶってしまう(もともとその2文字で1つの意匠になるように作っている)ため、それ以外の文字を表現することがそもそもコンセプトに含意されていないことが分かる。
剽窃したと仮定しても、わざわざ「T」と「L」を合わせたものを「T」と「円」のものと捉え直して別の文字への展開性を考えるなどといった、一旦分かれ道に逆戻りしてから別のほうを選んで進むような思考はむしろ「デザイナーには難しい・出来ない」といった方が良い。意匠を平面図形として見るのではなくコンセプトで見るからデザイナーなのであり、だからこそ「最終的にカタチが似てしまう」ことへの危機感があまり強くないという弱点を持つのである。
パラリンピックとの関係性
パラリンピックのエンブレムは、オリンピックのエンブレムの黒い部分と白い部分の色を反転させて、イコールを表したものになっている。取り下げられた後新しく採用されたエンブレムは同数のパーツの移動によってこれを表しており、これでもかなり画期的(下動画はコンセプトムービー)だが、旧エンブレムは、移動すら必要ない、まったく同一の配置でパラリンピックを表現し、かつ意匠自体が同一性(イコール)を表しているという意味で、前例のない作品に仕上がっている。
新エンブレムにおける最終4案のうちこのような「対」でもない平等性、同一性が示されていたのはA案のみであり、(審査員は新旧の選定で違うことには違うもののコンセプト自体が変わるわけではなく、デザイン的な発想を審査するという意味でも大きな変化は考えづらく)エンブレムの選定においては、おなじくA案の特徴でもあるパーツの分解による展開性(厳密には、正方形という展開の枠組みまで意匠の中に組み込んでいるのが旧案、そうでなく角度の自由な展開を可能にしているのが新案という違いはある)と、パラリンピックとの意匠上の共通性に重点が置かれていたと考えられる。そのため、旧エンブレム(=原案時点でこの両項目を満たしていた)を選んだのは決して「出来レース」ではないと思う。
「スポーツの力」
(参考)新エンブレムの選考時「応募の指針」
「日本らしさ・東京らしさ」
「世界の平和」
「自己ベスト・一生懸命」
「一体感・インクルージョン」
「革新性と未来志向」
「復興・立ち上がる力」
多くの人に共感してもらえること(共感性)
(参考)新エンブレム選考時の「審査にあたり考慮する項目」
東京2020大会の象徴となること(象徴性)
オリジナリティにあふれ、個性的であること(独創性)
デザインとして優れていること(審美性)
ライセンス商品や大会装飾など、さまざまな媒体で展開可能であること(展開性)
カラーだけでなく、モノクロや拡大・縮小で再現してもデザインイメージの変化が少ないこと(再現性)
原案
この原案が公表されて以降は、当初の説明との「矛盾」が指摘された。しかし、一番最初からすべてのコンセプトに対応した意匠が浮かんでいるわけではない(大本のコンセプト自体は揃えているのが普通である)。何度も配置を入れ替えていくうちに、あのコンセプトはここにこの意匠を取り入れれば表現できるんだという新たな発想が呼び起こされることがある。その発想を優先したいという考えに駆られ、優先度の低いコンセプトを表した意匠を削ることもある。そんな中でも、いざ公に出す際には、あくまで意匠として表せた範囲のコンセプトしか説明しないわけであり、だからこそ「原案」に対する説明と「決定版」に対する説明は違って当然である。矛盾ではない。ブラッシュアップしているのだから、違わない方がおかしいのである。では、原案に関する疑義を、過程とともに見ていく。
原案では、「T」という文字(DidotやBodoniというかなり有名な書体を参考にしている。ネット上でBlockというフォントとの類似点が指摘されているが幾何学図形で構成されたフォントは極めて多く、デザイナーの発想元としては説得力がない)から来たという発想が前面に出ている。のちに「TOKYO2020」になった部分が「Tokyo2020」になっていることもこれを示している。(“T”という、全世界のデザイナーが扱える題材を基にしたのがこういった騒動を呼んでしまったと捉えることもできる。新エンブレムでは組市松紋が発想の始点であり、日本以外のデザイナーが扱いづらい為シンプルにしても「似ている」という指摘がなされなかったといえる)。
Tを示すためには本来赤い円は不要であることから、そこに赤い円(≒日の丸)をそのままの形で入れたいという意図が介在すると考えるのが自然である。この時点で、「亀倉エンブレムを本当は参照していないのでは?」という疑義は言いがかりに過ぎないと分かる。
次に、原案が企業のロゴと似ているとの指摘を経て修正された案では、三角形を(大きな円の存在を意識した)新たな意匠に変えることで、より亀倉エンブレムを参照する度合いが高まっていることが分かる(「五輪のマークの真上に大きな円を描く」という方向性ではこっちのほうが参照していることが分かりやすい)。
しかしながら、この大きい円には色がついておらず、コンセプトよりカタチの見た目を優先した見方をするなら元々からあった日の丸の方が参照している感が分かりやすい部分はある(逆に言えばここで大きな円の存在が見えるのがデザイナーであるともいえる)。その弱点をふまえたのが、大きな円の存在を金・銀・銅のパーツで強調した(=三角形にあたるパーツを2から3に増やした)修正であった。原案に浮上していた商標上の問題を何とかクリアしたいという気持ちも、この修正を後押ししたのではないだろうか。この修正案は組織委に躍動感がないと指摘されたことを受けて対角線上にパーツを配置してパーツを2個に抑える修正を加えたことで、大きな円の要素は残しつつ原案のような躍動感も宿った作品となった。
なお、原案から修正案へ修正する過程においてより亀倉エンブレムを参照する度合いが高まったことで、亀倉エンブレムの参照先として当初設定していた小さい円の意匠を「亀倉エンブレムの参照先」だけに固定する必要がない(大きな円のほうで亀倉要素は十分カバーできる)状態になったため、元々あった「スポーツイベント」というコンセプトをもとに、「心臓の位置=左上」という配置を決めたと考えられる(動かせる場所は複数あり、後付けとは言い難い)。また、大きな円を強調するために躍動感という一種のスポーツイベント性を犠牲にできたのは、円を左上におくという部分でスポーツイベント性を表したからでもあるといえる。商標上の問題が意匠の修正を生み、結果としてこのようなコンセプトの取捨選択を引き起こしたのである。
あくまで自分がデザインをやるときの過程の話にはなるが、このようにコンセプトと意匠の取捨選択を繰り返す作業がブラッシュアップであるという感覚がある。「センス」的なもので見映えを調整するパートというのは正直メインではなく、デザインの軸は情報処理である。この件ではそういう点がいまいち社会の中で共有できていない恐ろしさ、また反知性主義的なものがそれなりに幅を利かせている現実がむき出しになった部分はあったようにも思う。
余談になるが、極端な話、見映えを調整するという点だけ考えていくと、このような意匠が生まれてしまう。「チ」「こし」だけ目立たせる必要性はどこにもない。こういった意匠を設計する作業というのはデザインとは言い難い。
無意識という恐怖
序盤にデザイナーは「『最終的にカタチが似てしまう』ことへの危機感があまり強くないという弱点を持つ」と書いたが、それに加えて、デザイナーがこれまで見てきた景色が無意識のうちに意匠に反映されてしまう部分はどうしてもある。
タイポグラファーであるヤン・チヒョルトの展覧会図録の表紙やバナーと似ているという指摘についても、この表紙では円の使い方や、塗りが写真・黒・金の3つになっていること、分割の発想がないこと、比率が異なること(詳細後述)から見て剽窃ではないと思うが、この表紙を見たことが無意識のうちに意匠づくりに影響した可能性は100%ありません、とは言えないのがさらに問題を更にややこしくしている。
前提としてこのデザインはtransitoという書体で書き表した時の「J.T.」が元になっている。まず、このフォント自体のデザインの意図を考える。縦線で占められる「T」「J」のメイン部分を縦長の長方形もしくはそれに近い形に変換して、最初に着目した縦線を回転させたオブジェクトである横線で占められる“T”の屋根部分は四角形とは異なるベーシックな図形である三角形で表現されている。また、“J”の端の部分や、ピリオドは円で表現されている。これは、アルファベットを、丸・三角・四角というベーシックな図形のバリエーションで表した書体である。
意匠の共通している部分と共通していない部分(カタチ、塗り、配置)を見ていく。まず、「T」と「J」と「.」という文字をこのフォント上で見たときに、縦長図形2つ、三角形が2つ、円が3つとなっている。体系的に作られているフォントをそのまま使う(上図)とすれば、縦長図形どうしも、また円どうしも違うサイズになるはずだが、わざわざ全て揃えてある。
色味については、ベーシックな塗りである黒と、それに負けることなくベーシックな雰囲気を有した金が用いられている。塗り分けについては、Tの屋根の部分にあたる三角形2パーツ、および縦長の2パーツは常に同じ色に塗られていることが分かる。円については流動的で、Jに含まれる円とTの横のピリオドが同じになっている(=左上に寄せたJと右下に寄せたTの対称性が強調される)か、Jの横にあるピリオドとTの横にあるピリオドとが同じになっている(=同じ記号であることが強調される)かの2通りがあるが、いずれの場合でもTの横にある円が、他の2つの円両方と異なる色を成すということはない(分離不可能性が示されている)。
先述した大きさという点から見ても、Tの横にあるピリオドと、Jの左端の円またはJの横のピリオドとの間には意図的に生み出されようとしている繋がりがあることが見て取れる。一方で、Tの横にあるピリオドは、横にある“T”とは別個のもの(記号)として存在している。“ T ”と並べたときの見映えの問題でサイズが調整されている部分は当然あるが、Tとの間に、“ T ”の特定の部分と同じ長さであるなどの手法を使って意図的に繋がりが生み出されようとしている痕跡はない。
これは「1文字をもとに作ったものからアルファベットすべてに展開する」というオリンピックエンブレム的な発想ではなく、「予め存在している“J.T.”という文字のセットをもとに1つの図柄を作る」という発想の表れと考えられる。1つの絵柄として作ることを考えているからこそ、本来の体系では揃っていないはずなのに概ね同じカタチをもつ図形の大きさをわざわざ統一するのである。
また、当然といえば当然だがこの表紙に展開性はない。特定の意匠の大きさ・位置・色を決める要素が表紙もしくはバナーの平面の中(“J.T.”の関係の中)で完結しており、意匠を運用していく上で意匠の上位に君臨する体系的な性質(システム性)がない。というより、これはフォントに含まれる図形の大きさを恣意的に統一するという作業を通じてフォントが元々有していた体系性をあえて破棄した作品である。
オリンピックエンブレムは、元々の発想としてはTと円をモチーフにしつつも、それらを極度に抽象化・分解することによって、「正方形の枠内に塗られるもの」という同じ水準のものとして扱うことを可能にし、同じカタチでも制限なく違う色で塗り分けることを許容することによって、3種の図形が描かれた正方形のパネルが常に絵柄を変えながら広がっていくイメージが込められており、この一連のシステム全体を東京2020大会の記号(独自性)にしようとしていたことが伺える。
システムを築くという部分こそ、初案の時点で既にこの意匠が有していた画期性であった。デザインというのは絵柄を描くことではなく、ビジュアルコミュニケーションの設計(によって問題解決を行うこと)である。しかし、それが伝わらなかった。発表時の様子を見ても、このシステム性を理解する者が然るべき役職に就いていたとは考えづらい。
どちらかというと、この意匠は例の劇場や例の展覧会の意匠というより正方形を敷き詰めるような意匠と座標上近しい意味を持つ記号なのである。
2028年に予定されているロサンゼルスオリンピックでは、「A」の文字が自由に変化するデザインが採用されている。これも可変性自体を記号にするひとつの例であり、デジタル展開の想定が必須のものとなった時代らしい発想といえる。
いざ(商業目的でないものではあるものの)デザインをやってみると、本当にこの偶然似てしまう現象というのはあって、既視感の正体を突き止めようと試しにGoogle画像検索を掛けると何らか引っ掛かかってしまうけどコンセプトが全然違うからそのまま出すというのはまああることである。まして、本職のデザイナーの人は商標登録されてるやつを避けてやっているから想像を絶するほどに大変だと推測される。例の劇場は商標登録されていなかったので発見も難しかったはず……。
亀倉信仰が今回の騒動を呼んだ部分は否めないので、そのあたりをちゃんと切り分けていく必要は当然あるが、今後こういったシンプルな意匠を採用することそれ自体が忌避されるようになってしまうのではないかという危惧もある。関西万博のエンブレムに結構クセが強いものが選ばれたのは「シンプルは危うい」流れの中もあってのことだと思う。
招致エンブレム
騒がれた時期には「招致の時のを使えばいいじゃない」という意見もあった。そもそも規則としてできないという問題は一旦置いておいても、これは乱暴な意見である。なぜなら、招致ロゴというのは「東京2020大会」つまりオリンピック・パラリンピックのセットに対して1つ作られたものだからだ。
元々オリンピックとパラリンピックとの関係性を含意して作られていないものをオリンピック用にして、これに合ったパラリンピック用のものを後から作るというのはそれこそコンセプトの「後付け」でしかなく、両方の大会に向けて作られた元々の作品への冒涜であり、またパラリンピックの著しい軽視である。単に似た感じの絵柄を2つ揃えれば良い、というものではない。「オリンピックとパラリンピックは本来平等のものであり、それを体現した2つのエンブレムを作る」という視点に最初から基づいてつくることこそがデザインである。
また、あえてエンブレム自体を評するとすれば、単色で表現することもできる意匠なのは良い点だが、桜の集まったリースであることから展開性という点では新旧の正式エンブレムに敵わない(「桜」以外のイメージを持たせることが難しく、真夏の開催にもそぐわない)部分もある。
「作ってみた」の敵わなさ
エンブレムが「騒動」となった際、様々な作品がネット上にアップされた。しかし、独自性を優先しすぎたあまり、五輪という大きなイベントにおいて必要な展開性や、再現性が弱すぎる(塗りを変えた時、単色になった時、Webサイト上のバナー等縦横比が極端な時、スポンサー企業のお菓子パッケージ等の極端に小さいものに印刷する時にも意匠の主要な特徴が維持されない)ものが多かった。もちろんこれらすべての条件を満たす必要はないが、条件を満たさない意匠を採用することによって別の効果がもたらされている必要がある、言い換えれば不十分さには意義を要する。旧パラリンピックエンブレムは単色での表現に向いていないが、その「向いてなさ」と引き換えにオリンピックとの平等性を体現しており、不十分さに意義がある。
具体的に一つ挙げるとすれば、隣接したものを違う色で塗り分けることによって何らかの境目を示している意匠の場合、衣服等1色で印刷される(白とその色との中間に位置する色を使えない)媒体では意匠の境目が全く見えなくなるし、単純にモノクロ印刷をする場合(白と黒との中間に位置する色=グレーを使える場合)でも境目が見えづらくなってしまう。その場合は、最初からオフセットを取ってカタチ自体が分離された意匠にするほうが望ましいだろう。
街中では時折意味不明な意匠を見かけることがあるが、一度デザイナーが手をかけて作ったものに対して、「作ってみた」的な継ぎ足しがなされることによって台無しになっていることが分かりやすいものも多い。誰にでも開かれているという強みがある分、デザインにおいては全員が同じ土俵にいることとなり、専門性が許容・尊重されづらいのではないだろうかと思うこともある。
おわりに
振り返ってひとことでいえば、「デザインは難しい」である。「過程より結果」という意見もあるが、デザインにおける結果には「コンセプト」という過程とみなされやすい項目も含まれる。再現が簡単そうに見える意匠ほど、それが出来上がるまでの過程は果たしなく長い。
これはデザインの一つの「流派」(といってもたぶん主流)に特有の考え方と呼ぶべきなのかもしれないが、基本的にクライアントから提示された題材から見てものすごく飛躍したデザインを提示することはしないものである。見た目的に綺麗だからこれを持ってこようという発想にはならず、あくまで文脈を読もうとする。「なぜそれをモチーフにしたのか」「なぜそのようなサイズ・配置・色になっているのか」「なぜここに差をつけたのか」などといった問いに対して、説得力のある根拠を持たないままに進めることはできない。言葉遊びで言えば、「リスモ」でいう音楽サービスのデザインで音楽を聴いているリスを持ってくる、「リボーン」という言葉を用いたデザインでリボンをモチーフにする、別の方向性だと口と鼻を覆う動作に関係するマグカップの底面に動物の鼻をつける、「o」という文字を含むデザインを円と線のみで表現する、漢字に含まれる「口」のパーツを何らかのものに置き換える、こういったことはいたって普通のデザイン的発想である。独自性がないと言ってしまえば悪く聴こえるが、それはクライアントの指定した題材から飛躍していないことの裏返しでもある。
また、「なんかダサい」と判断されたからこそ、過剰な叩きに繋がった部分も否めない。見映え先行のデザインはデザインとして危ういが、オリンピックという大きなイベントである以上、こういった部分にも配慮した慎重な合意形成のもとで進めていく必要があった…としか、今は言いようがない。
追記
このエンブレムに関する議論においては、グラフィックデザインの基本理論をまったく知らず、知ろうともせず、自分の中で直感的に良し悪しを決めてるのに、あたかもデザイン理論的に良くないかのような言葉で(『デザイナー語』で)武装して攻撃する方法が横行しているように感じられた。
一般の人間から見て直感的にしっくりこないというのは十分デザインへの批判になり得る以上、不用意にデザイナーと等しい場所に一旦立って、そのうえでデザイナーを蹴落とそうとするのは行き過ぎたやり方である。これはこのエンブレム騒動に限らず、TwitterのUIに関する議論等でも度々見られるパターンである。
また、こういった議論では、「センス」といった言葉が飛び交いがちである。「センス」という言葉は、創作における種々の細かい技巧・技術を「感覚」のひとことでまとめてしまういささか乱暴な語りに繋がる恐れがあり、使う際にはもっと慎重になる必要がある。
「センスがない」という言葉はかなり都合がいい。「工夫がない」などと作品にみられる技巧や制作者の技術について触れる形で言い換えず、定量化・一般化できないような「何か」が作品に働いていると捉えながらも、「趣味に合わない」などと“あくまで自分の主観では”悪く見えているという形で言い換えることもせず、あくまで制作者・作品側の「何か」が劣っていることにしたい、つまり非常に曖昧で都合の良い要求を叶えてくれる言葉なのだ。
作品に対する評価として「センスない」と言い放ったつもりでも、言葉の意味を考えればそれは制作者に対する評価として受け取られかねないことに留意し、また、最初から作者に対する評価として「センスない」と言い放った場合は、「神経を疑う」のように個人の人格に対するただの攻撃になっていないか十分に気を付けるべきである。批判における言葉のやり取りには、批判する者の考えの根本に制作者へのリスペクトがあるかどうかがはっきりと表れるといっていい。